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73 おやすみ

 じっと堪えていると、ついにその時がやってきた。

 突然、見えない誰かに背中を押されたようにぐらりとエリーの体が傾いだ。何よりも慌てたのは本人だっただろう、涙がまだ残る赤い顔には、自分の身に何が起こったか理解さえしていないようだった。

 そうだ、俺はこの時を待っていたのだ。

 よろけた彼女の体を、俺は素早く立ち上がって肩を支えた。俺の腕の中で彼女は、まだ驚きから冷めていないように見えた。

「……え?」

「飲み過ぎだね、これは」

 俺は軽い調子で彼女に笑いかけた。

「あれっぽっちで?」

 愕然とした様子でエリーが言う。

「ここしばらく強行軍が続いてただろ? 疲れているのに、あんな調子で飲んだらそりゃあ悪酔いもするさ」

 俺は肩に置いた手で、彼女をそっとベッドの方向へ押しやった。

「酔い覚ましに少し寝たらどう? どうせ、時間はあるんだし」

「そうね……」

 眠たげな声でエリーが返事する。彼女が眠気に負けてよろけないよう、介抱しながらベッドに向かう。

「おやすみなさい、エリー」

 自らベッドに横たわったエリーに掛け布団を優しく掛けてやる。すると、その手を掴まれ、指を絡められた。思いがけない彼女の動作に俺の手が止まる。

「手……握ってて」

 恥じらうような、密やかな声がくぐもって聞こえた。言うかどうか躊躇うように一拍空いてから、彼女は続けた。

「実はね、陣地を出てから眠るのが、少し怖いの。目覚めたらカナタがいなくなっていそうで……また、離ればなれになりそうで……」

 彼女の、心細げな声が俺の胸をちくりと針のように刺した。

 だが、そんなものに構ってられやしない。俺は彼女の手を、慎重に握り返した。

「俺はここに居るよ。だから、安心して。さ、おやすみ」

 枕に埋めたエリーの頭が小さく頷いた。

「……うん。おやすみなさい」

 エリーが小さな声で返事をすると、間もなく安らかな寝息の音がしはじめた。

 俺はじっとその場を動かなかった。彼女に頼まれた通り、手を握り続けた。己の行為に何の誠意も籠もっていないことを自覚しながらも、手を離さずに、エリーのあどけない寝顔を見つめていた。この愛しい手や頬に口づけしたい欲求を堪えながら、許される最後の時まで彼女の側に居ようと思った。

 夕暮れ時まで長い時間が掛かるだろうと思っていた。そうであってほしいと密かに俺は願っていた。でも、俺の願いは虚しく、窓の外から夕日が差し込み、ドアを叩く無粋な音が部屋に響くまで、あっという間に時が過ぎた。

 名残惜しく彼女の手を離すと、俺はドアを開けた。見知らぬ男が一人、影のように気配を消して立っていた。年頃で言えば四十代ぐらいの、長身で細身の男だった。旅慣れた商人風の身なりをしているが、眼光が嫌に鋭く、ただならぬ気配を漂わせていた。

「あんたが、砂漠越えの案内人か?」

「そうだ。アンヘリオと言う」

 抑揚のない声で男が答えた。俺はマスターの古い友人という男を無遠慮に値踏みする視線を送った。

「お話はかねがね。マスターの息子のジョシュアからもよく聞いたよ、あんたには小さい頃に世話になったとな」

「どうやら、君は私を信用していないようだな」

 冷ややかに男が言う。

「ロレンツォと最後に会ったのは、二十年以上前だ。奴の子供など顔さえ知らない。確か娘だと手紙で聞いてはいるがね……」

 俺の出鱈目な発言を、アンヘリオは几帳面に正した。

 この程度の引っかけを乗り越えたからと言ってたちまち信用出来るわけではないが、何もしないよりはマシだ。彼を無言で部屋に迎え入れると、部屋の周囲に誰もいないことを確認してからドアを閉めた。

「彼女を砂漠を越えて、西方へ連れて行ってほしい。生活が落ち着くまで面倒を見てやってくれ」

「二人を連れて行くように聞いていたが」

 お前は行かないのか、と暗に男は言っている。

「俺は行かない。あんたに託す」

「どうやら事情があるらしいな。酒杯に薬を盛るような……あの様子を見る限りだと、眠り薬のようだが」

 アンヘリオは目覚める気配のないエリーを見ながら、つぶやく。

 俺は舌打ちした。ピッチャーとエリーのジョッキにだけ、俺が不眠のために使っていた薬を入れたのだ。部屋に置いた分の薬を酒場に持って降りるわけにいかず、わざわざ厩舎に繋いだ馬からまだ下ろしていない分を取りに行ったのだ。

 俺の不審な行動に気づくとしたら、カウンターの禿頭の男しかいない。彼には口止め料として余分に払ったというのに、なんと口の軽いことか。

「本当に一緒に来なくても良いのかね? 私が娘を捨てて姿を眩ます、などと考えもないお人好し、というわけでもあるまい?」

 アンヘリオは皮肉を交えて言う。俺は奴の皮肉を、鼻で笑った。

「俺がお人好しかどうかはさておき、あんたはきっちり仕事をしてくれるものだと俺は信じているよ」

「ほう、それは光栄なことだが……一体なにゆえかね?」

 木製のジョッキが、一瞬で炭屑へと姿を変える。ジョッキが音を立てて爆ぜる瞬間、アンヘリオはテーブルから距離を取った。無機質な目が、注意深く俺を見た。

「逃げたときには……あんたの前には『死神』が現れるからだよ」

 男の鋭い眼光を、俺は冷ややかに見返した。

 『死神』を知らない、ティエンヌの民など存在しない。一睨みしただけで、あらゆる物も人も焼き尽くす化け物を誰もが恐れている。その化け物が目の前に居て、脅しを掛けている。

 微動だにしないアンヘリオに近づき、俺はすれ違い様に軽く肩を叩いた。

「それは故意に逃げたときに限らない。あんたがへまをやらかして、しくじったときも同様だ。いかなる理由があろうとも、情状酌量の余地は一切ない……」

 声を低くして、囁く。死神の鎌を首元へ突きつけるように。

 アンヘリオは黙っていた。ただ、高まった緊張と恐怖を飲み下すかのように、喉を鳴らして唾を飲み込む音だけが聞こえた。

「何があろうと、スーナに彼女を送り届け、安定した暮らしを保証しろ。これが俺の依頼内容だ。彼女が望むと、望むまいと関係ない」

 これ以上、話すことは何もない。俺は部屋を出た。

 ドアを閉めると、俺はどっと疲労が押し寄せてくるのを感じた。『死神』らしく、俺は振る舞えただろうか? つい先日まで当たり前だった話し方も癖も考え方も、今となっては遙か昔に飛び去った思い出のようだ。断片的な記憶に頼るしかなかった。

 いくらマスターの知り合いとは言え、信頼できるかどうか怪しい男にエリーを託したくはなかった。だが、彼女と一緒にスーナに行くつもりは俺にはなかった。

 同行できない以上、しくじったらどうなるかとアンヘリオを脅しておくぐらいしか、俺に出来ることはない。

 俺の願いは、彼女一人だけで陰謀渦巻くフォルツァやティエンヌを離れ、遠い異国で、争いとは無縁な平和な暮らしを送ることだ。

 どうか、彼女に幸せな人生を。俺は祈った。この世界に神が居るかは定かではないが、それだけは叶えてほしいと心の底から願った。



 一階に降りると、酒場にはぽつぽつと客の姿があった。仕事終わりの職人達や流れの傭兵たちが、皆疲れた様子で言葉少なに酒を呷っている。この街は直接戦火にさらされてはいないものの、戦争による疲弊とは無関係でいられるものではないようだ。

 陰気な雰囲気が漂う酒場を抜け、そのまま厩舎から馬を出した。辺りを行き交う適当な住人を捕まえ、俺は訊ねた。

「この近辺に、綺麗な水鏡ができるようなところを知らないか? 湖とか泉とか……なるべく人目に付かないところで」

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