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79 ある日の日常

 あれは、まだ戦争が始まっていない頃だったと思う。二人とも仕事のない日の昼下がり、エリーは台所で、自作した檻の罠に引っかかった鼠を見下ろしていた。

 別段珍しいことではない。そのままいつも通り処分するのだろうな、と思っていると、ちょっとこっちに来るようにと手招きされた。何事だろう、と思いながら、エリーの元へ向かうと、釘を刺すように彼女に言われた。

「とりあえず、黙って見ていてくれる? 何を言いたいのかは後で説明するから……」

 どこか緊張したような面持ちでエリーが言った。

「ああ、うん……」

 わけも分からないまま、当時の俺は曖昧に返事をした。

 彼女はパンをちぎって小さな皿にパンくずを落とした。そして、皿の上のパンくずに手をかざす。彼女の指先から透明な水が数滴こぼれ落ちる。落下した水はパンくずに染み込んだ。

 水のドーノを使ったのだろう。ドーノで生み出した水を、パンくずに染み込ませた。しかし、それで何をやりたいのかはまだ分からない。

 エリーはパン屑が載った皿を檻の中の鼠の前に置いた。すると、よほど腹が減っていたのか、鼠は瞬時に餌に飛びついた。勢いよくパン屑にかじりつき、あっという間に皿が空になり……そして、唐突に口から泡を吹いて、倒れた。

「……え?」

 俺は目を疑った。さっきまで元気いっぱいに檻の中を跳ね回っていた鼠が、今はぴくりとも動かない。まるで、毒を食らったみたいに。

「あたしのドーノはね。正確には、単なる水のドーノではないの。毒を含んだ水を生成するドーノなのよ」

 エリーが俺の頭の中を覗き込んだかのように、欲していた説明をした。

「今まで黙ってて、ごめんなさい。隠してたの。知られたら、気味悪がられるかと思ってさ」

 エリーの黒い瞳が寂しげに、檻の中で泡を吹いて絶命した鼠を見下ろしていた。

「あたしのドーノが知れ渡った故郷じゃ、そうだった。あいつに近寄ると、毒を盛られるぞ、なんて虐められたから。だから……あたしのことを誰も知らない王都では、極力隠しておこうと思ったんだけど」

 エリーの目が、恐る恐る様子をうかがうように俺の方を見た。

「やっぱり、一緒に暮らしてるあんたには言っておかないと。何かの拍子で、あたしが出した水を飲んでしまうような事態に発展してからじゃ、遅いから……」

 そう言った後、エリーは口をつぐんだ。気まずそうに押し黙ってしまった。

 確かに言われてみれば、エリーのドーノには不可思議な点がいくつもあった。『女神の抱擁亭』でドーノの鑑定の水晶を使ったとき、水のドーノらしくない色が混ざっていることをソフィアが指摘していたし、自分のドーノで生成される水は不衛生だからと言って、飲用はおろか洗濯にさえ一切使わない。重労働にも関わらず一階から三階の自宅まで水を運んでいる。

 不審な点はあった。だが、エリーの方から明かされるまで全く気づかなかった。それだけ彼女は慎重に振る舞い、己のドーノを正確に知られたくなかった、ということなのだろう。故郷と同じことが起きるのではないかと、不安に思って。

 そんなこと、起きるはずなんてないのに。

「なるほど。じゃあ、これからはお互い様ということになるね」

 俺は不安げにこちらを見つめるエリーに向かって笑いかけた。言葉の意味を測りかねたのか、彼女は目をしばたたかせた。

「……何が?」

「えっとさ、ほら、僕のドーノって周囲には内緒にしてるでしょ? エリーにも手伝ってもらって、さ」

「まあ……そうね」

 エリーが不思議そうに相槌を打つ。何を言いたいんだろう、と言外に含ませて。

「それで、一方的に借りを作ってるみたいな気がしてたけど、そうじゃなくなるなって思うと……」

 しどろもどろになりながら、言葉を続けた。

「打ち明けてもらえて、嬉しいよ。これで、僕もエリーと対等だ」

 ちょっと格好つけてしまっただろうか。照れくささがこみ上げてくるのを感じた。

 エリーはじっと俺の顔を見ていた。何を言っているのだろう、とでも言うように。

 俺はいたたまれなくなってそっぽを向く。余計なことを言ってしまった、後でからかわれるのかな……なんて思っていた。

 けど、これで良かったのだと思う。不器用でも、不格好でも言葉に出来たのだから。伝えたいことを黙っていたら、きっと後悔した。彼女が実は毒の使い手であることも、故郷では実は虐められていたという意外な事実も、僕にとってはどうでもいいことで、そんなことよりも、僕を信頼して秘密を打ち明けてくれたことがとても嬉しかったのだと言いたかった。

 良いんだ、別に。笑われても、からかわれても、彼女に伝わっていればいい。自分にそう言い聞かせていた。

「そうね、あんたに……これで弱み握られちゃったわね」

 言葉とは裏腹に、弾んだ声が聞こえてきた。

「絶対に誰にも明かさないでよ。マスターにも、ソフィアにもね? 絶対よ……ばらしたりなんかしたら、どうなるか分かる?」

 屈託のない声で言い、エリーは鼠の死骸が入った檻を持ち上げる。そのまま片付けてしまうのだと思う。

 多分、俺の伝えたいことは伝わったのだろう。

「はいはい。そんな恐ろしいこと、しないよ」

 俺が苦々しく笑うと、いつも通りの日常がその後は戻ってきた。

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