77 待ち望んだ時
しばらくの間、エリーは肩を振るわせて泣きじゃくっていた。俺の胸に顔を埋めて、こみ上げる嗚咽を夜空に響かせながら、涙を流し続けていた。その間、俺は黙って背中を優しくさすって、彼女が落ち着きを取り戻すのを待った。
エリーが涙を流す姿は何度か見てきた。でも、今まで彼女が見せた泣き顔は、せいぜい涙を一筋か二筋こぼす程度のもので、これほど激しく泣く姿は初めてだった。
緊張の糸がぷっつりと切れたのだろうな、と思う。やっと俺を説き伏せることが出来て、張り詰めた覚悟が緩んだに違いない。その反動でこれほど激しく泣いているのだろう。
エリーには、ずっと苦労をさせてきてしまったな、と泣きじゃくる彼女の姿を見つめながら、痛感した。出会ったときから、今に至るまで……そして、多分これからも苦労も迷惑も一層掛けることになるだろう。
絶対に、彼女のことは幸せにする。固く誓って、彼女を強く抱きしめた。もう二度とこの手から離さないように。
嗚咽が収まって、エリーが顔を上げた。まだ頬は真っ赤で、目には泣き腫らした痕がありありと残っている。だが、その表情はよく晴れた日の空のように爽やかだった。
「みっともないところ、見られちゃった。わあわあ泣き叫んで、癇癪起こした子供みたい。ひどい顔、してるでしょ」
「そんなことないよ」
俺は、少し恥ずかしそうに笑う彼女に微笑みかけた。
「そこまで泣き腫らした顔は初めて見たけど。俺は嫌いじゃないよ。これはこれで、可愛げがあって」
俺は声を響かせて、笑う。
「泣きたいときはいつでもどうぞ。優しくしてあげる」
皮肉交じりの軽口には上手く対応するが、ストレートな言葉に、多分エリーは耐性がないんじゃなかろうか。ちょっと意地悪な気持ちで、だが、決して嘘ではない言葉を口にする。
俺の読みは当たり、エリーは何か言いたげにわなわなと唇を動かしたが、結局何も言えなかった。顔が再び赤みを増して、ぷいと顔を背けてしまった。
「あ、明日からどうする? 馬も物資も一応あるけど……どこに行くべきだと思う?」
エリーが声を不自然に上ずらせた。照れくさくて、強引にでも話題転換した様子だ。
してやったり、と追いすがって更にからかっても良かったが、苦し紛れに投げかけられた問いは、いつまでも放置できるものではない。
「それは……」
今更、アンヘリオを頼るのは難しいだろう。伝手がなければ西方への砂漠抜けは絶望的だ。かと言って、追っ手が掛かる可能性があるティエンヌ、フォルツァいずれの国にも長く留まるべきではない。かと言って他の近隣諸国に逃げるにも、やはりそう容易い話ではない。そもそも、俺もエリーもフォルツァからやってきた人間で、ティエンヌの地理には明るくない。他国の情勢にしてもどうやって向かうすらかも、真偽も怪しい噂程度のことしか知らない。
明日からどうすればいい? 死ぬことしか考えていなかった俺には、全く頭になかった問題だった。
ない知恵を振り絞って、俺は明日以降の目的地を考えていた。エリーも一緒に黙って考えていたはずだが、捗らない考え事に痺れを切らしたらしい。一回はあげた頭を、俺の胸にもたせかけた。
「もういいや。明日のことは明日、考えましょ」
「いや、追っ手がいないとも限らないんだし……早いところ移動した方が……」
まだ一度も出会してないが、いないと決まったわけではない。苦し紛れの話題転換とは言え、自分から言い出したことだろうに。ちらっと顔を上げた彼女にぎろりと睨まれた。
「あたし、疲れたの。どこかの誰かさんを縛り上げたり、ご飯作ったり、面倒な話をたくさんしてへとへとだから、もう難しいこと考えたくないの。ところで、あんたはちょっと前までぐうすか寝てたっけ?」
「き、気絶させられてたのであって、寝てたのとはちょっと違うんだけど……?」
形勢逆転、引きつった顔で揚げ足を取るが、どうにも分が悪い。案の定、エリーは鼻で笑って、それからまた俺の胸に顔を埋めてしまった。
「いいから、難しいことは明日。とにかく、今はあたしを労りなさい」
今にもかみついてきそうなぐらい不機嫌そうな声でエリーが言う。労れって、どうやって? 明日以降の行き先以上に、俺は悩んだ。
「えーと……肩でも揉もうか? それとも腰? え、不満? じゃあ、足か? ……いたっ!」
真面目に考えて言ったのに、エリーに無言で脇腹をつねられた。手加減したのか怪しく、本気で痛い。痛みで悶絶していると、エリーが俺の背中にぎゅっと抱きついてきて、ぼそりとつぶやいた。
「そういうのじゃない……。このぐらい、言わせないでよ」
拗ねたような、でも甘えるような響きの声。
流石に、自分が何を間違えたのか分かった。労れ、の一言から察するのは難しすぎたが、もう一言付け加えて貰ってようやく理解した。
まったく、素直に言えばいいのに。彼女の不器用さに若干呆れた。
「エリー……顔、あげてくれる?」
俺の胸に顔を埋めている彼女に、声を掛ける。
すると、彼女は恐る恐る顔を上げた。上目遣いになって怖々と、けれどもどこか待ちわびたような瞳で俺を見つめていた。
「ねえ、覚えている? 一年前、君と王都で別れた日のこと。別れ際に話した……あの日、君にお願いしたことを覚えているかい?」
俺は彼女の記憶を呼び覚ますように、ゆっくりとした口調で言うと、彼女の黒い瞳が考え込むように幾度か瞬きを繰り返した。
「……覚えてない」
目を反らしながら、ぶっきらぼうな声で彼女は答えた。
そうか、そうくるか。俺は心の中で独り言をつぶやいた。とはいえ、別に大した問題じゃなかった。彼女がそう言うなら、俺も少し意地悪をしようと思った。
「また、忘れたの? 君は本当、仕方ないなあ。じゃあ、思い出させてあげるよ」
芝居がかった動作で、俺はやれやれと肩をすくめた。
「ラクサ村での惨劇の最中に、雨が降る中で俺たちは一つ約束をしただろう? その約束を果たそうという話を、王都での別れ際に話したはずだ。そう、それが確か……ええと……」
俺はわざとらしく口ごもり、ちら、とエリーを見やった。
「……何だったかな。さっきまで、覚えてたはずなんだけど……思い出せないな」
真面目な風を装いつつ、その実噴き出さないように必死に堪えながら、俺はとぼけてみせた。
「ねえ、君は覚えてる?」
すると、エリーの無言の抗議の視線がちくちくと刺さる。しらばっくれるな、さっさと言えと目が言っている。だが、俺は気づかないふりをして、君こそ言えよと言いたいのを堪えている。
しばらくして、わざとらしい大きなため息が聞こえてきた。
「雨が降る前にしていたことの、続きをしようって約束……でしょ」
エリーがふてくされた様子で、つぶやいた。
「忘れるわけ、ないでしょ」
蚊の鳴くような、小さな声で彼女はぼやいた。そして、彼女は苛立ちを露わにして、整った眉をひそめた。それから、不意に俺の首の付け根に両手を回して、顔を近づけてきた。
「言わせないでよ、こんな当たり前のこと。覚えてるに決まってるじゃない……好きな人とのキス、ずっとしたかったに決まってる……」
今にも、唇が触れあいそうな距離。甘く、艶やかな声と熱を帯びた眼差しが、俺の理性を溶かすように誘ってくる。目の前に差し出された、よく熟れた果実のように蠱惑的な唇を今すぐ奪いたい気持ちを俺は抑えた。
「よく出来ました、その調子。でもさ、今後もちゃんと本当の気持ち、言ってくれないと……また、俺たちはどこかで勘違いしてすれ違っちゃうかもしれないよ?」
冗談を言うような軽い口調で、だが、大切なことを言い聞かせるように言った。
「俺たち、ラクサ村で和解する結構前からお互い好きだったみたいだけどさ。でも、つまらない誤解のせいで随分すれ違ってしまっただろう? それってすごくもったいないことをしたと思わないか。……そうじゃなくて、最初から素直に想いを伝え合うことが出来ていれば」
俺は彼女を見つめながら、頬に手を添えた。
「俺たちはもっと早く、愛し合うことが出来ただろうから」
そうすれば、エリーの腕を巡って俺が女王の狗になることも、ラクサ村での俺たちの不和も、マルチェラに穏やかな暮らしを引っかき回されることもなかった。今頃、王都で幸福な暮らしを送っていたかもしれない。
「そうね……本当に、そう」
エリーが、しみじみとした声で言った。
「けど、今からでも遅くはない。確かに、苦難も困難も今のあたし達の前には山積みだけれども……」
エリーは、柔らかに微笑した。
「二人で生きていくと決めたもの。きっと乗り越えていけるわ」
「……ああ」
俺は力強く、彼女の言葉に答えた。未来への不安は確かにある。でも……彼女と一緒なら、どうとでも出来るという確信が今の俺にはあった。
俺とエリーの視線が、絡み合うように、愛撫しあうかのように交わった。そしてどちらからともなく、吸い寄せられるように互いの唇に顔を近づけだした。
彼女の唇が、間近に迫った。俺はその瞬間、目を瞑った。
待ち望んだ瞬間が次の瞬間にも訪れようとしている歓喜に、俺は包まれていた。俺だって、エリーと同じ想いだった。誰よりも好きな人とのキスを、ずっとしたかったのだ。
彼女の唇の柔らかさとぬくもりを、それから熱い舌と甘い唾液までも、俺は遠慮無く味わうつもりでいた。堪える気など、さらさら無かった。愛情も、欲望も、区別が付かないほど混ざり合い、俺の体の中で煮えたぎっていた。彼女と唇を重ねたら、口付けだけでは済まず、彼女の全てを貪り尽くすまで自分を止められないだろうと確信していた。そのときが訪れるのを、俺は疑いもしなかった。ようやく俺は彼女を手に入れるのだと、間違いなく思い込んでいた。
エリーの声が聞こえても、まだ俺は分からなかった。ぐっ、という短い、言葉にならない不吉な声を聞いても、俺はまだ目を瞑っていた。
彼女の頬に当てたはずの手がすり抜けた。背中に回していた手が、急に彼女の体が固く強ばり、俺の腕から抜けた。それで、ようやく異変を感じて目を開けた。一体何事だろう、という風に。
エリーは俺から離れ、背中を丸くして身を縮めていた。うつむいた顔は、さきほどまでの赤みを失い、青ざめていた。そして、彼女の手は腹部を抑えていた。彼女の白い手が、身につけている衣服が、たちまち目にも鮮やかな赤色に染め上がっていく。真っ赤に染まった手の隙間からは、凶悪な刃が彼女の体を刺し貫いているのを見た。
エリーが、顔を上げた。苦痛に顔をゆがめながら、呆然とする俺に向かって、叫んだ。
「逃げ……て……」
俺は、その叫びを聞いても何も動けなかった。目の前の現実を受け入れられず、理解が出来ず……瀕死の重傷を負ったエリーを見つめることしか出来なかった。
その隙を襲われた。
背後から地面に引き倒された。抵抗する暇も無く、冷たい地面に顔を押しつけられる。頭を上げようにも、後頭部を足で踏みつけられているらしくぴくりとも動かせない。手足をばたつかせて抵抗しようにも、関節を極めた上で馬乗りにされているのかがっちりと拘束され、ほとんど身動きが取れない。
もがくことも出来ずにいる内に、口元に布が押し当てられる。鼻を刺すような刺激臭がした後、視界がぐにゃりと歪んだ。
前にも使われたことがある。即効性の睡眠薬だ、と理解したところで、どうすることも出来ない。意識が泥に飲まれていくように、遠ざかっていった。