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76 対話

 ほどなくして、スープが入っていた鍋は空になった。これほどたくさん食べたのは、一体いつぶりだろうか。腹にしっかりと食べ物を納めた満腹感が心地よい。

 このまま横になりたい、と切に思った。満腹感から眠気が生じていて、少しうとうとしていた。この状態で体を横たえたら、現実は冷たい地面であったとしても、柔らかい羽毛布団にくるまれているような安らかな眠りにたちまち誘われるだろう。

 でも、ここに俺がやってきたのは話をするためだ。のんびりと焚き火に当たって、エリーが作ってくれた食事に舌鼓を打つためじゃない。ましてや、そのまま寝入り込むためなどでは断じてない。

「それで、エリー。さっきも言ったけれど……」

「ね、カナタ。あんたはどこで選択を間違えて、今、こうなってしまったのだと思う?」

 口火を切ろうとした俺の声を、エリーが遮った。

 彼女の問いに、俺はすぐに答えなかった。即座に答えられるようなものでは、決して無かったから。

「真っ先に思い当たるのは……自分のドーノを女王に売ると決めたとき、だけど」

 慎重に記憶の糸をたぐり寄せながら、俺は思考を一つずつ口に出していく。

「戦争の道具として自分の身を売るなんて、どう考えても愚かな選択をした、と今なら思う。数え切れないほど人の命を奪うということが……どういうことか、まるで分かっていなかった……」

 俺は、隣に座るエリーをそっと盗み見た。焚き火に照らされた彼女の横顔は、赤々と踊る炎を無表情に見つめていた。

「君の想いを踏みにじってしまった。これ以上ないほど、最低の形で」

 悪意のある他人に利用されることがないように、俺に人前でドーノを使わないようにと言った彼女の気遣いを台無しにした。それだけじゃない、自分の腕のために大きな犠牲を払わせたのだと負い目を与えて、彼女の自由な意志を踏みにじった。

 自分のドーノと引き換えに彼女の腕を治したのは、彼女のためなんかじゃない。徹頭徹尾、自分のためだ。俺の我が儘を叶えるためでしかなかった。

 だが、俺の過ちはこんなものではない。もっと根が深いのだ。目を閉じれば、過ぎ去った過去がありありと目蓋の裏に浮かんでいく。どれも過ちばかりの、振り返りたくない過去だ。

 廃墟と化したラクサ村を発つ前日に、片腕を無くしたエリーを抱きしめながらも、彼女に拒否されたときに、俺が上手く彼女を説得できていれば。

 酒場で異形の者と化した女将さんにエリーが剣を抜く前に、俺が手を下せていれば。

 どちらか実行に移すことが出来たなら、貧しくも幸せだったあの頃の暮らしを今も続けていたかもしれない。

 だが、現実には俺にそんな器用なことは出来なかった。

 俺は腕を無くした彼女の不安を理解せず、ただ自分の気持ちにだけ振り回された。彼女の身に危険が迫ったとき、最も大切な瞬間に怖じ気づいて、何も出来なかった。

 生まれた世界からこの世界にやってきてエリーと出会って、少しは成長出来たと思っていた。

 でも、それは勘違いだった。

「どこで選択を間違えたか、という話だったね。それはね……そもそも、俺がこの世界にやってきたことが間違いだったんだよ。あちらの世界でトラックに轢かれて、そのまま死んでおけばよかった」

 淡々と、彼女の問いに対する答えを言葉にした。

「俺は弱い人間なんだ。自分の人生をやり直したい、なんて出来やしない願いを持ってはならなかったんだ」

 俺は空を仰いだ。宝石箱をひっくり返したような美しい星空に、冷たくあざ笑われているような気がした。

「そうかしら。あたしはそうは思わないけれど」

 エリーは問いかけるように、じっと俺の目を見つめた。

「逆に考えてみてよ。今こうなってるのは、あたしがあんたの想いを踏みにじったからだって。腕を無くしたあたしが、あの時、あんたを拒絶したから……と、言うことだって出来るんじゃないの?」

「それは……詭弁だよ。ただの屁理屈だ」

 俺はうめくようにつぶやいた。エリーの心境を何一つ思いやることもせず、強引に詰め寄ることしか知らなかった俺の愚かさと弱さこそが、全ての原因だというのに。

 俺の目に向けられていた彼女の視線が、地面に落ちる。

「ねえ、覚えてる? あたしが冒険者を止めるって話をしたときのこと。あの時、あたし……こう言ったと思う。今のあたし、あなたを両手で抱きしめることさえ出来ないのよ、て。そう言って、あたしは泣いたけれど」

 エリーが顔を上げた。目を細め、懐かしむような表情が浮かんでいた。

「今思えば、何でそんなことで泣いたんだろうって感じ。だってね、右手を失って、両手で抱きしめれないと嘆くなら、左手で右手の分まで抱きしめれば良いだけの話じゃない。そんなの、簡単なことでしょう?」

 エリーは肩をすくめる。

「あの時のあたしは、悲劇のヒロインとして酔っていたのよ。同じ酔うなら、お酒に酔う方がよっぽど可愛げがあるでしょうに」

 彼女は歯を少しだけ見せて、にっと笑う。

「馬鹿みたい。自分の愚かさも弱さも、逃げる理由になんてならないのに」

 彼女の笑みは、過去の己に向けられていた。愚かで、弱かった己を思い切り笑い飛ばしている。振り返って、湿っぽく嘆くばかりの俺とは全く正反対に。

 エリーのあっけらかんとした笑みと言葉に、俺は太陽を直視したようなまばゆさを感じて、俯いた。

「俺も……エリーみたいな人間に、なりたかったな」

 ぽつりと言葉が口から漏れる。

「君みたいに、過去の過ちから目を逸らさず、しっかり受け止めて。それをバネにして、未来に向けて行動できる人に……なりたかった」

 誰も、エリーを責める人などいなかったと思う。それでも、彼女は過去の己を顧みた。そして、危険極まりない組織の活動に身を投じて、俺を迎えに来てくれた。

 過去の悔恨を口先だけで、彼女は終わらせなかった。命を賭けて、自らの過ちを取り返そうとしている。それは、死に逃げようとした俺には決して出来なかったことだ。

 やはり、エリーは俺にとって憧れの人だった。俺の先をいつも歩いていて、追いつくことなど叶わない人……。

 言葉のやり取りがとぎれていた。エリーは黙っていた。ただじっと空を眺めていて、それから不意に口を開いた。

「大丈夫。カナタなら、なれるわ」

 エリーは事もなげに言った。まるで、なんでもないことのように。

「自分のことって、案外自分じゃ分からないのよね。だから、あたしが言ってあげる。あんたは……過去から逃げないし、未来に向かって行動出来る人よ」

「……そんなこと言っても」

 俺は声を震わせた。

「無理だよ、俺には。幾万の命を奪った罪を背負って生き続けるなんて……弱い俺には耐えられそうもない」

 そっと目を閉じれば、目蓋の裏に映るのは、どこまでも追いかけてくる死者たち。

 彼らに追われながら生きるなど、俺の貧弱な精神では耐えられそうにない。

 エリーのような、強靱な精神力の持ち主なら、辛抱強く小さな贖罪を積み重ねていつか許される日を迎えられるかもしれない、でも、俺には……出来っこない。

 地面に投げ出した手のひらに、ぬくもりを感じた。それは剣だこがあちこち出来た硬い、けれども自分よりも少し小さな手のひらのぬくもりだった。

「じゃあ、一人がだめでも、二人なら大丈夫ね。……これなら、なんだって出来るわよ。どんな大きな過ちも罪も、やり直せる……」

 彼女は俺の手に指を絡めて、そのままぎゅっと握る。彼女の手のぬくもりが、染み込むように俺の手に伝わる。

 一年前に肉塊と化け物と化した人々を手に掛けることを恐れたとき、彼女はこうして手を握ってくれた。

 彼女の励ましで、色んな危機を乗り越えてきた。それは今後もそうなのだろうか。また、何か大きな苦難にぶつかっても、その度に彼女は俺の手を握ってくれるのだろうか。

 俺は、目が回るような感覚に襲われていた。地面は何一つ動いていないのに、ひどい荒波に揉まれている船に乗っているかのように思われた。

 彼女の手を、握り返すべきなのだろうか。俺は決めかねた。

「エリー……俺、正直に打ち明けるとさ……。本当はね、俺は君と一緒に生きてみたいんだよ」

 自分で決められないことがひどくみっともなく思われた。だが、恥をかなぐり捨てて、正直に己の躊躇を口にした。

「君と一緒に手を取り合って生きられるのなら、どんな辛く苦しい目に遭おうとも、どこかに幸福を見いだせるような気がする。なんだって出来るような気がする。だからこそ、俺、今……迷ってるんだよ」

 声を絞り出すように、俺は一言つぶやいた。

「今度こそ、俺は……君を幸せに出来るかな?」

 それは一度、俺がしくじったことだ。果たしてもう一度同じことに挑んで、果たせるだろうか?

 エリーは唇を引き結んで黙り込んでいた。

 まるで祈るように目を一瞬だけ伏せ、素早く視線をあげた。そのとき、彼女の黒い瞳には、揺るぎない覚悟と決意が輝いていた。

「そんなこと、難しくないわ。あたしのことを、愛して。生涯、愛し続けて」

 彼女はそう言って、口元を綻ばせた。

「それだけでいいの。あたしの幸せなんて」

 ほんのりと白い頬を赤らめて、エリーは微笑んだ。それはどんな花よりも可憐で、愛らしい微笑だった。

 心臓が一際強く跳ね、その次の瞬間俺の中にそびえ立っていた堅固な壁が、音を立てて崩れていくのを感じた。壁の奥に無理矢理押し込んでいたものが、雪崩を打って流れ出ていく。

 俺は、エリーが絡めていた手を乱雑に振り払った。俺の力任せの行動に、彼女が驚き、呆然とした無防備なところを……俺は強引に胸にかき寄せ、両手で抱きしめた。

 抱き寄せたエリーは身を強ばらせて、荒く呼吸を繰り返していた。何が起こったのかまるで理解が及んでいない様子で呆然としている。

 俺は彼女の耳元に唇を寄せて、囁いた。

「……言えたね」

「え……何が?」

 エリーの困惑した様子の声が聞こえてきた。俺は声を響かせて、小さく笑った。

「君、一年前は……愛してほしいなんて言えない、って言っていたけど。今日は、言えたじゃないか」

 背中に回した手を、今度は彼女の頬に添えた。

「凄い進歩だと思う。離れてる間に、本当に成長したね」

 その手で顔を上げさせると、リンゴのように頬を真っ赤にして上目遣いで俺を見上げる彼女と目が合った。

「ん……だって……」

 恥ずかしそうに、だが満更でもない様子でエリーは口ごもった。

「カナタに……これ以上、置いて行かれたくなかったから。あなたにつり合う人に、隣に立っても恥ずかしくない人になろうと、この一年、頑張ったんだから」

 そう言って、彼女は微笑んだ。どこか誇らしげに。

 俺はまた、笑った。

「じゃあ、俺は君以上に頑張らなくちゃね。君につり合う人に、隣に立っても恥ずかしくない人にならなくちゃ……」

 手を添えた方とは反対側の頬に、唇を寄せた。そして、彼女の熱を帯びた頬に静かに口づけをした。

「愛してるよ、エリー」

 わざわざ言わなくても、エリーは知っていただろうし、ちゃんと伝わっていたように思う。でも、まだ一度も口にしていなかった言葉を、俺はようやく伝えた。

 俺の飾り気のない言葉を耳にすると、彼女の瞳からじわりと涙がこみ上げる。涙は止むこと無く、次々とこみ上げてきて、幾筋も玉を結んで、頬を滑り落ちていく。手で涙を拭い、しゃくり上げながら、彼女はつぶやいた。

「あたしも……」

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