75 囚われの身
鉛のように重たい目蓋をこじ開けると、うっそうと生い茂る木々とその隙間から満天の星空をのぞき見た。そして、耳に飛び込んできたのは薪が爆ぜる音。その音が指し示すように、少し離れたところに暗闇からぼうと立ち上がった焚き火の光が見える。周囲をよく探ろうと体を動かそうとしたが、全く身動きが取れなかった。
俺は手足を戒められた上に、木の幹に縄で括り付けられていた。全身を一分の隙も無く縛り上げられているために、首を巡らす以上の動作が何一つ出来なかった。
全身を撫でる夜の寒気に、俺はぶるりと身を震わせ、くしゃみをした。情けのつもりか厚手のマントが縄で括り付けている上から掛かっているが、膝の上に落ちている。剥き出しの上半身の寒さには何の助けにもならない。
襲撃者は俺を気絶させた後、念入りに縛り上げた上に木に括り付けて俺を放置している。ただし、ドーノを封じるための目隠しもせず、その上光源となり得る薪なんて悠長に焚いた上で。
襲撃者がフォルツァの遠征軍の追っ手のはずがない。奴らは『死神』の力を熟知しているからだ。なら、相手は通りすがりの追い剥ぎか? こんな人気の無いところに? 考えられないわけではないが、それよりももっと説得力のある答えが一つある。
俺のくしゃみが聞こえたのか、薪の傍らから人影が立ち上がった。灯りのともったランタンを掲げ、姿を見られることを恐れることなく俺の側へ近寄り、膝の上に落ちたマントを肩にかけ直した。
「おはよう、カナタ。……気分はどう?」
ランタンの明かりの中に、エリーの微笑が浮かぶ。唇は確かに微笑の形を取っているが、彼女の瞳は全く微笑んでなどいない。
ラシェルの街に置いてきたはずの彼女の姿に、俺は嘆息した。心の中で、アンヘリオのしくじりを詰った。エリーが一枚上手だったのか、あるいはわざと彼女を逃がしたのか……。
「最悪だよ」
俺はぽつりとつぶやいた。
「もう二度と、君には会いたくなかった。無理に生かされても、困るよ」
見せつけるように、ゆっくりと頭を振る。
「俺は過ちを重ねすぎた。君を幾度となく傷つけ、多くの人々の命を奪った。どうしようもない大罪人なんだ。だから、君の隣に立つ資格はないんだ。そうなれば……もう生きていく理由が俺にはない」
彼女の瞳に訴えかけるように、見上げた。
「だから、頼むよ。俺を死なせてくれ。俺のことはもう……忘れてくれ」
エリーは眉根一つ動かさなかった。何を考えているのか決して読ませない、仮面のような謎めいた表情で俺を見下ろしていた。
彼女はその表情のまま、ナイフを取り出し、膝をついて俺を縛るロープを断ち切った。
俺の胸に突き立ててくれれば良かったものを、と内心恨んだが、エリーは心の中の恨みごとなど素知らぬ様子で、にっこり笑ってみせた。
「ここにいても寒いでしょ。とりあえず、焚き火の傍で温まりましょ」
立ち上がると、彼女は俺に手を差し出した。
「そうそう、食事も作ってあるの。お腹、空いてるでしょ? 難しい話をするなら、まずは腹ごしらえしなくちゃ」
俺は彼女が差し出した手を一瞥した。
「行けば、俺の話を聞いてくれるかい?」
「もちろん」
エリーが鷹揚に頷く。
「じゃあ、行くよ。ちゃんと話をさせてくれるならね……」
だが、エリーが差し出した手を取ることなく、立ち上がった。
焚き火まで移動すると、エリーは手早く鍋に入ったスープを温め皿に注ぐと、柔らかそうなパンと一緒に俺に差し出した。
「……別に良いよ、お腹なんて空いてないし」
俺は差し出された皿から顔を背けた。悠長に食事などしたくなかった。
だが、言葉とは裏腹に体は正直だった。ぐう、と腹の虫が鳴いた。エリーがくすくす笑った。
「あんた、嘘つくの下手くそね」
再度押しつけるように差し出された皿を、俺は渋々受け取った。
スープの中身は茸や山菜、それから鳥の肉がごろごろと入っていた。一口飲むと、たちまち体中にスープの旨味と温かさが染み渡り、寒さに晒され続けた体がほぐれていくような心地がした。
「……美味しい」
素直な感想が口を突いてでると、エリーが嬉しそうに笑う。
「遠慮せずに食べてね。お代わりする?」
「いや……いいよ」
いらないと言った手前、流石にお代わりなどしては気まずい。が、エリーは俺の返事など聞かず、空の皿を俺の手からひったくって注ぎ、また強引に手渡してきた。
「残したってしょうがないんだから。食べちゃってよ」
二皿目だが、相変わらず山菜やら肉やらしっかり入っていて、湯気と共に立ち上る食欲をそそる香りが鼻をくすぐる。
「……拒否権がないなら、最初から聞かないでよ」
結局、ぼやきながらも俺は二皿目も受け取ってしまった。
手間暇掛けて作ったんだろうな、ということは見れば分かる。山菜や茸は周辺で採集したのだろうし、肉は多分彼女が狩ったのだろう。それに、調理に当たって水は必要不可欠だから、川から水を運んでくるのも重労働だったに違いない。ドーノが使えるなら楽だろうが、彼女のドーノは、決して口に入れる物に使ってはいけないから……。
単に腹を膨らませるだけなら保存食を囓れば済む話だというのにも関わらず、俺が気絶している間に一つずつ作業を進めていたに違いない。
何故、わざわざ手の込んだ料理を作ったのか。そんなことは考える間もなく、明らかなことだった。
「うんうん、これならちゃんと食べれるのね。よしよし」
俺の食事風景を満足そうにエリーは眺めている。旅の間、俺の食が細いことを随分気にしている様子だった。先を急ぐ旅だったから、保存食で凌ぐばかりだったが、本心では手間が掛かっても、温かくて、滋養がつくものを食べさせたかったのだろう。
「作ってくれて、ありがとう」
食事の手を一旦止めて、ぽつりと感謝の言葉を短く漏らす。
すると、エリーはじっと俺の顔を見たかと思うと、首をゆっくりと横に振った。
「ううん。これぐらい……全然、大したことじゃないから」
声を震わせると、彼女はそっと目頭を抑えた。