表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
62/87

62 死神

 フォルツァの女王が真摯な祈りを捧げたのとまさに同じ時間であった。遠いティエンヌの北方の地で、一つの街が見えざる死神の手で蹂躙されていた。

 街はついさっきまで、堅固な城壁にぐるりと囲まれていたはずであったが、今は街の守りは丸裸と言って良かった。石造りの城壁は巨人に踏み潰されたかのように粉微塵と砕け、瓦礫の山として横たわっている。城壁に詰めていた兵士たちが崩落に巻き込まれ、あちこちでうめき声を上げているが、救助の手が差し伸べられることはない。

 城壁が突如崩れたのを知り、市街地の住人達は皆、先を争って屋内へ逃れようとする。死神の名と噂を知らぬティエンヌの民はいない。彼の視線に晒されれば、いかなる最期を迎えるか、誰もが知っている……。

 我先にと逃げ惑う人々が押し合い、悲鳴や怒号が飛び交う中、ついに一際耳をつんざくような断末魔の声が上がる。

 男も、女も、老人も、子供も、無差別であった。教会の中へ逃げ込もうとした大勢の人々は死神の手に捕まり、全身を焼かれる痛みを訴え、炭の人形と化して倒れ伏した。

 街のあちこちで、生者の悲声と死者が残した絶叫でこだました。まるで生け贄の鶏でも焼いているかのように、死神の手は武器さえ持たない人々を情け容赦なく焼き払っていく。生者の哀切極まる命乞いの声にも、一切耳を貸さないで。

「ひでえもんだ……」

 虐殺の場となった哀れな街からそう離れていない山の頂にフォルツァ軍は陣を構えていた。そこに残っていた兵士の一人が、顔を歪めて人々を襲う惨劇を見下ろしていた。

 フォルツァの遠征軍の多くは崩壊した城壁から街へ突入するために山を下りているが、陣地の守りに残された兵士たちの目には酸鼻極まる街の様子が否が応でも一望できた。

「武器を握った奴らが殺される、ってのはまだ理解も出来るさ。戦う意志があるのなら、殺されても仕方ねえ。だが、奴はお構いなしだ。杖を突いたじいさんだろうが、乳飲み子だろうが、まるで容赦しねえ……」

 最近軍に加わったばかりの若い兵士の一人が青ざめながら、つぶやく。彼の隣にいた年季の長い同僚が額に深い皺を刻んで、しかめ面を作る。

「一応、将軍様のご意向だそうだよ。一般市民を降伏させて捕らえたところで、今や奴隷市場は飽和状態で大した値段もつかない。連れ歩くのも面倒だ。だから、大部分はああして処分しちまうんだそうだ。残しておいても、焼くか首を刎ねるかの違いでしかない」

「お上の命令、ね」

 若い兵士が皮肉を言うように唇を歪める。

「いくら命じられたって、こんな惨たらしいこと並の人間では出来やしないさ。『死神』……おっと、我が軍の英雄殿は、きっと人間の振りをした悪魔に違いない……」

 彼は、陣に一際高く設えられた見張り台に視線をやる。姿こそ見えないが、そこから一人の若い青年が無慈悲な死神の手を街の人々に向けて伸ばしていることは確かだった。


 俺は浅い眠りから目を冷ました。簡素な寝台から見上げているのは、見慣れた戦地の天幕だった。

 睡魔に襲われる前に、傍らにいたはずの女二人が姿を消していることに気づく。確かに朝目覚めるところまで付き添え、とは言っていないが、よほど『死神』と寝るのは怖かったのだろう。

「……クソが」

 口からついて出た罵倒とは裏腹に、本心では別にどうでもいい。顔も知らない女に怖がられたところで何も感じない。

 そんなものはこの一年で、飽きるほどに繰り返した。フォルツァの遠征軍の兵士や騎士の怯えるような目、あるいは軽蔑の目、俺に直接命令を下す偉い貴族の将軍様の汚物を見るような目。全部纏めて炭にしてやろうかと何度思ったことやら。

 奴らの不愉快な目を思い返すと、元から重たい頭がずきりと余計に痛む。

 一年前から続く、体の不調から解放される瞬間は、もう訪れないと諦めた。元々このような体に生まれついた物だと思うことにしている。

 俺がフォルツァの遠征軍に加わってすぐの頃は、食べるものが一切喉を通らず、一睡も出来なかった。今はそこまでではない。とは言え、深い眠りや十分な食事は、この一年禄に取れていないので、慢性的な睡眠不足や体調不良から解放されたわけではない。頭をひどくぶつけてその傷が治らないような頭痛や時々訪れる目眩と耳鳴りが治らない。

 寝床から起き上がる気力も無く、寝そべったままでいると、天幕の入り口に人影が差す。

「おはようございます、カナタさん。よく寝付けましたか?」

 入ってきたのは、青い瞳に金髪の女。誰もが魅了される美貌の持ち主。盆には水差しと杯、簡単な朝食、それと調合された薬が入った椀が二,三並んでいる。

 マルチェラ。俺の人生を何もかも台無しにしてくれた、最低の女。

「まあな。いつもよりはマシ。女二人を同時に相手は、さすがに疲れた」

 マルチェラは、寝床までやってきて、盆を置いた。水差しから水を注いで、俺に手渡しながらくすくすと笑った。

「効果があるようなら明日からも続けられてはいかが? それとも、もう一人増やしてみます? もっと効果が出るかもしれませんよ?」

 俺は水を一気に飲み干すと、空になった杯を乱暴に盆へ返した。そして、その手をマルチェラの腰に回し、ぐいと豊満な体を抱き寄せた。

「体の良いことを言って、金を握らせた他の女に押しつけようってか? どうせ、その隙に他の男と寝るんだろ?」

 俺の冷ややかな視線を、マルチェラは微笑と共に受け止める。

「あら、そんなことないわ。私の心はあなただけのもの……」

 視線一つで命を奪える相手に対して、怯え一つ見せずに口がきけるのはこの女ぐらいのものだ。

 身の回りの世話はもちろんのこと、夜の相手としても毎日この女を呼びつけていた。死神の身辺をうろつきたい女などいない。長期間、俺から逃げずに相手が出来る女は他にはおらず、仕方なく顔は美しいが不愉快極まりないこの女で我慢していた。

 ところが最近になって、毎日のお相手は体が持ちませんわ、などとふざけたことをぬかして、夜の相手にいたっては、金を握らせた娼婦に任せることが少しずつ増えてきた。来い、さもなくばどうなるか分かっているのか、といくら俺が脅しても、この女は意にも介さず、大金を積んで死神相手でも寝る娼婦を送り込んでくる。

 他に男が出来たのか、と疑ってはいるが、確証はまだ掴めずにいるのが残念だ。相手が誰か分かったら、男の方を痛めつけて、散々苦しませてやるのに。

 憎たらしい女を、荒っぽく腕から解放する。

「そんなことよりも。……あの女はまだ見つかってねえのかよ」

 声を低くして問いかけると、マルチェラは静かに首を横に振った。

「残念ながら。あなたのために、軍の偉い方々は手を尽くして探し回ってるようですが……どうも、未だに影も形も掴めないようでして」

「どいつもこいつも、使えねえ」

 俺は唇を歪めた。

「女一人捕まえるのに、どうして一年近くも掛かってる? ああ、早くしろよ。死に物狂いで、あの女を俺の前に連れてこいよ。さもなきゃ、どうなるのか分かってるのか? てめえら愚図共の指図に、どうして俺が大人しく従ってやってるんだか、誰も理解してねえのかよ……?」

 苛立ちが吐き気のようにこみ上げてきて、髪を乱雑にぐしゃぐしゃとかきむしる。

「あいつのことは、屈辱に泣き叫ぶまで、犯してやる。殺してくれと懇願されるまで、痛めつけてやる。死ぬよりも辛い苦しみを味あわせてやる。そうでもしないと……許せない、俺はあいつを許せない……!」

 脳裏に、火花のように人影がちらついた。それは、あの長い黒髪の少女の後ろ姿……。

 憎悪が化膿した傷口のように、胸に疼く。今度は胸をかきむしるが、虚しく衣服に爪を立てただけで、燃え盛る憎しみを鎮めるには何の役にも立たない。

 俺の怨嗟の声を、マルチェラは軽い冗談でも聞き流すように肩をすくめた。

「あら、怖い。ねえ、その憎しみの千分の一でいいから、私のことを愛して下さればいいのに。つれないわ」

 くすくすと笑い声を上げると、マルチェラは新月のように目を細め、俺を見据えた。

「お忘れにならないように。私はとっても……嫉妬深いのよ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ