66 招かざる客
父親の丁寧な手紙とは対照的な、『女神の抱擁亭』の看板娘の脅迫めいた短いメッセージだった。
だが、これは彼女なりの激励の手紙なのだということは流石に理解できた。親子が俺に伝えたいことは、どちらも共通している。
己の強大すぎるドーノの力は捨てて生きろ。俺を迎えに来た彼女の手を取れ、と。
手紙を読み終わっても尚、俺は隣に座っている彼女に、読み終えたことを告げられずにいる。まだ便箋から視線を上げることさえ、出来ずにいる。
人間は何度だって、人生をやり直せるのです。
マスターからの手紙に書かれた言葉が繰り返し、頭の中で蘇る。
確かに、一度は、人生をやり直せたと思った。現代日本からこの異世界にやって来て、人並みの生活を手に入れた。それは奇跡のような出来事だった。だが、当時と違って今の俺は幾度も間違いを重ねてきた。もう一度、だなんて都合のいい話があるのだろうか……?
石のように黙り込み、微動だにしない俺に、エリーは何も問いかけようとしない。ただひたすらに、俺の答えを静かに待っている。
このまま朝が訪れるのではないか、と思うほど、長い時間に感じられた。だが、俺とエリーの間にあった張り詰めた静寂は、唐突に破られた。
気づいたのは、エリーが先だった。便箋を見つめるばかりの俺にじっと視線を注いでいた彼女は、はっとして顔をあげた。
「……人の足音。この天幕の方向に、近づいてきてる」
張り詰めた声でエリーが告げる。間もなく、俺の耳にも届いた。大勢の人間の足音と鎧がこすれ合う音が段々と近づいてくる。
エリーが素早く、立ち上がる。そして忌々しげに舌打ちをした。
「夜食を差し入れに来た……なんて、気の利いた人たちには到底思えないわね」
彼女は立ち上がると、先ほど焼死体を取り出した箱の方へ足音を殺しながら向かう。
「あたしが偽物の娼婦だってバレた可能性が高そうね。嫌にタイミングが良いけれど……」
独り言のようにつぶやきながら、エリーは箱を開けて、その身を滑り込ませる。
「頼むわよ、カナタ。あんたなら、大丈夫って信じてるから」
まるで己に言い聞かせているような声に聞こえた。
ランタンの光が箱によって遮断され、天幕には再び暗闇が戻る。
俺はまだ答えを出していない。エリーと共に軍を抜けるか、あるいはこのまま変わらぬ日々を送るか。
だが、己に悠長に問いかける暇など、当然のように与えられない。
「夜分に失礼いたします!」
天幕の外から、兵士のやかましい、形ばかりの慇懃な声が聞こえてきた。深い夢の中にいたとしても、目を覚まさざるを得ないような大声だ。
無視を続けていれば、強引に踏み込まれるかもしれない。
「……何の用だ」
俺は不機嫌極まりない声と共に、天幕の入り口から姿を現した。
松明を掲げた兵士達の一団が天幕の前にいた。見える範囲に六人いるが、恐らく死角にも何人か待機していることだろう。俺のドーノは見えない相手には力を発揮できないことを、軍の連中だって熟知している。
「先刻、娼婦がこの天幕を訪れたでしょう? そいつを連れてくるよう、上から命令が出ておりまして……ご協力願えますかな」
先ほど呼びかけてきた隊長格と思しき兵士が、声を掛けてきた。
「俺をこんな時間に引きずり出すとは、いい根性だ。そこまでするからには、娼婦とやらは何者だ? なんだよ、将軍様の女を手違いでこっちに送っちまったとでも?」
俺の声を聞くなり、兵士達は猛獣のうなり声を聞いたように、揃って身を竦めた。
「詳しい話は我々には分かりかねますが。とにかく、その娼婦は招かれざる客のようでしてな。これ以上は何も聞かずに、引き渡していただけますかな」
ただ一人恐れを振り払い、まっすぐに俺の目を見て、隊長らしき兵士が言う。
「万が一、連れてくることが出来ぬと仰るなら……見落としがないよう、我々の目でもその天幕を改めさせてもらうよう、指示を受けておりますので」
ただし、声に虚勢を張れても、小刻みな体の震えまでは隠せなかったようだ。『死神』を前にしても、命を賭けて上官からの命令に服従する従順さは大したものだ。
娼婦を引き渡さないなら、天幕の中に踏み込むと奴らは言っている。このいつになく強硬な姿勢からすると、娼婦なら先に帰った、と嘘を言っても、恐らく通らないだろう。万が一、無理矢理踏み込まれたら、あんな大きな箱を見逃す訳はないし、エリーが見つかるのは時間の問題だ。そもそも、天幕の中央に放り出したままの焼死体だってどう説明したものか……。
さて、どうするか。兵士達に天幕を訪れた娼婦を見せない限り、エリーを招かれざる客として軍に引き渡すことと同義だ。
彼女を黙って引き渡せば、俺は今まで通りの生活を続けることになる目算が高い。『死神』と影で呼ばれ、淡々と人間を焼き続けるだけの日々が戻ってくる。
逆に、エリーを匿えばどうなるか。遠征軍を敵に回し、命を狙われることになるだろう。一国を容易く攻略できる力を放置しておくわけがないのだから。
俺はどちらかを選ばなければならない。彼女を引き渡し、差し出された迎えの手を撥ねのけるか、彼女を守り、明日をも知れぬ不安定な未来に一歩踏み出すか。
これ以上、答えを先送りにすることは出来ない。ならば……今、ここで決めるしかない。
俺は冷ややかに、怯え青ざめる隊長の顔を見た。お前は俺の機嫌を害しているのだぞ、と言外に言い含めるように。
そして、不意に笑って見せた。不敵に、毒々しく。
「……いいだろう。そこまでお望みなら、連れてきてやるよ」
そう言って、俺は踵を返した。天幕に入ると、中を外から見られないように、慎重に入り口の幕を下ろす。外界からの光が遮断され、天幕には見通せない暗闇が広がる。
『死神』の天幕を取り囲む兵士達は皆、固唾を呑んで、天幕の入り口を注視していた。どの顔にも例外なく、緊張感と怯えが色濃く刻まれていた。
天幕に入っていった『死神』が出てくるのを兵士達は待っていた。それほど長く経っているわけではないが、寝台に置いてきた女一人、天幕の外に突き出すだけの時間と思えば、長く掛かっているように思われた。
「どうしますか、隊長。踏み込みますか……?」
『死神』との交渉に当たっている隊長に、部下の一人が囁く。隊長は苦みを帯びた表情で天幕を見つめている。
「もう少しだけ待とう。あれは我が軍には欠かせない兵器なのだ。慎重に事を運ばねばならぬ……万が一の時には、事を構える必要があると理解しているが」
隊長が苦しげに呻くように告げる。天幕を取り囲む兵士は二十は下らない。そのいずれも槍や剣を携え、隊長の命令一つで天幕ごと『死神』を取り押さえられるよう構えている。無論、『死神』の恐るべき力に蹂躙されないよう、松明やランタンといった明かりの類いはいつでも消せるように心得ている。
兵士達に下された命令は、娼婦を確保すること。不埒なことに、その女は『死神』の誘拐をもくろんでいると軍の上層部に垂れ込みがあったそうだ。
これが単なる刺客であれば、替えの効かない『死神』の安全だけを心配すればよいが、事を複雑にしているのが、この娼婦を生け捕りにせよという厳命が下っていることだ。
理由は兵士達には分からない。彼らに命令を下した上官さえ、知らない様子だった。騒ぎ出した上層部の人間しか、娼婦を捕らえるべき理由など知るまい。
頼むから、大人しく娼婦を引き渡してくれ。天幕を囲む、全ての兵士たちの偽らざる心境であった。
フォルツァの兵士達は皆、『死神』の恐ろしさを熟知している。彼が視線一つで容赦なく、まるで虫でも潰すかのように人間を殺し続ける様を間近で見てきた。このような化け物じみた力を持つ男は味方であってさえ、恐怖すべき存在だというのに、奴が裏切り、敵に回した日には散々見てきた無残な死体に自分たちが変えられてしまう。
奴と事を構えることだけは、絶対に避けたい。兵士達の無言の祈りを断ち切るように、突如、天幕の入り口が開く。
『死神』が姿を現した。ただし、女を伴っているわけではない。ただ一人で天幕の外に出てきた。
いよいよ、『死神』の行動が怪しくなってきた。兵士達の心には落胆と共に絶望が広がる。
「……娼婦はどこです?」
心中を必死で押し隠しながら、隊長が問いかける。
すると、『死神』はぶっきらぼうに答えた。
「ああ、勿論連れてきたぜ。お前らが熱心に探してる女を今、見せてやるよ」
そう言うと、天幕の中に再び入り、姿を消す。兵士達の間に困惑が雲のように広がり、入り口に再び注視していると、天幕の入り口から、なにやら重たげな物体が転がり出た。
それは、人間の身長ほどもある黒い物体だった。いや、兵士達は天幕から飛び出してきた物体を何度も見たことがある。明かりの下で一瞥しただけで、それが何か理解できるほどにこの戦争を通して見慣れてしまったものだ……。
「悪いな、お前らが探してるとは知らなかったんだ。あんまりにも気に食わないんで、焼いちまった」
隊長を含む兵士たちが恐れおののく姿を見て、悠然と天幕から姿を現した『死神』は笑う。悪魔が人間を見下し、笑うように。
「万が一、将軍様の女だったら、俺に代わってこう謝っといてくれよ。……許せよ、手を付けてはいないからさ……」
『死神』は天幕の中から己の足で蹴り出した物体……炭と化した人間の焼死体を、忌々しげにもう一度蹴り飛ばす。
そして、彼の視線は兵士達を一瞥する。死神の鎌にも等しい刺々しい視線が、怯えきった兵士達を捕らえ、一部の二,三の兵士が堪えきれず悲鳴を漏らす。
『死神』は苛立たしく、鼻を鳴らした。そして、恐れおののきながらも必死に堪えている隊長をじろりと見やった。
「これで満足か?」
「……ええ、結構です」
答える隊長の背中には、冷たい汗が滲んでいた。それを知ってか、知らずか、『死神
』は怒りを孕んだ抑揚のない声で告げる。
「気に入らない不細工をあてがわれてた上に、大勢に騒がれて眠りを邪魔され、俺は今最高に機嫌が悪いんだが?」
「……申し訳ありません」
獅子の口に咥えられた兎のように項垂れ、隊長が声を絞り出す。
『死神』が、踵を返す。
「とっとと失せろ。さもなくば、貴様らもその娼婦と同じ目に遭わせてやる……」
それだけ言い残すと、天幕の中に恐るべき『死神』の姿が消えていった。
兵士達は皆、精気を吸い取られたかのようにげっそりとした顔つきで天幕を一瞥した。上官である隊長からの命令を待つこともせず、天幕を取り囲んでいた兵士達は肩を落としてとぼとぼと歩き出す。あてがわれた娼婦を気に入らない、という理由だけで女を焼き殺す化け物から一刻も早く離れたいという気持ちを皆が共有していた。『死神』が残した物騒な一言をただの脅しとだと笑い飛ばせる者はいない。
立ち去る兵士たちは、蹴り出された死体にも誰一人近寄らず、ましてや天幕の中を改めようなどと意気込む者などいようはずがない。
天幕から視線が届かぬほど、十分に離れてから兵士達はようやく安堵して一息つく。確かに、娼婦を確保できなかったことで指示を出した上官の不興を買うかもしれない。だが、『死神』の機嫌を損ねるぐらいなら、理不尽な上官の叱責など遠く離れたところから聞こえる狼のうなり声のようなものだ……恐れるに値しない。
それは『死神』と会話を交わした隊長とて同じである。己の天幕に戻り、『死神』を刺激する愚かな命令を出した張本人の悪口を漏らす。
「どこの馬の骨だか分からん愛人から吹き込まれた話なんぞ、まともに取り合う奴があるか。しかも、それが我が軍の将軍などと誠に嘆かわしい」
「全くです。『死神』に知らせてやりたかったものですね、そうすれば今頃、我が軍の馬鹿な将軍の首が炭になっていたでしょうに」
部下の一人が憤慨した様子で相槌を打った。だが、隊長は苦笑いを浮かべた。
「言えるものなら、あの場でお前は言えば良かったんだ。将軍の女を間違ってお前のところにやったのではない、実際はお前の女が将軍の下に来ているのだ、とね……」
『死神』の世話をしている青い瞳に輝く金髪の美女が、将軍の愛人であることは、フォルツァの遠征軍の中では公然の秘密であった。ただ一人、『死神』の前を除けば。