61 女王の嘆き
ティエンヌとの戦争が始まってから、一年半の月日が流れた。
王都フォルツァの中心部に聳える王城の尖塔のバルコニーに王国の主たる女性が佇んでいる。カテリーナ女王は深い憂いを湛えた瞳で、眼下に広がる城下の町並みを見下ろしていた。
一年前と比べても、城下町の活気は目に見えて落ち込んでいた。戦争が長引くごとに、隣国や自国から押し寄せる故郷を失った難民の数は増すばかりだ。苦しいのは流浪の難民たちばかりではない、王都の住人達の多くも治安の悪化に伴う、国内国外問わず交易活動の低迷により、その日を生き延びるので精一杯という苦しい暮らしを送っている。
大義名分は既に失われているにも関わらず、未だに戦争は続いている。国境付近から大きく軍を押し返したフォルツァ軍は、ティエンヌの首都を半年も前に容易く陥落させ、同時にフォルツァの王位を主張した王子も行方知れずとなった。それでも尚終戦を迎えることが出来ず、フォルツァの王位継承権を発端とした此度の戦争は、終着点を失ってしまった。
女王は無言で活気を失った哀れな城下を見下ろしている。終わりの見えない戦火に苦しむ民達の、声なき悲鳴にじっと耳を澄ませるかのように。
女王の背後の扉が、音もなく開き、扉の隙間から恭しい声がした。
「お呼びと伺いました。私めにお役に立てることでしたら、なんなりと」
「『蛇』よ。私は、お前に問いたいのですが」
女王は振り返りもせず、扉に潜む人影に声を掛けた。
「一年前、私は眠れる獅子を呼び覚ますことを選びました。それがこの国のためになると思ったからです。彼の恐るべき力でティエンヌを焼き払えば、あの永遠に続くかと思われた、戦火の日々を容易く終わらせられると浅はかにも当時の私は思ったのですが……」
女王は静かに首を横に振った。当時の選択を悔いるように。
「私は非力にも、愚かな者どもに獅子の手綱を奪われてしまいました。彼らは苦しむ民草の事など、一度も考えたことはないのでしょう。自らの懐を豊かにすることばかりに目が眩み、獅子をむやみと放つのを止めようとはしません」
ため息が、女王の唇から漏れ出る。
「『蛇』よ。お前の力を再び借りる時が来ました。お前達、影の者にしかこれは出来ぬ仕事です……」
疲れ切った声だった。王の責務に今にも潰されてしまいそうなほど、女王の声は弱々しかった。
「全ては我々にお任せ下さい。いかに困難であれ、貴方の望みを叶えて差し上げるのが、我らが喜び」
『蛇』は歌うような声で、主君の不安をきっぱりと否定する。力強い臣下の声に、憂いを帯びた女王の表情が和らいだ。
「頼みましたよ、影の者よ。卑劣な手段を用いようとも、多少の犠牲が出ようとも、構いません。神が許さずとも、私がお前達の卑劣な手段、残虐な行動を許しましょう」
女王は背後を振り返った。扉の影に潜む臣下に向けて、慈愛の天使のごとく微笑んだ。
「お前達が振るった無情なる刃は、私が振るったも同然。お前達が犯した罪は、私の罪として償います」
「はっ……」
『蛇』が扉越しにかしこまる。
「勿体なきお言葉。我ら、命を賭しても、陛下の望みを叶えましょう」
そう言い残すと、影に溶け込むようにして『蛇』の気配が消える。まるでこれから獲物を捕らえる狩りに赴くかのように、影の者は去った。
臣下を見送ると、女王は再び前方へと向き直る。今度は、彼女の視線は目下に広がる城下町には向けられていなかった。彼女が見据えるよりもっと遙か遠く、獅子が猛り狂う隣国へ想いを馳せているのであった。
女王は頭を垂れ、目蓋を閉ざし、手を組んだ。
「どうか我らが民に安寧を」
祈りの言葉が女王の口から唱えられた。