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70 目覚め

 意識を取り戻した瞬間、溺れる寸前のような息苦しさに襲われた。貪るように息を吸い、全身が汗でびっしょりと濡れていたことを自覚した。鼓動は、今にも心臓が破れてしまいそうなほどに強く、やかましかった。

 今は陣地を発った日の翌日。追っ手の目を避けるために、人里には立ち寄らず、森の中で野営をしている。追っ手と言っても、炭人形が追いかけてくるわけではない、生身の兵士達が追いかけてくるだけだ……。

 悪夢から目覚めたことを己に言い聞かせ、体が落ち着くまでにしばらく時間が掛かった。呼吸が落ち着き、汗が引いてきたところで、ようやく俺は体を起こした。

「ううん……」

 エリーの声が聞こえて、慌てて振り返る。起こしたのかと思ったが、どうやらちょっと大きな寝言らしい。体に蓑虫のように毛布を巻き付けたまま、健やかな寝顔を晒し、ごろりと寝返りを打っただけだった。

 はあ、と大きく息を吐いた。見張りのために起きておく、とエリーは言っていたような気がする。でも、彼女だって疲労の極みにあったのだ。責めることは出来ない。

 とにもかくも、万が一にも、起こさなくて良かった。悪夢と現実の区別が曖昧なまま、彼女に声を掛けられたら、俺はとんでもない醜態をさらすことになっただろう。夢の続きを見ているつもりで、助けてくれとか見捨ててくれるなとか、言って縋る羽目になったかもしれない。

 俺はエリーを起こさないよう気をつけながら、立ち上がった。近くの水場で顔を洗おうと思ったのだ。寝入り込んでしまった彼女に代わって朝まで見張りをしようと思ったから、残った眠気を飛ばしたかった。

 川に向かう間に、夢の内容を思い返していた。出てきた場所は全て見知った場所だった。最初は夢の中で悟った通りラクサ村。その次は、初めて軍勢を焼いた国境近くの草原。その後に出てきたのは、ティエンヌ国内の光景。砦に城、市民が多く住む街……全て、俺が実際に焼き払った場所だ。

 だから、どうしろと言うのだ? この異世界の住人たちは天使や悪魔の仕業とする神秘的な考えを持つが、現代日本で生まれ育った多くの人は、夢は夢を見た本人の深層心理の表れと理解する。俺もその一人だ。だから、俺はただ、疲弊するだけの悪夢を見た自分を蔑んだ。

 馬鹿馬鹿しい、過ぎたことを思い返して何になるのだ。助けも許しも、今更乞うてどうする。何もかもが遅すぎるというのに……。

 ほどなくして、目指していた小川に辿り着いた。水は底が見えるほどに澄んでいて、手を浸せば冷たく心地よかった。顔を水で洗うと、心地よい清涼感があった。持ってきた手ぬぐいで顔を拭くと、なんだかさっぱりした気がする。

 手ぬぐいから顔を上げると、水面に自分の顔が映り込んでいることに気づいた。

 鏡を見る習慣がないので、久しぶりに己の顔を見た。最後に見たのはいつだったか覚えていないが、自分はこんな顔立ちだっただろうか、と不思議に思う。水面に映り込む顔が、見知らぬ誰かのような気がしてならない。ここ一年、食欲も睡眠もまともに取れて無くて、そのせいでやつれて見えるせいか……? 自分の顔が自分のものと思えない、という何とも薄気味悪い感覚をどうにかしたくて、俺は理由を探し求めていた。

 そして、不意に思い出した。昨夜、陣地の柵を壊した直後に聞いた、エリーの言葉を。

 あたしが迎えに来たのは、『死神』じゃない。あたしは『カナタ』を迎えに来たのよ……。

 俺はようやく理解した。水面に映っている顔が誰なのか、ようやく分かった。

 『死神』だ。人を人とも思わぬ悪魔が……俺の振りをして、水面を覗き込んでいる……!

 俺は、突き飛ばされたように尻餅をついた。水面に映る顔が怖くて、必死になって目を背けた。まるで、さっきの悪夢の中に引き戻されたような気がした。目には見えないけれど、遠くから炭人形の群れがじりじりと近寄ってくる足音が聞こえてくるような気がした。

 胃袋がひっくり返ったような吐き気に襲われた。口元をとっさに抑えたが、そんなもので抑えきれる程度ではなかった。蛙が挽き潰されたような醜い声を上げながら、俺はその場で嘔吐した。吐くものが無くなってもまだ、吐き続けた。

 吐き気が収まった後も、俺は立てなかった。肩で息をして、じっとしていた。

 昨日は理解出来なかった、エリーの言葉の意味が今になって分かった。『死神』と『カナタ』はどちらも確かに俺のことだ。だが……違う。別の存在だと今なら、分かる。

 この一年、『カナタ』は俺の中で眠っていた。エリーに捨てられ、数え切れないほどの人間を焼く現実に耐えきれなかった。だから、『死神』になった。彼ならエリーを憎み、人間を焼くことを厭わない。『カナタ』には到底受け入れられなかった現実に『死神』なら適応できた。

 だが、エリーの言葉に刺激され、夢の中で眠っていた『カナタ』が目を覚ました。だから、今、この現実で目覚めているのは……。

 呼吸が落ち着いてきて、俺はふらつきながらも立ち上がり、さっきまで眠っていたところに戻った。すると、エリーが眠い目をこすりながら上体を起こした。

「あら。どこ行ってたの?」

 寝ぼけた声でエリーが問いかけてくる。俺は彼女の隣に腰掛けた。

「川に顔を洗いに。ちょっと目が覚めたから」

「……ふーん」

 エリーはあくび混じりに相槌を打った。多分、俺が悪夢に跳ね起きたことになど微塵も気づいてないだろう。まだ半分も目が覚めていないような様子だった。

 それきり、会話が途絶える。話を互いにどう振って良いか測りかねているような、居心地の悪い沈黙が広がる。

 陣地の柵を壊した後から、そうだった。ほとんど黙って馬を走らせていたから誤魔化せてはいたけれど、それでもなんとなく感じていた。再会を果たしたばかりのときにはなかった、まるで知らない相手のような妙なよそよそしさが漂っていることに。

 さっき小川で顔を洗うまで、奇妙な空気がどうしてだか広がっているのかあまりよく分かっていなかった。ただ、その理由も、今なら分かる。

「……昨日は、馬鹿なことを言ってごめん」

 俺がぽつりとつぶやくと、エリーは眠気がすっかり飛んだ目をして、こちらを見た。

「気絶した兵士も、フォルツァの遠征軍も……焼いてしまえば良い、なんて考えるだけでもおぞましい。まともな感覚が抜け落ちている。でも、あの時の俺には、君に心底軽蔑されたことさえ気づいていなかったんだ」

 彼女の視線を感じながら、だがその目を見ないように逸らしながら、俺は言葉を続けた。

「この一年で……俺はどうやらおかしくなっていたみたいなんだ。今まで眠っていて、ついさっき目が覚めたような気さえする」

 苦しい言い訳だ、と自分でも思う。だが、それでも口にせずにはいられなかった。

「どうかしてたよ。俺は……」

 言わずにはいられなかった。彼女にこれ以上軽蔑されたくなくて、もう自分は『死神』ではないのだとどうしても分かってもらいたくて。

 眠っている内に、別人のように人が変わった。そんな都合の良い変化を、果たして彼女は信じてくれるだろうか。

 不安と共に、エリーの言葉を待った。ちらと横目で彼女の様子をうかがうと、考え込むように俯いて毛布に顔を埋めていた。

「あたしね、覚悟はしてたのよ。あんたがすっかり変わってしまったことを。冷酷で、残忍で、人を人とも思わない。そして、自分を捨てた女を心底憎んでいる……軍に潜入している人たちから、事前にそう聞いていたから」

 毛布に埋めた彼女の表情は俺からは分からない。ただ、彼女は雨だれのようにぽつりぽつりと言葉を続ける。

「でも、頭では分かっていても、感情が追いつかなかったのね。兵士や陣地を全部焼き払えばいいって言われて……あたし、ついついかっとしちゃった」

 エリーは毛布から顔を覗かせて、ちらと気まずそうに俺を見た。

「カナタが変わってしまったことへの覚悟が足りなかった。ごめん、って言うべきなのはあたしの方。どうやって言い出そうかと思ってたんだけどさ……」

 歯を少しばかり覗かせて、はにかむように微笑んだ。

「今、すごくほっとしているの。あたしが知っているカナタが目の前にいるから」

 彼女の笑顔の裏に、今まで押し隠していた寂しさが滲み出ているのを見た。

 俺もまた、彼女に微笑み返した。久しぶりすぎて頬の筋肉が引きつりそうだったけれど、もう俺は『死神』ではない。

「苦労掛けたね」

 浮かび上がってきたあたたかい気持ちを、素直に表現する方法をまた思い出さなければいけない。

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