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71 逃避行

 その後、辺りが明るくなるのを待って俺たちは出発した。昨日と同じく、悠長な旅路ではない。追っ手に追いつかれまいと馬を走らせることに集中し、休憩は最低限度だった。

 だが、その少ない休憩時間には、昨日までになかった和やかで打ち解けた雰囲気が俺とエリーの間にはあった。他愛のない会話があり、自然な笑顔があった。馬を走らせている内に、この旅が遠征軍を敵に回した命がけの逃避行ではなく、王都から依頼を受けて向かう道中と錯覚してしまいそうになった。

 交代で睡眠を取った後、夜明けと共に出発した。

 エリーが言った通り、昼頃には目指していたラシェルの街にたどり着いた。この旅の間、追っ手には警戒していたが、影がちらつくことさえなかった。

 ラシェルの街は地方の一都市といったところで、さほど大きな街ではない。城壁に覆われ、街への門には兵士が立っていたが、特に呼び止められることもなく、俺たちは街へ足を踏み入れた。『死神』の名はティエンヌ中に広まっているだろうが、その顔を知る者はほとんどいない。兵士達に呼び止められまいかと心配していたが、杞憂に終わった。

 『栄光の杯亭』という酒場で、砂漠越えの案内をしてくれるという人物に落ち合う予定らしい。通行人に訊ねると、すぐに場所は知れた。何の障害もなく、俺とエリーは目的地へたどり着いた。

 昼過ぎという酒場には人がまばらな時間帯だった。がらんと空いた酒場のカウンターに立つ、マスターと思しき禿頭の男に、エリーが話しかけた。

「アンヘリオという男はいる?」

 禿頭の男が、胡乱げな目でエリーを見た。

「どこから来た?」

 愛想の欠片もない声で男が言う。

「山を五つ超え、川を三つ下った先の村から」

 恐らく合い言葉なのだろう。エリーが淀みない声で応えると、男はやはり無愛想に言い放った。

「奴は夕刻にこの店に来る。暇を潰して、出直しな」

 今から少なくとも四時間程度、時間を潰す必要がある。追っ手の影はないとは言え、旅の荷物を抱えて、街中をうろつくのは避けたい。

「部屋は空いてる? 旅の疲れがあるのでそれまで休みたいの」

「二人部屋でいいかね」

 禿頭の男の目が、エリーの後ろに立つ俺の姿をちらと見た。

 追っ手の影はないとは言え、気を抜くには早すぎる。大部屋は勿論、個室にバラバラで休むのも身の安全を考えるなら望ましくはない。

「それでいいわ」

 男が差し出した鍵を受け取り、俺たちは二階の部屋に向かった。

 部屋に着いて荷物を置くと、エリーが大きく伸びをした。

「これで一段落ね。まだ安心するには早すぎるけど」

「ああ、そうだね」

 俺が答えると、エリーはちらと顔色をうかがうように俺の方を見た。

「ねえ、時間もあるし、外にも出られないし……それなら、部屋でちょっと飲まない? 無論、飲み過ぎにならない程度で、だけど」

「……お酒? 好きだね、本当に」

 俺は少し呆れた声で言った。禄に休憩もせずに三日間走り通しだったのに、体を休めよう、という気にはならないのだろうか。少しでも隙あらば飲もうとするなんて、彼女の酒好きは一年経ったところで変わっていない。

 俺の呆れ声に、彼女はご不満のようだ。切れ長の瞳で、きっと睨まれた。

「べ、別に良いでしょ! あたし、しばらく飲んでないし。それにこの後砂漠越えになるなら、飲む機会だって早々なくなるだろうし。……それにさ」

 俺を睨んでいたエリーの目が、今度はさっと逸らされる。

「あんたと久しぶりに飲みたいと思ったって……悪くない、でしょ」

 しどろもどろ、エリーが言う。目が宙を泳いで、それから咳払いをして言葉を付け足す。

「ほら、あんたにはいっぱいお酒奢って貰う約束してたし。履行するチャンスをあげようってこと、感謝しなさいよ」

「え、いや……そんな、いきなり言われても」

 とってつけたような一言に、俺は面食らう。確かに、そんなやりとりを昔はしてたけれど。

 どう答えるか迷って、でも、結局答えは一つしか無い気がした。

「……分かったよ」

 俺は不承不承、答えた。

 エリーが望むなら、俺に断る権利はない。それは今に始まったことじゃない。

「じゃあ、下の階からもらってくるよ。ビールと適当なつまみでいいよね」

 俺はそれだけ言い残すと、ドアを開けた。

「……うん」

 エリーの弾んだ声を背中越しに聞いた。同時に、目には見えないけれど、彼女の表情も容易に想像できた。ちょっと恥ずかしそうに目を伏せて、でも、喜びを隠しきれずに微笑んでいる……。

 部屋を出ると、閉めたばかりのドアにもたれかかって、ため息をついた。手のひらを胸に当てれば、感じる。心の奥底に仕舞っていたはずの感情が呼び覚まされていくのを。いつまでも、この気持ちを堪えられるものではないことを。

 至極当然の話かもしれない。彼女への想いは、憎しみで封じたはずだった。でも、憎しみが偽りと分かった以上、いつまでも封じられるわけがない。むしろ、際限なく膨らんでいくことは目に見えている。彼女が俺に冷たい態度を示すならまだしも、隠しきれない好意を感じるようでは、尚更。

 この状況は、どうにかしなければならない。俺はその場に留まって、考え始めた。

 このままでは、いけない。



 ビールとつまみが載ったお盆で両手が塞がっている。ドアを開けてくれと声を掛けると、エリーが旅装を解いた身軽な格好で待っていた。粗末なテーブルとセットになった椅子から立ち上がって、出迎えた。

「随分、遅かったじゃない。下の酒場に行くだけなのに、どうやったらそんな道草食えるの?」

 エリーが盆から下ろすのを手伝いながら言う。二人でジョッキ二つとピッチャー、おつまみのナッツの皿を、盆からテーブルに並べていく。ジョッキには今にもこぼれそうなぐらい並々と注がれている。おまけに巨大なピッチャーにも目一杯ビールの海が広がっている。

「ちょっと厩舎に行ってたんだよ。君がドワーフ顔負けに飲んだら、手持ちの路銀じゃ足りないから、鞍に忍ばせておいたお金を取りに行ってたんだ」

「もう、飲み過ぎない程度にするって言ったじゃない。あんたは人を信用しなさいよ」

 拗ねたように唇を尖らせて、エリーが言う。

「信用があるからこそだよ」

 俺は肩をすくめた。

「くだらない言い争いしたって、折角のお酒がまずくなっちゃう。……とにかく乾杯ね」

 エリーのかけ声と共に、軽くジョッキを打ち鳴らす。舌を濡らす程度に口をつけてジョッキを下ろしていると、エリーは俺とは対照的に、豪快にジョッキを傾けて、まるで海の水を飲み干そうとしているような勢いで酒を呷っている。ぷは、と息を吐いて、口元を拭いながらジョッキを置いた頃には、中身は底が見えそうなぐらい減っていた。

 感心を通り越して、呆れるほどの飲みっぷりだ。相変わらずだ、と思った。そして、同時に思う。

 これなら、上手くいきそうだ、と。

「そういえば……まだ、詳しい話は後でするって言って、そのままだったわね……」

 すっかり少なくなったジョッキを置いて、エリーがふと思い出したかのようにつぶやく。

「えっと、何の話だっけ?」

 エリーが言う話題に心当たりがないので訊ねると、たちまち彼女の表情が険しくなった。

「……マルチェラのことよ」

 眉間に深い皺が刻まれる。

 思い出した。陣を脱出した日に、マルチェラのことが少しだけ話題に上がった。詳しい話は後日、と確かにエリーは言っていた。

 不愉快な気分になるのを堪えてでも、エリーがわざわざ話題にするのだから、恐らく重要な意味があるのだろう。俺としてもあの女の話などしたくもないが、聞かざるをえないようだ。

「どういう話があるのか、分からないけど。とりあえず、聞かせてくれる……?」

 話を促すと、エリーは頷き、口を開いた。

「あの女は、戦争による難民なんかじゃなかった。女王の飼い犬……密偵よ」

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