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78 破壊

 目蓋を開けたはずなのに、目の前は真っ暗なままだった。意識ははっきりしている。

 体を動かそうとしても、硬く縛められているようで、ぴくりとも動かせない。手足は勿論、胴体や首まで厳重に縄が巻き付き、椅子に縛り付けられているようだ。

 目隠しをされて、厳重に拘束されている。睡眠薬を嗅がされ、眠りに落ちた記憶だってある。それでも、今、自分がどんな状況に置かれているのか掴みきれない。

「どういうことだ……?」

 何気なくつぶやくと、声が出た。口に猿轡は填まっていないようだ。

 頬に吹き付ける風を感じた。そして、肌に照りつける太陽の熱を感じた。ということは、ここは屋外か……と推測をしたところで、聞き覚えのある声が耳朶を打った。

「おはようございます、カナタさん。それとも、お久しぶり、と言うべきかしら? お元気そうで、何よりですわ……」

 鈴を鳴らしたような甘い声。この不愉快極まりない声の主は、一人しかいない。

「マルチェラ……!」

 俺の人生を何度も壊してきた女が、再び現れた。難民と身分を偽り、俺に近づいてきた密偵の女。それが、なぜここに……?

 俺が歯がみしていると、急に視界が開ける。目隠しが外されたのだ。まぶしい太陽の光に一瞬目が眩んだが、徐々にその明るさに慣れていく。何度か瞬きをしているうちに、周囲の風景が鮮明に像を結んでいく。

 俺はどうやら、小高い丘にいるようだ。そこから平原を見下ろしている。眼下に広がっているのは、ここ一年お馴染みとなった風景だ。ぐるりと高い柵に囲まれ、数え切れないほどの天幕が並び、武器を持った兵士や馬が行き交い、所々にフォルツァの紋章が刻まれた旗が翻っている。

 俺が軍を抜け出す前と立地場所は変わっているが、これはフォルツァの遠征軍の陣地だ。その全貌を丘から見下ろしている。

「単刀直入に言います、陣地を今、焼き払って下さい。これは我が主の望みなのです」

 視界に映らないマルチェラの声が言う。首まで固定されているせいで、声が聞こえる方向に振り返ることも出来ない。俺が見ることが出来るのは、正面に広がる軍の陣地だけだ。

「……主とは、女王のことか?」

 マルチェラの要求を聞き流して、問い返す。

「その通りですわ」

 平然と女は答えた。

「陣地には、将軍を筆頭に我が主に敵対する貴族の中でも大物がおりますのでね。脱走した『死神』の手で残らず殺して貰えると、主にとって大変好都合なのです」

 戦争を推し進める諸侯たちの中でも、有力者がこの軍にはひしめいている。彼らと敵対する女王からすれば、フォルツァの遠征軍が逃亡した『死神』の手で滅んでくれれば、政敵が減って助かる、という算段か。

 俺は鼻で笑った。冗談じゃない。

「知ったことじゃない。女王の我が儘に付き合う義理などあるか」

 吐き捨てるように言う。下らない政治ごっこに巻き込まれるなんてごめんだった。

「あら、カナタさんたら鈍いのね。あなたに拒否する権利があるとでも?」 

 マルチェラが声を弾ませて笑う。

「拒否するなら、人質を傷つけますよ。ねえ、人質が誰だか分からないわけ、ないでしょうね?」

 粘っこい、含みのある声。にんまりとした笑みと共に放たれているであろう声を耳にして、俺はすぐに思い至った。

 まさか、とつぶやく暇すら与えられなかった。

 俺の固定された視界に、一人の人間がまるで荷物のように乱雑に投げ入れられる。

 地面に叩き付けられた痛みで小さなうめき声が上がる。手足をきつく縛られ、腹部には血で染まった包帯が巻かれている。長い黒髪が項垂れた顔を隠しているが……誰か分からないわけがない。

「エリー!」

 俺は彼女の名を呼び、駆け寄ろうとした。だが、想いとは裏腹に体はぴくりとも動かない。縄が一層強く自分の体に食い込むだけだった。

 マルチェラの甲高い笑い声が、晴れた空の下でよく響いた。

「陣地を焼いてさえくれれば、お二人でゆっくり過ごせる時間を後で作って差し上げますよ。その時なら、どうぞご自由に。キスでも、それ以上のことでもいくらでも……」

 襲撃される前に俺たちが何をしようとしていたか、この女は分かっている。待ち望んだ瞬間を、粉々に踏みにじられ、汚され、当てつけに放たれた嘲笑は耐えがたいほどに残酷だった。

 お前だけは、お前だけは、生かしておけない、許せない……!

 この女だけは、『死神』にならずとも殺意が募った。視界にちらとでも映った瞬間に、炭屑になるまで焼き殺せる。

「出てこいよ、マルチェラ。お前を焼いた後なら、陣地だってなんだって焼いてやるよ……!」

 理性を失い、俺は叫ぶ。だが、マルチェラは答えない。姿を現すことなどなく、ただただ嘲笑を響かせるばかり……。

「落ち着いて、カナタ。その女の言葉に耳を貸さないで……」

 か細い声が聞こえてきた。それはぎこちなく顔を上げた、エリーの声だった。

 その声に、俺は現実に呼び戻されたかのように我に返り、自分が反射的に怒りに支配されていたことを悟る。

「あら、口を利く元気があったのね。たくましいこと。ねえ、今の気分はどうかしら?」

 マルチェラが嫌みたらしい声で割り込んできた。

「あなたの策は全てお見通しだったわ。娼婦に化けて潜り込んでくることは勿論、ラシェルの街でアンヘリオに接触することも全て。私の手のひらの上で踊るピエロだったと分かって、さあ、今の気分はいかが?」

 人の神経を逆なでせずにはいられない笑い声が聞こえてくる。一旦落ち着いたはずの、俺ですら再び怒りがこみ上げてきそうになる。

 ましてや、直接言葉を向けられているエリーにはもっと堪えることだろう。

「何故アンヘリオとの接触を知っていた? 娼婦の件よりも一層、組織でもごく限られた人間しか知らないことなのに……」

 だが、エリーの声は弱々しくはあったが、冷静だった。

 ぴたり、と笑い声が止む。

「……つまらない女」

 興ざめした、とばかりに冷え切った声でマルチェラがつぶやく。

「まあ、いいわ。何も知らないまま、というのも可哀想だもの。教えてあげる」

 声に再び余裕が戻る。まるで、とっておきの話題をこれから披露するかの如く。

「単純な話ですわ。あなたたちの計画を知っている人間から直接、聞き出しただけです。……ちょっと手荒な方法でね」

 にぃ、と艶めかしい唇をつり上げて笑うマルチェラの顔が思い浮かんでくるような、得意げな声。

 もったいをつけるように一拍おいて奴は続けた。

「あの男はとても強情で、口を割らせるのに随分苦労したわ。ま、でも、所詮は人の親。愛娘を痛めつけたら、後は簡単なこと……」

 俺は、マルチェラの言葉をすぐには理解できなかった。誰かを拷問したことは分かった、でも、誰を相手にしたのかまで、即座に理解することはできなかった。

 だが、間もなく分かってしまった。確実に計画を知っている人物がいて、彼にはやんちゃな愛娘がいたことを思いだし……氷水を被ったように、体が冷たくなっていくように感じた。

 視界に映るエリーが、静かに息を吐いた。

「そう。マスターとソフィア……あんたたちに捕まって、殺されたのね」

 マルチェラが暗示した事実を、はっきりと言葉にした。

「ええ。あの光景、あなたたちにも見せたかったわ。娘が父親に助けを求めて泣き叫ぶ声と姿、それを知って父親はみっともなく娘の命乞いを始めて、仲間を売った……その後、彼はとっても面白いことを言ったの」

 喉を震わせ、女王の密偵は酷薄に笑う。

「これで娘は助かるのだろう? ……ですって。ああ、惨めなこと。用済みの捕虜になど、もはや何の価値もないことが分からないぐらい愚かだなんて」

 マルチェラの言葉が描いた、親子の凄惨な最期が俺の頭に浮かび上がる。勝ち気なソフィアの悲鳴、冷静さを失ったマスターの叫び声。それらを実際に耳にしたような心地がした。

 一年前、王都にいた頃は毎日のように二人と顔を会わせていた。俺には厳しい言葉ばかりだったけれど、どこか憎めない存在だったソフィア。カウンターの向こうから、俺を冒険者として、あるいは、一人の男として教え諭してくれたマスター。

 二人はもう、この世にいない。苦痛を極限まで味わわされ、人としての尊厳を完膚なきまで踏みにじられ、死んでいった……。

 唐突に告げられた二人の死。俺は打ちひしがれていた。怒ることも、嘆くことも出来ずに、ただ呆然としていた。

 エリーにとっては、マスターは冒険者時代から世話になり、組織に入った後も連絡を絶やしていなかった同志であり、ソフィアはかけがえのない友人だった。俺以上に二人の死に傷つき、動揺してもおかしくなかったはず。

 それでも、彼女は取り乱すことはなかった。

「……二人も……覚悟の上。仕方が無いことだわ」

 感情をナイフで削り落としたような声で、ぽつりと漏らした。

「要するに、あんたたちはマスターから情報を聞き出して、あたしたちをラシェルで待ち伏せたわけね。あのアンヘリオはあんたたちが用意した偽物で、あたしをわざと逃がし、カナタを追わせ、合流させた。そして、あたしたちが無防備な隙を見せるのを、それから……互いに心を通わせるのを待っていた」

 訥々とした声で語り終えると、エリーの目にまるで火を点したかのように鋭い光が宿る。

「あたしの人質としての価値が高まるのを待つためにね。あんたたちの一連の行動は、カナタを脅すための人質をおびき寄せ、出来るだけ価値を高めた上で確保することだから……!」

 俺とエリーの間に深い愛情が通えば通うほど、彼女の人質としての価値が増す。陣地での確保が失敗した奴らは、ラシェルの街で待ち伏せをしつつ、陣地を逃げ出した俺とエリーが仲を深め合うのを待っていた、というのか。まるで、実験動物の雄雌のつがいを同じケージに閉じ込めて観察するみたいに……!

 エリーの鋭い眼差しは、マルチェラの声がする方向に向けられている。恐らく、彼女の位置からはマルチェラが見えているのだろう。

「……ふうん。あなた、思っていたよりも頭は回るのねえ。腕っ節だけの野蛮人だと思っていたけれど、褒めてあげるわ」

 そう言って、せせら笑う腹の立つ表情も見えるのだろう。

「あんたこそ、正体を知るまで、嫌味と嫌がらせだけのただの陰険女だと思ってたわよ……」

 ぎり、とエリーが腹立たしく唇を噛みしめる姿が俺の目に映った。

 ふん、とマルチェラが鼻を不愉快そうに鳴らすのが聞こえた。

「さあ、余計なお喋りはここまで。カナタさん、ぼんやりしてないで早くやってください。我が主の敵を討ち滅ぼしなさい。さもなくば……」

 マルチェラの声が途切れる。すると、鋭利な鉄片がいくつも、エリーの周辺に、彼女をぎりぎり掠めて流星のように降り注ぎ、地面に突き立つ。

「あなたの愛しい人が……殺されてしまいますよ」

 マルチェラが煽る。鉄片はエリーを避けるようにして、地面に刺さっている。

 恐らく、マルチェラのドーノはエリーの腹に突き立てたあの鋭利な鉄片を生成し、飛ばす能力。急所に当たれば、重傷は免れない。今回はわざと外したが、次はないと奴は暗に言っている……。

 奴の要求通り、陣地を焼かなければ、エリーは痛めつけられる。飛来する鉄片かあるいは他の飛び道具で、死の寸前まで苦痛を与え続ける。俺がいくら硬く拒絶しようとも、奴らは要求を飲むまで止めないだろう。

 愛する人を苦しませたくなど、ない。だが……エリーと天秤に掛けられているのは、数千にも及ぶ人々の命。気に食わない将軍も、残忍な騎士や傭兵達も、フォルツァの平和を望んでいる組織の人々も区別することなく、焼き払えと言われている。

 もう、これ以上罪は重ねたくない。エリーにも誓ったのだから。自分は、彼女に相応しい人間になるのだと。

 それに、ここでマルチェラの要求に屈して眼前の陣地を焼いたところで、先は見えている。奴らはまた、次の要求を突きつけてくるに決まっている。利用価値がなくなるまで、エリーの命を盾にして、俺を兵器として使い続ける。そして、十分使い潰したと判断するやいなや、彼女も俺も、殺される。

 陣地を焼こうが、焼くまいが、どちらを選んでも大差は無い。俺の目の前で暴力を以て痛めつけられるか、あるいは俺が手を下す光景に心を痛め続けるか……エリーを苦しませることには変わりない。

 選べるわけがない。俺はどうすることも出来ずに、ただ黙って、多くの人々が行き交う陣地を一瞥した後、拘束されたエリーと視線が合った。

 俺はまともに目をあわせられないほど動揺したが、エリーは優しく微笑んだ。

「カナタ、心配なんてしないで。あいつらの思うとおりになんか、絶対にならないんだから……」

 俺を励ますように、勇気づけるように。この絶望的な状況下で、腹の傷の痛みやいつ命を奪われるか分からない恐怖を抱えているはずなのに、彼女はまるで感じさせない。

「俺の心配はいいよ……君だって怖いだろ」

 俺は震える声でつぶやいた。強がりだと思った。ただただ、俺を安心させるためについた優しく、強い嘘なのだと信じて疑わなかった。

 だが、エリーは微笑みを崩さぬまま、首を横に振る。俺の言葉を柔らかに、だが断固たる意志で否定する。

 エリーの掠れた声が、その場に響いた。

「怖くなんてない。だって、あいつらには……あたしをどうすることも出来ないんだから」

 得意げに、そしてあざ笑うように、くすりと笑った。

 俺はぽかんとして、彼女の言葉を聞いた。ただ、頭の片隅でなんとも言いがたい不吉な予感を覚えていた。

 彼女の発言に同じ感覚を覚えたのは、俺だけではなかった。

「……何を言っているの? 馬鹿馬鹿しい。神様が奇跡でも起こしてくれるとでも、信じてる?」

 マルチェラの声が聞こえた。ただし、何度も聞いた余裕たっぷりの嘲笑じみた声ではない。

「あなたにはナイフ一本どころか、スプーン一匙すら手元にない。服も靴も、体の隅々まで調べた。ロープを切って脱出することなど絶対に出来ない……」

 マルチェラはエリーを小馬鹿にして言っているのだろうが、どうもそうは聞こえなかった。まるでそれらしい理由を述べて、自分を安堵させようとしているかのように思われた。

 そう、そのはずだ。この状況をエリーがどうにか出来るはずはない。なのに、彼女の強気な態度は何だろう? 彼女の意志の強さ? ただ虚勢を張っているだけ? それとも……本当に、この場を打開する策を隠している?

 エリーが何をしようとしているのか考えた。実は奴らに決して見つからないところに、武器を隠し持っている? だが、敵はマルチェラ以外にも複数いると見た方が良い。例え剣一本隠し持っていたところで、あの傷ついた体では太刀打ちするのは至難の業……。

 そこまで考えたところで、俺は思い出したのだ。彼女はこの場をどうこうできるなんて、一言も言わなかった。あくまで、奴らの思うようにはさせない、と言っただけで……。

 その瞬間、俺は頭の中でばらばらの破片が一本の線となって繋がるのを感じた。

 彼女が最悪の選択肢を選ぼうとしているのを、俺はようやく悟った。

「やめろ、エリー! それだけは……それだけはやめてくれ!」

 俺は叫んだ。拘束を引きちぎろうと身を捩ったが、ロープが食い込むだけ。手を伸ばすことすら、叶わなかった。

 エリーは微笑を崩さなかった。俺の叫び声に、ただ可憐に微笑んだだけだった。

「ごめんね、カナタ。もう……遅いわ」

 彼女の微笑んだ唇から、赤い血がこぼれ落ちる。まるで涙を流すかのように。

 喉が破れそうなほどに叫んでいた俺の声が、ぴたりと止んだ。釘で打たれたかのように俺の目は、エリーの血に濡れた微笑みを見つめていた。

 目の前の現実を認めざるを得なかった。俺に過酷な選択を選ばせないように、そして、奴らの思惑通りにさせないために……彼女は自死を選んだのだ。

「毒……?! 一体、どこに仕込んでいた? いや、そんなことより解毒を……!」

 マルチェラの焦り声が聞こえた。人質に死なれたら困る、というところか。

 勝手が過ぎる。俺は奴の動揺した声に、虚ろに笑った。

「もう間に合わない。エリーの毒水のドーノには、解毒方法なんてない……」

「水のドーノじゃなかった、というの……?」

 マルチェラが呆然とつぶやくのが聞こえた。

 そうだ。エリーは表向き水のドーノだと誰に対しても偽っていた。俺ですら、彼女のドーノを正確に知ったのは、王都で共に暮らし始めてからしばらく経ってからのことなのだ。

 これほどの無力感を覚えたことは、かつてなかった。口から血を流すエリーをやるせなく見つめた。一緒に生きようと約束したじゃないか、嘘つき……と彼女を罵りながら……。

 過去の記憶が、蘇る。

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