63 夜を待つ
今日は行軍もなく、戦闘もない。つまり俺の出番はない。与えられた天幕で一人時間が過ぎるのを待っている。麓の街では、今頃軍の兵士達による略奪の嵐が吹き荒れているはずだ。昨日、俺がほとんど露払いをしてやったから、奴らには何の苦労も残っていないだろう。街に存在する金銀財宝を根こそぎ奪い、生き残ったわずかな人間達を家畜のように処理していくだけの、楽な仕事に取りかかっているはずだ。
昨日、俺は遠征軍の将軍が命じるままに、山頂に構えた陣地から、城壁を破壊し邪魔な人間を焼き払った。
『死神』には人の心はないのだ、と兵士も騎士も貴族もうっとうしく陰口を囁いていることだろう。が、俺は奴らの言うこの残虐な振る舞いに、もはや何も感じない。
ごま粒のように小さな人間共が、姿形を変えてその場で倒れ伏す現場を延々と見続けても、だからどうしたのだという気分になる。幾度となく繰り返した作業に飽きさえ感じていて、俺はあくび混じりにドーノを使っていた。
俺はかつて、人間がもっと神聖なものだと信じていた。力があっても、いかなる事情があっても、人を殺めてはいけないと思い込んでいた。だが、そんな純情無垢で愚かな俺はもう死んだ。
俺は全てをあの女に捧げた。だが、あいつは俺を裏切って逃げた。帰ってくると嘘をついて、俺を捨てた。
確かにマルチェラとかいう毒婦がいなければ、あんなことにはならなかった。だから、マルチェラが俺の憎しみの対象の一つであることは確かだ。だが、それでも一番の憎しみを向ける相手ではない。奴が子守歌のように、あなたを捨てたのは誰だ、と繰り返す内に俺も気づいた。どう言い訳を積み重ねようとも、俺を捨てた張本人が一番の悪人じゃないか……なら、誰を憎むべきか、明らかじゃないか。
マルチェラが去った後、俺は寝そべって、ぼうっと天幕の天井を見上げている。脱走防止か、ただ単にはたまた陣地の兵士や貴族のお偉いさん方が怖がるからか、天幕の外には見張りの兵士が一人立ち、俺が天幕の外に出ることを一切許さない。散歩一つ出来ないし、ならば昼寝をしようと思っても不眠のためにそれも叶わない。出来ることなら、永遠に眠っていたいぐらいだというのに。
俺は天幕で何をするわけでもなく、ぼんやりして夜を待つしかなかった。
夕暮れ時にマルチェラがやって来て、食事を持ってきた。食欲はさほどなく、出された半分程度を口にして、食後の薬を無理矢理流し込むと、女は片付けをして去って行った。その頃には、夕日は沈み天幕の外は闇に包まれていた。
天幕の中は星明かりさえ届かない暗闇に支配されていた。他の天幕には小さなランプの一つぐらいは当たり前に支給されているだろうが、俺には与えられない。『死神』は暗闇には弱いのだ。軍のお偉方は、万が一に備えて余計な武器を持たせたくないのだろう。
手元さえ禄に見えない煩わしさはあるが、それでも俺にとっては昼よりは夜の方がマシだった。まるでうたた寝のような浅い眠りでも、この腐りきった世界のことを忘れられる時間には救いがあった。それに、大した気晴らしとまではいかないものの……女を抱いている間は、体に貯まり込んだ鬱屈した感情を興奮や劣情と共に、少しだけ吐き出すことが出来るから。
天幕の外の物音に耳を澄ませていると、一人分の足音が近づいてくる。間もなく、見張りに立っている兵士の話し声がして、天幕の入り口が開かれる。
兵士が持つ明かりで、女の姿が暗闇に浮かび上がる。と言っても、目深にフードを被り、顔は見えない。体も足下まで届こうかという大きなマントにすっぽりと包んでいるために体型すらよく分からない。
変な女が来たな、と内心思った。ここまで執拗に顔や体を隠す娼婦など初めて見た。だが、抱く女にこだわりは特にない。どうせ暗闇で顔も見えないのだ、抱けさえすればいい。
「こっちに来い」
入ってきた女に声を掛け、俺が横たわる簡素な寝台に手招きする。女は答えも頷きもせず、しずしずと寝台までやって来て、俺の隣に腰を下ろし、寝そべる俺を目深に被ったフードから見下ろした。そこで天幕の入り口が閉ざされ、視界も闇に閉ざされる。だが、物音一つ立てず、女は未だに座ったまま微動だにしない。
黙って、横になれよ。娼婦のくせに、その程度のことも分からないのか。女が傲慢にも俺を見下ろしているという事実に、ひどく腹が立った。
「この……!」
俺は女の体に向かって、乱暴に手を伸ばした。そのまま掴んで寝台に引き倒して、不格好なマントを手始めに剥ぎ取ろうとした……のだが。
俺が伸ばした手は、空を切った。次いで、腕の関節に激痛が走る。暴れようにも関節を極められ、禄に動かせない。痛みに思わず悲鳴を上げようとすると、今度は強引に手で口を塞がれた。
まさか、刺客か? 稲妻のように嫌な考えが脳裏に閃く。娼婦に化けて、ティエンヌからの暗殺者でも潜り込んできたのか? いや、だが……娼婦の選定には軍の奴らも気を遣っていて、身元の明らかな女しか使っていないと聞いたが……?
根拠のない憶測が頭の中を駆け巡っていると、女の気配が俺の顔に迫ってきた。
女は暗闇に声を響かせて、悪戯めいた笑い声を上げる。それから、外に漏れないように声を潜めて言った。
「あたしを犯そうだなんて、百年早い。そんなこと、あんたには出来っこないわよ」
聞き間違うはずなど、あるものか。俺は血の気が引いて、体が冷たくなっていくのを感じた。
血眼になって探し求めていた女の声がする。
呆然として、全身から力が抜ける。俺から抵抗の意志を感じなくなったせいか、口を抑えていた手が退けられる。
「エリー……?」
俺は目の前にいる女の存在が信じられなくて、確かめるかのように名前を呼んだ。
女はくすぐったそうに笑って、俺の腕を解放した。
「久しぶりね、カナタ。一年ぶりってところかしら、月日が流れるのは早いわね」
懐かしい友に声を掛けるように、エリーが屈託無く言う。
俺は何も言えず、無言を貫いている。ただただ暗闇に目を凝らして、目に映らないというのに彼女の姿を見ようとしている。
俺を捨てた女を前にしたら、この一年を掛けて煮詰めてきた憎しみが、噴火した火山のように吹き上がるだろうと思っていた。
だが、実際はもっと複雑だった。こみ上げて来た感情の中に憎しみは確かにあった。でも、それだけでは決して無かった。唐突な再会に驚き、懐かしみ、訝り……一言では決して言い表せない様々な想いが渦を巻いていた。
「何を、今更……」
俺は震える声でつぶやいた。それ以上の言葉は、出てこなかった。
エリーは一瞬、押し黙った。
「そうね……今から話すわ、ちょっと長い話になるけど」
話をする準備をしているのか、俺の隣でフードを外す気配があった。
「あたしはあんたを迎えに来たのよ。……悪いわね、長らく待たせちゃって」
悔恨を滲ませてエリーが密やかに笑い声を上げると、彼女はここまでやってきた経緯を話し始めた。




