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72 杯を酌み交わしながら

 エリーの話によると、俺がエリーの腕を治すと決め、戦場へと旅だった後からマルチェラも王都から姿を消していたらしい。これまでの経緯と合わせて、『女神の抱擁亭』のマスターがマルチェラの素性を怪しみ、調査を始めたのだという。

 俺やエリーはわざわざマルチェラの身の上話を聞き出そうとしなかったが、出身地の名前と生家については辛うじて聞き出していた。

 ティエンヌとの国境付近の街で、生家は裕福な商家だった、という話だったが、エリーが実際にその街に行って調査をしたところ、そのような人物は存在しないと結論が出た。あれほどの美貌の女である、生まれ育った街で誰も彼女のことを知らないなどあり得ない話だ。

 マルチェラという人物が架空の人間であることが確定した。となれば、こう疑問を抱くのが自然だ。では、あの女は一体何者だ?

 本人を捕まえて尋問したわけでもなく、他の確たる情報が手に入ったわけでもない。だが、架空の人物を仕立ててまで俺とエリーに近づいてきた目的を考えてみれば、推測は出来る。

 しがない冒険者二人組でしかない俺とエリーには盗む金も失墜すべき名誉もない。奪う価値があるとすれば、戦争のあり方さえ変えてしまうような俺のチートじみたドーノしかない。。

 と言っても、俺からドーノを切り離して持ち去ることは出来ない。だから、マルチェラが狙ったのは俺だ。類い希な美貌を生かし、誘惑した。だが、失敗した。その次は嘘をついて、俺とエリーを引き離そうと画策し、『女神の抱擁亭』で騒ぎを起こした。恐らく、孤立した俺を慰めるなりなんなりする内に心を奪おうと思ったのだろうが、結局それもしくじった。

 それでも、あの女はまだ諦めなかった。己の手で誘惑することを諦め、今度はエリーの腕の治療と引き換えに、女王にドーノを差し出す取引を持ちかけ、ついに成功した。

「カナタのドーノをどこで知ったかだけど、多分ラクサ村の誰かが喋ったのでしょうね。人の口に戸を立てるのは不可能だもの、村を訪れた旅人だとか、役人だとか相手に、村を救ってくれた英雄の話を聞かせたくなるのも無理はない……」

 ジョッキの酒を煽ることもせず、エリーは淡々と話を続けていた。

「推測ばかりだけれど、外れてはいないとあたしは思うの。現に、軍に入った後に再度、あの女は姿を現したでしょう? それってあんたが逃げないように上手く操縦するためだと思うのよ」

「その通りだと思う」

 俺はエリーの言葉を肯定した。

「あいつは、俺のエリーへの憎しみをいつだって煽り立てた。ドーノで軍に貢献していれば、いつかその憎しみを晴らせる日が来るから……と言って、さ」

 自嘲の笑みが唇に浮かぶ。

「俺はあいつの操り人形だったんだ。自分の意志があるつもりだったけど、そんなものはまやかしだったわけか……」

 今更のように、あの女への憎しみがふつふつと湧いてくる。あいつはただ人を玩び、笑うだけの悪魔ではなかった。もっと狡猾で、己の目標のためなら他人の意志さえ、気安く踏みにじる悪魔だった……!

 俺は自ら、そんな悪魔と契約を交わした。奴が碌でもない人間だと分かっていたのに、マスターから警告だってされていたのに踏みとどまれなかった。マルチェラへの憎しみと同時に、己の愚かさへの怒りが抑えられない。

 こみ上げる憎しみと怒りでテーブルに置いた手が震えていた。すると、その様を見たエリーがゆっくりと首を横に振った。

「そう自分を責めないで。あいつは人を狂わせ、自分の思うように操るのを生業としているの。無理よ、素人には早々太刀打ちできるものじゃない……」

 エリーは宥めるように言う。

「あの女の被害にあっているのは、あんただけじゃない。フォルツァの遠征軍の将軍だってそう。少し前から愛人として取り入っているみたいで、どうやら将軍の決定に少なからぬ影響を与えているみたい」

「遠征軍の将軍、か……」

 思わぬ人物の名に俺は軽い驚きを覚えた。余所に男を作っているのだろう、という予想はついていたが、まさかの相手である。もっとも、マルチェラの気分で余所から娼婦をひっぱってきて、俺にあてがうことが出来るとなると、ある程度軍の中でも権力者が付いていないと出来ない芸当ではある。将軍が裏に付いているならそれも可能だろう。

「これも、推測になるけれど。あたしは娼婦に化けて、あんたの天幕に忍び込んだけれど……それもマルチェラの手のひらの上の出来事かもしれない。あたしが潜り込む隙をわざと作っておびき寄せて、潜り込んできたところを捕らえるつもりだったんじゃないか、って」

 確かに兵士達が差し向けられたタイミングは都合が良すぎる。まるで、最初から偽の娼婦の侵入を知っていたかのように。

「その口ぶりだと、マルチェラはエリーの身柄を確保したいと考えているようだけど……その理由は?」

 訊ねると、エリーは唇をつり上げて冷たく微笑んだ。

「言ったでしょ、マルチェラは女王の密偵だろうって。あたしの腕を治すことであんたは己のドーノを女王に差し出した。要するに、あたしには人質の価値があるってことを、マルチェラとそのご主人様はよく理解しているのよ、あんたが軍に加わった経緯を何も知らない諸侯の連中と違ってね」

 そう言って、ジョッキに残っていた残り少ないビールを呷る。まずい酒を飲んだように顔を顰め、空になったジョッキを置いた。

「王都で得体の知れない男達につけられたけど、それだって奴らの差し金だと思う。あたしがカナタから逃げ出さないか監視していて……もし逃げだす素振りがあれば、捕まえて、あんたを脅す道具にするつもりだったんでしょう」

 エリーは吐き捨てるようにつぶやくと、忌々しげに頭を振った。

「冗談じゃない。奴らの思うとおりに絶対になんかさせない……!」

 彼女の瞳には、マルチェラとその飼い主に対する強い怒りが見て取れた。

 俺は無言でエリーのジョッキを取って、ピッチャーから注いで手渡す。彼女は受け取るやいなや、ぐびりと音を立てて呷り、一息で半分以上飲み干してしまった。ジョッキを置いて、口元を拭う。

「ま、そういうわけだから……諸侯が率いる軍の追っ手だけじゃなくて、女王の密偵にも気をつけようって話よ。この後も何かとちょっかい、かけてくるかもしれない」

 エリーは頭に昇った血が下りてきたように、ふう、と一息ついた。

「さて、つまんない話はこれでおしまい。……もっと楽しい話、しましょ」

 そう言って、彼女はぞんざいな手つきでつまみに持ってきたナッツを口に放り込んだ。

「そういうわけで、カナタ。なんか面白いこと喋ってよ」

 屈託のない笑みを浮かべてエリーが言う。これまた懐かしさを覚えるやり取りに、俺は苦々しく笑う。

「そうやって、他人に面倒な話題を押しつけるのは相変わらずだね」

「ええ? あたし、今までそんなことした覚えないわよ。冤罪もいいところ、ひどいわ」

 エリーが白々しくとぼけながら、ジョッキを飲み干す。瞬時に空いたジョッキを受け取って注いでいると、彼女がじっと俺の顔を見ていることに気づいた。

「随分、痩せたわね。やつれたって言うべきかしら?」

 心配そうにエリーが言う。並々とビールが注がれたジョッキを渡すと、今度はそのままぐびりとはいかなかった。一度テーブルに置くと、エリーは空いた手を伸ばし、俺の頬に触れた。

「この一年、ちゃんとご飯は食べてた? きちんと睡眠は取れてた?」

 驚きの目で彼女を見返すと、エリーは悲しげに微笑んでいた。

 頬に触れた彼女の手が、まるでうららかな日差しのようにあたたかく、心地よい。このまま、彼女の手を枕にしてまどろんでいたいとさえ感じた。でも、そんなことが許されるはずもない。俺は出来るだけ自然に、彼女の手が頬から離れるようにそっと顔を背けた。

「ここ数日、強行軍が続いているから。ちょっと疲れてるんだよ」

 食事も睡眠もまともに取れなかった、この一年の生活を事細かに説明するつもりはなかった。俺は曖昧に言葉を濁した。

 彼女も深掘りするつもりはないらしい、それだけ聞いたら十分だと言うように深々と頷いた。

「そう。ま、砂漠を越えてスーナに着いたら、いっぱいご馳走食べて、ゆっくり寝なさいよ」

 それだけ言うと、注がれたばかりのジョッキをまたエリーは呷った。先ほどから勢いが落ちた様子はない。常人なら既に酔いが回り出してもおかしくないが、顔色一つ変わっていない。

「あっちは随分、裕福な国で統治もしっかりしてると聞くわ。だったら、こっちみたいに下らない戦争や殺し合いなんて無縁の生活が向こうにはあるのかもしれない……」

 見知らぬ、遠い異国の風景がその目に映っているかのように細め、ふふ、とエリーが唇をほころばせる。

「向こうに着いたら……二人でまた、暮らしましょうよ」

 ささやくような、小さな声でエリーがつぶやいた。

「もう剣も弓も……ドーノもたくさん。そういう物騒な物はもういらない。畑を耕すのでも、商売に打ち込むのでも、いい。ただ、穏やかに過ごせたらなんでもいいから」

 エリーの頬に、ほんのりと朱色が差している。恐らく、酔いとは別の意味で。

「そうすれば、あたしたち、きっと元通りになれる。……ねえ、そう思わない?」

 俺は彼女の瞳から目を逸らせなかった。

 体は石像のように固まり、身動きが取れそうになかったが、心臓だけが力強い鼓動を続けているのを感じた。

 彼女の言葉が描いた暮らしの風景が、俺の目にも朧気ながらも見えた。肥沃な大地に体がくたくたになるまで鍬を振るった、あるいは、交易品を売り払った馬車を引き連れた、俺の後ろ姿がある。そのまま家路につけば、彼女が家事の手を止めて笑顔と共に俺を出迎えてくれる……かつて王都の狭い家の中で過ごした、貧しいながらも充実した日々のように。

 多分、これは世界中のあちこちで当たり前に繰り広げられている風景。ささやかな幸せの日々、誰もが夢見て、多くの人々が手にしている暮らし。かつての自分さえ、この掌に納めていた夢のような時間。

 だが、今の俺にとっては……あまりにも遠く、まぶしすぎた。

「君はきっと新天地でも上手くやるよ。でも、俺は……」

 弱々しく微笑み、見せつけるようにゆっくりと頭を振った。

「自信ないな。何もかも元通り、なんて……」

 ぽつりとつぶやいた。すると、俺の向かい側に座っていたエリーが立ち上がり、俺の前に立った。

「大丈夫よ。カナタなら、出来る。心配する事なんて何にもないわ……だから、ごちゃごちゃ言わずに一緒に来なきゃだめよ」

 包み込むような優しい微笑を浮かべ、エリーは言う。そして、その下げた目尻から一筋の涙が滴り落ちる水滴のように、こぼれた。

「あたし、あなたと一緒にいたくてここまで来たのよ……」

 赤みを帯びた頬を、涙がゆっくりと滑り落ちていく。滴が顎を伝うと、エリーは目元を手で拭った。

 俺はその様をじっと見ていた。彼女が流した涙が、まるで自分の心にまで染み込んでいくような気がした。

 幾多の困難を乗り越えて、エリーは俺を迎えに来てくれた。彼女を強く突き動かしたのは様々な理不尽に対する怒りだけじゃない。

 それは、俺への愛情。別れて一年経っても、俺が全く別人のように変わり果てても、それでも彼女の想いは変わらなかった。

 俺は今、葛藤していた。寂しげに涙を流した彼女を、この腕で抱き留めるか否か、で。彼女の愛情に応えたくて仕方なかった。彼女が多くのものを俺に捧げてくれたように、俺も彼女にできる限りのものを捧げたかった……!

 だが、現実の俺は何もしない。優しい言葉を掛けるわけでもなく、拒絶の言葉を投げつけるわけでもなく、ましてやエリーを抱き寄せようとはしない。ただ黙って、彼女の赤い頬を見つめていた。

 堪えろ、と俺は自分に言い聞かせた。もうすぐ、もうすぐだから。もう少しだけ、このこみ上げる感情を我慢できれば……俺は、彼女を解放することができる。


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