60 帰る場所など
王都を出た後、僕はフォルツァの遠征軍に同行し、上官から命令がある度に力を使う日々を送っていた。数千、一万にも届く軍隊が相手だろうが、長らく落とせなかった堅固な城塞や砦だろうが、僕の手に掛かれば、小麦畑を焼き払うのと同じぐらい容易い。建造物であってもお構いなしに焼き払い、数え切れないほどの人間を殺した。
でも、僕はそんな自分を……少しだけ誇りに思っている。
強く、なれただろうか? 確かに人を殺した量とその残虐さは桁外れだけれども、僕がやったことは罪ではない。これは戦争で、相手は敵、だったら殺すことは当たり前のこと。現に今まででも、散々マスターから傭兵の依頼を勧められてきたじゃないか。出来なかったことが一つ出来るようになった僕は……少しでも、誰も傷つけられない弱い男から成長できただろうか?
だが強くなった代償を払うかのように、毎晩、毎晩、悪夢にうなされた。僕に命を奪われた数え切れないほどの人々が夢に出てきて、死の苦痛を、命を奪われた憎しみを訴え続けた。眠れず、食事もほぼ喉が通らない日々が続き、身も心もぼろぼろだった。上官たちは日に日に弱っていく僕を死なすまいと必死に、医者を呼び、薬を煎じさせたが、効果は大して上がらなかった。
手紙が届く前は、ぎりぎりのところではあったものの、自分を保つ努力をしていた。
行方不明のエリーがひょっこりと王都に戻ってくるかもしれない。あるいは、捜索を依頼した冒険者達が彼女を見つけてくれるかもしれない。もし、そんなことが奇跡的に起こったら、彼女のために戦わなければならない。僕が戦えば、彼女の生活は保障してくれると女王は約束した。逆に、もし反抗すれば、彼女は恐らく人質に取られる。枷の付いていない猛獣のような僕を制御するには、それが一番だから。それだけは、何があっても避けなければならない……。
そう自分に言い聞かせて、水や食事、苦い薬を無理矢理喉の奥に押し込むようにして取っていた。倒れる寸前の体を酷使して、上官の指示に従った。
しかし、僕の儚い努力は意味を成さなかった。手紙を受け取り、首飾りと一緒に焼いた後、唯一の心の支えを失った僕は病床に伏した。食事も薬も拒否して、誰も寄せ付けなかった。僕を毎日夢の中で詰り続ける死者達に、早く僕もそちらに連れて行ってほしいと話しかけていたが、誰も耳を傾けてくれなかった。夢から目が覚める度に、僕の命は残念なことにまだ失われていないことを悟った。
そんな終わらない悪夢が続くような日々の中、マルチェラが再び僕の元に現れた。悪魔の取引を交わしたあの日以来、一度も顔を合わせることがなかった彼女が、まるで王都の自宅にやってくるような何気ない足取りで、僕一人に与えられた天幕に入ってきた。
「お久しぶりですわ、カナタさん。随分、やつれた様子でいらっしゃるのね」
「……何の用?」
病床から身を起こすこともままならなかった。優雅な微笑を浮かべるマルチェラに、僕は木枯らしのような掠れ声を掛けるのがやっとだった。
「あなたのお世話をする人が誰もいないと聞きまして。それで、私、ここに来ましたのよ。こんなところでひとりぼっちで過ごしているなんて……さぞかし寂しいんじゃありません?」
マルチェラは盆にいくつか椀を乗せて、僕の傍らまでやってきた。恐らくスープ程度の軽い食事と医者から預かった薬だろう。
体力がまだあったなら盆をひっくり返して遠ざけただろう。でも、もう体力も気力も尽きていた。
「よく言うよ……僕がこんな目にあっているのは、誰のせいだ」
力の無い声で恨み言を言うのが精一杯の抵抗だった。
この悪魔との取引がなければ、彼女をあんな酷い形で失うことはなかった。この女さえ、いなければ……。
だが、恨み言程度で堪える女ではないことは分かり切っている。
「私はあくまで提案をしただけですもの。やると決めたのは、カナタさん自身じゃありませんか」
それでも、腹が立つものは立つ。マルチェラのくすくす笑う声は勘に障った。やると決めたのは僕自身、という言葉に何も言い返せなくて、余計に。
「くそったれ……!」
意味の無い悪態をつくぐらいしか、僕にはもう出来ることはなかった。椅子と一緒に焼き払うべきだった、と後悔してももう遅すぎた。今、この女を焼いても、彼女が戻ってくるわけでも何でも無いのだから。
「そんなことよりも、あなた、お食事も禄に取っていないんでしょう? 食べないとダメですわ、治る病も治りませんことよ」
「嫌なこった」
マルチェラに背中を向ける。この女に説教される謂れはない。
「もう、カナタさんたら。手の掛かる人なんだから……」
不満げにマルチェラがぼやく声が聞こえるが、僕はぴくりとも動かず無視を続けた。目も閉じて、狸寝入りを決め込む。
マルチェラの声が止んだ。その代わり、がちゃがちゃと盆の上のものを動かす音が聞こえた。諦めて、食事と薬だけ置いて立ち去るつもりだろうか。
そう思って、完全に油断していた。
顎に手が掛かって、強引に向きを変えられた。それから、閉じていたはずの自分の口の中に、何かが割って入った。それは歯の隙間に押し入り、無理矢理こじ開けられた。その間から、薄いスープが流し込まれ、喉の奥へと滑り落ちていく。割って入った何かが引き抜かれ、固定されていた顎も解放された。
僕は思いきり咳き込んだ、嘔吐する寸前だった。無理矢理流し込まれたスープの嫌なのど越しに加え、ぬめり気を帯びた、熱い舌の感触が生々しく残り、全身が震えるようにぞわりと粟立った。
咳が治まるやいなや、僕は忌々しい感覚が残る唇を腕で拭い、身を起こしてマルチェラを睨んだ。
「何しやがる……!」
マルチェラは、果実のようなみずみずしい唇をぺろりと妖艶な舌で舐めた。腕で拭った僕とは正反対に、そこに残った感触を味わうかのように。
「カナタさんが、お食事を拒否するからですよ。つまらない意地を張るからです」
「ふざけるのも大概にしろ!」
体の底から、声が出た。自分のやつれた体にこんな大きな声を出す力がまだあったなんて、と驚くほどに。
マルチェラは、余裕たっぷりに微笑む。そして、寝床から上半身を起こした僕に、ゆっくりと顔を近づけてきた。
「ねえ、どっちのキスの方が上手かったですか? 私と……エリーさんの」
甘いささやき声が、耳朶を打つ。その挑発じみた響きに、僕は思わず息が詰まった。
僕の動揺を、この毒婦は見落とさない。青い瞳を残忍に光らせた。
「あれ、もしかして……したことない、なんてことはありませんよね? あんなに仲睦まじくいらしたんだもの、まさか……ね?」
嘲笑じみた笑い声が、耳障りに響く。
見え透いたマルチェラの煽りが、胸に鋭く突き刺さった。
あれを、キスと言っていいのだろうか。ほぼ一瞬の出来事で、何が何だか分からないうちに通りすぎてしまったものを。それをのぞば……僕と彼女の間に、それらしい行為は未遂でしかない。
黙り込んだ僕に、答えを見いだしたらしい。マルチェラが残酷な笑い声を響かせた。
「あらあら、お可哀想に! 想い人とそれさえも出来なかったなんてお気の毒! でも、これからは大丈夫ですわ」
マルチェラは、僕と一層距離を詰めてきた。その美しい顔は吐息が掛かるほど、体は互いの衣服がふれあうほどに。
「私があなたの隣にいますわ。あなたから逃げ出した、あのお方とは違って、ずっと」
マルチェラの腕が、僕の体を引き寄せた。衣服越しに、密着した肌の感触がじんわりと伝わってくる。何よりも豊満な胸の柔らかさが、弾力が、僕に向かって強烈な主張を繰り返す。誘うように、手出しされるのを待つように。
僕は、鼻で笑った。
長らくこの女の考えは何一つ分からなかったが、今になってようやく、この女の考えの一端を理解したような気がする。
「お前、全部分かってたな。本当はエリーが逃げるって……分かってて、あの提案をしたんだろ?」
僕からエリーを奪うために、あの悪魔の取引を持ちかけたのだろう。この女は酒場での嘘の告発と言い、僕から彼女を引き離そうと何度も画策してきた。
理由? 動機? そんなもの、僕には分かりっこない。振られた腹いせ? それとも、ただひたすら僕を苦しめたいだけ? どうだっていい、興味など無い。人の皮を被った悪魔のことを理解など出来やしない。
「……だとしたら?」
女は悪びれた様子など、見せやしない。反省の色など、当然何一つ無く。
僕の中で、かち、と音がした。マルコを殺そうとした、あの時と同じ音。僕の中にある禁じられた箱の鍵が、ひとりでに開いたような音。
僕の手が、無防備に差し出されたマルチェラの豊かな胸を掴んだ。掴んだ指から逃げ惑うように形を変える乳の柔らかさと弾力は、まるで天国をこの手で掴んだような心地がした。
マッサージと称して、部屋に潜り込まれたあの日を思い出した。鳴り止まない鼓動、熱に浮かされたような興奮。それらが抗いがたく、今の僕の中でも疼いている。ただ、あの時の純粋な僕と違うのは、これらが単なる劣情に過ぎないことを理解している。水を火に掛ければ、熱を帯びて湯になるぐらい、当たり前で何の神秘もない事象だと分かっている。
マルチェラの青い瞳が、僕の手と鷲掴みにされた胸を見た。唇には微笑がこぼれているが、瞳に笑みはなかった。喜びなどない、無感動な目をしていた。
エリーとほんの少しだけど、心を通わせた今の僕には分かる。マルチェラが僕に好意があるなんて嘘っぱちだ。これは、好きになった人を見る目ではない。そう見せようとしている浅はかな演技だ。
マルチェラが、蛇のごとく僕を付け狙う理由なんて分からない。だが、底知れぬ悪意があることだけは確かだ。
「僕は、お前を絶対に許さない……!」
悪意に対抗できるとしたら、それは敵意。
僕のドーノでこいつを殺すのは簡単。だが、それでは優しすぎる。こいつだけは苦しめて、貶めてその上でいつか殺す。僕が彼女を失った苦痛を、お前の苦痛で埋め合わせてやる……!
煮えたぎる憎悪を込めて、マルチェラを見据える。だが、女はまるで子供の癇癪に付き合う大人のように、柔らかに微笑むばかり。
「そんなこと言っても、私を恨むなんてお門違いですわ。ねえ、よくお考えになって。あなたがこんなにも苦しんでいるのはどうしてかしら? それは、捨てられたから、でしょう? なら、捨てた誰かを恨むのが筋だと思いますが?」
マルチェラが美しく、毒々しい微笑と共に顔を寄せてきた。まるで蛇が獲物に這い寄るように。唇が触れあう寸前まで距離を詰めると、女は目を細めた。
「さて、誰があなたを捨てたんでしたっけ……?」
声を低くして、マルチェラが笑う。その声はまるで短剣のように胸を貫き、僕はその痛みに思わず怯んだ。
マルチェラの言葉は紛うことなき事実。やりたくなかった殺人に嫌と言うほど手を染め、全てを捧げた人に僕は拒絶された。この痛みと恨みを誰かにぶつけずにはいられない、さあ、それは誰か……?
そんなの、改めて問われるまでもないことじゃないか……。
僕がおぞましい答えに凍り付いているうちに、みずみずしい唇が、もう一度僕の唇を塞ぎ、艶めかしい舌が割って入ってきた。僕は今度ばかりは逆らえなかった。逆らう気力も無く、しばらくの間されるがままだった。だが、やがて女の舌が誘ってくるのに合わせて、不器用ながらもその動きに応じるようになった。女の体を乱暴に掻き寄せ、貪るように舌を絡ませた。女はわざとらしい嬌声をこぼしながら、口付けを深め、豊満な肉体を一層擦り付けてくる。
長い口づけを終えて、互いに体を離す。マルチェラが慣れた、迷いのない手つきで、己の衣服を解き始めるのをぼうっと眺めた。
エリーが好きになってくれた僕は、今から死ぬのだ。今から生まれようとしているのは、人間への憎悪をたぎらせるばかりの、人殺しと姦淫の禁を破った、倫理にもとる抜け殻に過ぎない……。
全てが終わった後、終わりのない泥沼に踏み込んでしまったことに今更のように気づいた。しかし、もはや引き返したところで、帰るべきところなど僕にはもうどこにもない……。