67 冒険の始まり
天幕に戻ると、潮が引いていくように兵士達の足音が遠ざかっていく。いくら耳を澄ませても天幕の周囲から物音がしなくなったのを見計らって、俺は声を掛けた。
「もう出てきてもいい。兵士共は去った」
焼死体が納められていた箱に向かって呼びかけると、箱が内側から開いて、ランタンの光が天幕を照らす。中に身を潜めていたエリーが箱のなから這い出てきた。
「あんた、この一年で随分柄が悪くなったものね。一体どこのチンピラが喋ってるのかと思った」
箱から出てくるなり、服についた埃を払いながらエリーが小言を言う。
「……その柄の悪さで兵士共を追い払えたんだから、良いだろ」
低く、小さな声で言い返す。
兵士達の前に姿を現した後、俺は天幕に一度戻った。天幕の中央に転がしたままだった焼死体を俺は忍び込んできた娼婦の死体と偽って兵士達に提示するためだった。
死体を詳しく調べられたら女性の死体ではないとばれただろうし、天幕の中に踏み込まれたなら、エリーの存在を隠し続けることは出来なかっただろう。兵士達が、気に食わない娼婦を残虐に焼き捨てた『死神』を恐れてくれたから良かったものの、恐れ知らずの慎重な兵士がいたら、隠し通すのは難しかったかもしれない。
だが、気弱な兵士達と違って、エリーは俺の前に姿を晒しても、臆することなどない。
「今回だけよ、見逃してあげるのは? あんな下品な言葉、次に使ったら、口を縫い付けるからね?」
そう言って冗談めかして笑いかけてきたエリーの顔にはもう、箱にもぐり込む刹那にうっすらと滲ませた不安はなかった。
「そんなことよりもさ。ほら、手、出しなさい」
エリーが声を弾ませながら言う。が、俺は戸惑うばかりだ。
「……は?」
なんだ、唐突に? それでも一応、彼女の言葉に従って手を差し出す。すると、たちまちエリーは眉をつり上げた。
「ダメダメ、そうじゃない! もう、あんたは相変わらずどんくさいんだから!」
呆れた様子で言い放つと、俺の手を取る。手のひらを上に向けて指しだした俺の手を、頭の上にかざすように持ちあげる。
掲げた手のひらに、エリーの手のひらが軽く打ち合わされ、ぱん、と音が響いた。
一体いつぶりだろうか。エリーとハイタッチをするなんて。
しかし、どうして今、そんなことをわざわざ。問いかけるように彼女に視線をやると、エリーは微笑んだ。
「助けてくれて、ありがとう。あたしのこと、守ってくれたのね」
「ああ、いや……」
彼女のまっすぐな感謝の言葉と眼差しに耐えられず、俺は思わず目を背けた。
「別に、そういうわけじゃなくて。単に……もう、軍の奴らに従う義理は無いと思っただけで」
罵声や皮肉を交えずに人と話すのは随分久しくて、まるで言葉を覚えたばかりのような、ぎこちない弁明をした。
フォルツァの軍を取るか、それともエリーを取るか。どちらかを選ばなければならない状況に陥り、俺は軍を選ばなかっただけだ。
この一年俺を支えていたのは、かつて己を捨てた女への復讐心だけだった。軍で仕事をしていれば、女に復讐を果たせる日がいつかやってくると信じていたからこそ、軍の連中の要求に応じていた。
だが、その復讐は偽りだと気づかされた。もう、俺を騙し続けた軍に手を貸す理由はない。
ただ、それだけのこと。エリーを守ろうとしての行動では断じてない。
そうはっきり俺は伝えているのに、エリーはまるで聞いていないみたいに、嬉しそうに微笑んでいる。
「頼りにしてるわよ、相棒。冒険はこれから始まるのだから……」
相棒、という言葉がひどく懐かしく心に響いた。
その後、エリーは緩んだ表情を引き締めると、今後の目標について話し始めた。
「あんたを軍から連れ出せば、追っ手が掛かることでしょう。ティエンヌも、当然フォルツァもあんたにとって安心できる場所とは言いがたい。だから、もっと遠くに逃げるの。砂漠を抜けて西方のスーナまで行けば、流石に追ってこれないでしょう」
懐から取り出した地図をランタンの光で照らしながら絨毯の上に広げ、エリーが西方の国スーナを指さす。ティエンヌとフォルツァからは向かうなら、点在するオアシスを巡る獰猛な遊牧民たちが暮らし、過酷な気候の砂漠を抜ける必要がある。
スーナという国については、砂漠で隔てられ、人の交流もごくわずかなために禄な情報が出回っていない。ただフォルツァとティエンヌの二国を束ねたところで敵わないような、経済も技術も発展した大国だと言われている。強大な権力を持つ皇帝が国土を隅々まで統治し、他国からの干渉を嫌っているらしいので、フォルツァの追っ手が堂々と侵入することは難しいだろう。
「陣地を抜け出したら、ラシェルという街を目指す。近くに馬を用意してあるから、トラブルがなければ二,三日の道のりね」
エリーの指が、大国スーナから再びティエンヌに戻り、ラシェルの街を指さす。
「ラシェルにはマスターの旧知の友人がいて、その人が砂漠越えの案内をしてくれる。なんでもスーナに何度か行ったことがあるらしくてね。スーナに着いた後はその人の知人を頼って、行き先を決める……というのが、あたしたちの旅の予定」
エリーは、地図に落としていた視線を俺に向けた。
「以上、説明終わり。何か言いたいことや聞きたいことは?」
「……特にない」
素っ気なく答えたが、思いつかない、という方がより正確な表現だった。具体的な予定を聞いても尚、おとぎの国に行くから付いてこいと言われたように、現実感がない。
「何よ。砂漠越えに、神秘の国スーナよ? もうちょっと驚きなさいよ」
俺の反応が物足りなかったらしく、エリーが拗ねたように唇を尖らせてぼやく。
そんなこと、言われても。俺は困惑した。
「ああ……そりゃ、悪かったね」
かつての俺はどうやって彼女と話を合わせていたのか、今となっては思い出せない。王都にいた頃の俺なら、何て答えていたのだろう……? もう少し、気の利いた答えを返したことは間違いないだろうが。
ばつの悪そうな俺の様子を一瞥すると、エリーは広げていた地図を仕舞った。そして、話はこれで終わりだとばかりに立ち上がった。
「さ、早く準備して。明るくなる前に出なくちゃ」
「そうだな」
何の変哲も無い相槌を打つだけの自分の声さえ、ぎこちなく聞こえた。
これだけじゃ、素っ気なさ過ぎるだろうか。そう思って、慌てて一言付け足す。
「朝になったら、マルチェラが来ちまう。ぼやぼやしてられない……」
俺としては何気ない一言のつもり、だった。
だが、エリーにとってはそうではなかったらしい。外に出る準備をしようとしていた手が、ぴたりと止まった。
「……マルチェラ、ね」
エリーの声はひやりとしていた。笑おうとして、上手く笑えなかったような響きがあった。
口にすべきでなかった名前を不用意に言ってしまったことを、今更のように悟った。
この一年近くに侍らせていたことで、俺は奴を憎みながらも、馴れ合うような感覚がいつの間にか芽生えていた。そのせいで忘れていた。フォルツァ軍の内情をある程度知っているエリーなら、マルチェラが今、俺の愛人として軍に居座っていることも承知している可能性が高いことを。
それは、俺にとってはひどく気まずい事実だった。今となっては、遠い昔の出来事のようなものとは言え……マルチェラとの不貞の疑惑を必死になって打ち消そうとした相手なのに。
「あんたにとって、あの人がこの一年どういう存在だったか……それについて、あたしはとやかく言うつもりはないんだけど」
エリーは慎重に言葉を選んでいる様子で口を開いた。
「ただ、一つだけ言わせて。これからは、絶対に関わらないで。詳しいことは時間があるときに話すけれど、あいつは……最初から、あんたの人生を壊すために近づいてきたのよ」
エリーは頭を振った。
「もう、絶対にそんなことはさせない。あの女に、あんたに対して指一本触れさせやしないんだから」
声は表面上は落ち着いているように聞こえた。だが、穏やかな水面の下で荒れ狂っているような押し殺した激しさが、見え隠れしているように思われた。