74 穏やかなときを
厩舎から馬を出すと、城門を閉ざされるぎりぎりのところでラシェルの街を出た。
街を出ると間もなく夜の帳が降り、灯りなしには一歩先の足下さえ覗えない。ランタンの頼りない灯りをつけて、馬を慎重に進めた。街から少し離れたところで、野宿にちょうどいい洞窟を見つけて横になった。早朝、空が明るくなるのと同時に目を覚ました。
俺が向かうのは、そう長い旅路ではない。馬を飛ばせば、昼前には十分に着くと聞いた。だが、急ぐつもりはなかった。馬には乗ったが歩かせ、のんびりと目的地を目指した。
もはや人目をはばかる気もなく、街道に堂々と馬を進めた。どこかの戦地から逃げ出した様子の兵士や傭兵たちの群れや粗末な手押し車を押し、妻子を伴い余所の街を目指す難民達とすれ違ったが、一瞥こそされたものの、誰も俺のことなど気にも留めなかった。
雲一つ無い爽やかな青空の下には、心地よい風が吹き渡っていた。何よりも今の俺はもう何も背負う物はなく、身軽だった。自分自身が風になったような快い気分で、昨日街の住人から聞いた湖を目指した。
昼下がりには、目的地へ着いた。少し足を伸ばせば、湖の漁業で生計を立てる小さな村があると聞いていたが、人里に生憎用はない。街道を外れて進み、人気の無い静かな湖畔に立った。
森林と山野にぐるりと囲まれた湖だった。水は透き通り、魚が水面下を行き交うのが見えた。海と違って波は立たず、水面は穏やかにたゆたい、周囲の風景をよく磨かれた鏡のように映し出していた。
水面に映るのは、周囲の風景ばかりではない。覗き込んだ俺の姿も、はっきりと映し出されている。
エリーが言っていたように、俺は随分やつれていた。頬の肉はナイフで切り落としたみたいに削ぎ落ちていたし、俺の目はまるで底のない空洞のように虚ろだった。ただ、それはこの一年の荒れた生活の傷跡ばかりではない。
『死神』の顔を小川の水面に見た時よりも、一層ひどい顔をしていた。それもそうか、と思う。『死神』がいなくなったあの日から、毎日のように同じ悪夢を繰り返し見ている。己の手で殺した死者達に追われ、復讐される夢を見て、水の底に沈められていくような恐怖と共にこの数日間目覚めている。幸い、エリーにはまだ気づかれていないようだが……一緒に行動を続けていれば、気づかれるのは時間の問題だろう。
俺は、『死神』ではなくなった。もう今となっては、あの残忍で冷酷な振る舞いは出来ない。何の抵抗もなく、他人を殺すことなど今の俺にはできっこない。
エリーは俺の変化を喜んでくれた。王都で別れる前の俺にすっかり戻ったのだ、と思ったのだろう。彼女が愛してるカナタが帰ってきたのだと確信している。その通りだと思う。だが、それ故に俺は彼女とは一緒にはいられないのだ。
確かに『死神』は俺の中にはもういない。でも、『死神』がやったことは消えない。数え切れないほど多くの人々の命を奪った。直接殺さなかった人々にも多大な恐怖と苦痛を植え付けた。
忘れてはならない。『死神』とは、俺なのだ。俺の体とドーノが、多くの人々を焼いた。奴が犯した罪は、俺の罪だ。『死神』は己の罪など考えやしないが、エリーが好きだというカナタは目を逸らせない。
俺の手は人々の血で醜く汚れている。そんな手で目映いほどに明るく、まっすぐな彼女の手を取ることが出来るだろう? だめだ、絶対にだめだ。彼女の綺麗な手まで、汚してしまう……。
俺には、もう何も許されない。エリーを憎むことは勿論、愛することも。それは、生きる原動力を全て失うことと同義だった。毎日夢の中で、俺の罪を詰り、押し寄せてくる死者たちに怯えながら生き続ける力は俺にはもう残されていない。
十分、俺は生きたのだ。色んな事に擦り切れ、傷つき、もうこれ以上、一日たりとも生きていきたくなどない……。
水面に映る自分の姿にもう一度目をやった。やつれた顔だけではなく、粗末な旅装に身を包んだ貧相な体が膝まで映っている。
これだけ見えていれば、十分。夥しいほどの死者を生み出した、恐るべき力を持つドーノが、俺自身を焼き尽くす時が来た。
ただ自殺するだけなら、首を吊ろうが、ナイフで胸を突こうが、なんなら目の前の湖に飛び込むのでも良かった。だが、それではいけない。俺は多くの人々の命を奪ったのと同じ方法で、同じ苦しみを味わい、自らの命を絶たねばならない。ささやかながらも、今まで奪ってきた数多の命への償いのために。
それはとても簡単なことのはずだった。この世界にやってきてから、数えることが出来ないほどに繰り返してきたのだから、呼吸の次ぐらいに馴染んだ動作と言っても良かった。でも、最後の一押しに躊躇っていた。
これまで葬った犠牲者達の最期の光景が、そうしようと思ったわけでもないのに思い出された。魔物であれ、人間であれ、どれも関係なかった。全身を灼熱の炎に焼かれ、炭と化していく激痛を、耳をつんざくほどの絶叫で表していた。数え切れないほどの犠牲者達の断末魔の叫びがこだまし、頭は今にも割れてしまいそうな気がした。
散々、他人にやってきたことを己自身にやろうとして、やっとその行為がいかに恐ろしいものであったか、震え上がっていた。
ただ一人、ドーノに焼かれても尚、悲鳴一つあげずに死んでいった人のことを思い出す。ラクサ村の『黄金の輝き亭』の女将さんだ。彼女は怪物と化しつつある己を理性が残っている内に焼いてくれ、と俺に頼んだ。願いが叶えられたとき、彼女は耐えがたい激痛を耐え、静かに死んだ。最期の姿を少しでも綺麗に見せようとしたのか、あるいは俺に負担を掛けまいとしたのか……彼女の真意は今になってはもう、分からないけれど。
マルコのように、何があってもその強力な力に溺れてはならない。そして、私のように、全てが終わってから後悔する人間になってはならない……。
女将さんが死の間際に残した言葉が不意に蘇る。
全て破ってしまったな、と思った。俺はマルコのように力に溺れてしまった。そして、今、女将さんのように全てが終わってから後悔している……。
女将さんに会ったら、きっと怒られるだろうな。彼女のいかつい顔と酒焼けした声で怒鳴られるのを想像するだけで、身が竦む。さて、己の体を焼くのとどっちが怖いだろうか……。
俺は、一度目を閉じ、深く息を吐いた。
湖のおだやかなせせらぎと鳥たちの軽やかなさえずりに、耳を傾けた。俺にとってそれは天上の音楽のように思われた。鳥たちが歌うのは、この世界との別れを告げる鎮魂歌だったのかもしれない。
目を開けた。水面に映る俺は、もう恐れを捨てていた。どこか晴れやかな面持ちで自分を見つめ返していた。いい表情だ、と我ながら思った。ひょっとしたら、人生の中で一番おだやかで満たされた表情だったかもしれない。
俺はようやく覚悟を決めた。
さあ、焼かれろ。自分が犯した全ての罪を背負って、耐えがたい苦痛の中で、無様に死ね!
心の中で叫び、俺はドーノの力を使おうとした。水面に映る罪深い男を焼き払おうとして……俺は、己の姿を見失った。
背後から襲われた、と気づいたときにはもう遅かった。地面に引き倒されていて、抵抗しようにも手足の自由は利かず、頭を押さえつけられて襲撃者の姿を目にすることも出来ない。必死にもがくが、状況は変わらない。
周囲への注意が散漫になっていた虚を突かれた。だが、それにしたって何の気配も感じなかった。これは……間違いなく、素人の仕業じゃない。
後頭部に稲妻のように痛みが走り、思考は中断された。そのまま、糸が絶たれるようにぷつりと意識が途切れた。