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58 誘惑

 一ヶ月前、マルチェラは僕に言った。

「あなたのドーノの力を、女王陛下に戦争の道具として売りなさい。その対価として侍医の癒やしのドーノでエリーさんの腕を治してもらうよう、要求するのです」

 彼女の提案を耳にした瞬間、確かに今までわざと気づかないふりをして見過ごしていたかのように思われた。そうだ、僕のドーノを人に見せてこなかったのは、まさしく戦争の道具として使われるのを危惧していたからじゃないか。戦争に行き詰まった今のこの状況下なら、僕の力を権力者達は喉から手が出る程にほしがるだろう。

 だが、一つ気に掛かったことがあった。

「それほどのことが出来る力だとは思えないけど」

 先ほど僕がドーノを使った、炭クズと化した椅子を見下ろす。

 僕がマルチェラの前で漏らした情報は二つだけ。椅子を目の前で炭に変えたことと、マルチェラも同じ目に合わせるぞと脅迫したこと。

 この二つの情報だけでは、女王を動かすほどの力を持つドーノだと分からないはずだ。ドーノの強さは確かに伝わっただろうが、それでも二,三発撃ったら弾切れの可能性だってあるだろうに。

 僕はマルチェラの提案について、慎重に吟味をするつもりだった。どこで僕の能力を知ったのだ? 感じた違和感を放置しておくのは、危険だと思った。

「とぼけるのはお止めなさいな。私、知っていますのよ。あなたは頑なに自分のドーノを隠していらっしゃる。それは何故か? 答えは簡単ですわ、周囲に知られては困るほどの力をお持ちなのだと」

 マルチェラが得意げに微笑みながら言う。

「ああ、別に大した力でないなら、それはそれで構いませんわ。このお話はなかったことにしますから。やはりエリーさんの腕を治す方法など、なかったのだと諦めていただくだけの話です……」

 挑発するようにマルチェラが言う。隠したければ隠すが良い、と。

 煽られても真に受けてはいけない。悪魔と取引をしているのは自覚していた、だから迂闊に契約してはいけない。落ち着いて考えるよう、自分に言い聞かせた。

 女王に自分の能力を売り、その対価としてエリーの腕を治してもらう。実現可能性については、問題ないと思う。女王まで繋がるパイプがあるかどうか、という点は気に掛かるが、それぐらいは多分なんとかなる。『女神の抱擁亭』のマスターなら、王国の偉い方ともつながりは間違いなく持っている。多分、僕が力を売ると言ったら止められるだろうが……そこはなんとか出来るだろう。

 気に掛かるのは、マルチェラが先ほど口にしていた、猛烈な誘惑の言葉。あの方の心はずっと、あなたのもの、という。

 マルチェラの言葉に、抗いがたい魅力を感じたが、実際提示された案では、どうしたって実現できそうにない。

「そんな手段で腕を治したところで……エリーは喜ばない。自分がカナタを追い込んでしまった、って余計に思い詰めてしまうだけだ」

 マルチェラの言うとおりにすれば、確かにエリーの腕は治る。でも、エリーが僕のためを思って禁じたドーノの力を使うのだ。腕を治したって僕とエリーの間にあるわだかまりは消えるどころか、増すばかりだ。腕だけの問題ではないのだから。

 指摘すると、マルチェラは僕を小馬鹿にするように青い瞳を弓のように細め、くすくすと笑った。

「だからこそ、なのですわ。あのお方が、あなたがやったことで押しつぶされそうになればなるほど……それは、あのお方をあなたに結びつける、強固な鎖となる」

 マルチェラの甘い笑い声が、まるで悪夢のように室内に響いた。

「あなたは全てをやり遂げた後、ただこう言えば良いのです。ねえ、僕の言うことを聞いてくれる? って。そうすれば、彼女は従わざるを得ませんよ。あなたが払った犠牲について、目を背けるような人じゃないことは、あなた自身が一番知っていることでしょう」

 玄関に立ちっぱなしだったマルチェラが、僕の方へ歩いてきた。彼女の白く、繊細な指が僕の頬に触れた。

「きっと、あるでしょう? あのお方にしてもらいたいこと……」

 青い瞳が、僕を見つめる。まるで、僕の中にある願望を覗き込もうとするように。

 ない、なんて言えない。彼女の故郷に一緒に行くという、彼女に踏みにじられた約束が、マルチェラの言葉に反応して真っ先に浮かんできた。冷たく切り捨てられてしまったあの約束。

 それからもう一つ。マルコの企てで中断された、あの日の続きをしようという約束。彼女が覚えているかは知らないけれど、僕は覚えている。心の奥底に仕舞っているけれど、捨てられずに残している。

 この二つの約束が仮に叶うとしても、それは遠い未来に、大変な労苦を乗り超えてからだと思っていた。決して短くない時間と多大な努力を重ねて、彼女を追いかけてようやく手に入るもののはずだ。

 でも、マルチェラの言葉に従えば、そう掛からない。僕の力を売り渡し、侍医に腕を治させるまでにどれくらい掛かるかは分からないけれど、交渉次第でそれほど長くない時間で引き出せるだろう。なにせ、一睨みで全てを焼き払う力を持っているのだから、相当大きく出られるはず。僕の力は誰にも換えが利かない、チートな能力なのだから、多少の無理は利くはず。

 そこさえ乗り越えれば、後は簡単な話だ。僕はただ……彼女に言えば良い。約束を守ってくれるか、と。

 彼女との約束が、そう遠くない未来に叶うかもしれない。それは、僕にとって、夢が叶うも同然の幸福だった。望まずにはいられない願いだった。

 でも。僕はマルチェラの提案には頷けなかった。まだ、彼女の案には未だに触れていない大きな欠点が残っていることを見過ごせるわけがない。

「……そんなこと、したら……エリーに嫌われちゃうよ」

 僕はか細い声でつぶやいた。単純にして、重大な欠点を指摘した。

 マルチェラは、まるで怯まなかった。彼女の唇はよどみなく動いた。

「それも、あなたが払うべき犠牲の一つです」

「なんだよ、それ。意味ないじゃないか。一緒に居ても、嫌われているなら、意味なんて」

 僕の頬に触れていたマルチェラの手の、人差し指が僕の唇に触れた。それ以上、言葉を発することを物理的に禁じた。

「嫌われても、憎まれても関係ありませんよ。あのお方と別れて、二度と会えなくなることに比べればね。一緒に居さえすれば、いくらでもやり直しは出来るでしょう?」

 彼女は僕を見つめながら、真綿のような柔らかな微笑を湛えていた。

「もう一度、好きになってもらえばいいだけのこと。出来ますよね? だって、あなたたちは……お互いを愛し合っているのでしょう?」

 マルチェラの白い指が、僕の唇から離れた。

 ようやく発言を許された僕の唇から、ひとりでに言葉が漏れた。

「……ああ」

 誰にも、その事実を否定などさせたくなかった。

 僕はもう、それからマルチェラに何も言えなくなってしまった。

 悪魔に魂を売り渡す契約を、結んでしまった。



 エリーが、僕に大嫌いになった、と言った後……長い沈黙がリビングに下りていた。二人で何度も食卓を交わし、笑い合ってきたこの場で、こんなに長い静寂が訪れたのは、きっと初めてのことだろう。

 エリーは机で長らく突っ伏していたが、しばらくして椅子から疲れ切った体を無理矢理持ち上げるようにして立ち上がった。

 部屋に戻るのだろうか、と目で追っていたが、違った。彼女は玄関の方へ、ふらふらとした足取りで向かった。

「どこへ行くの?」

 僕は怯えた声で言った。エリーは振り返りもしない。

「……少し、散歩」

「僕も行くよ」

 慌てて僕は立ち上がり、彼女の隣まで駆け寄った。だが、エリーは首を横に振った。

「一人になりたいの。だから、行かせて」

「けど……!」

 逃げようとしているんだろう? 喉元まで、言葉が出かかっていた。

 多大な犠牲を払って、僕は彼女の籠の中の鳥にしようとした。でも、その目論見が今、失敗し掛かっている。責任感が強い彼女なら逃げだせまいとほとんど盲目的に信じていた。

 まさか、こうも堂々と逃げようとするなんて。

 精神的な鎖などでは、彼女を捕らえきれないのではないか。本物の鎖につなぐべきだったのか? それは……今からでも、するべきなのか?

 僕は混乱していた。錯乱していた、と言っても良いかもしれない。とにかく予想外の出来事に慌てふためいていて、エリーの様子になど、全く注意が向いていなかった。

 唇に、なにかが触れた。一瞬の出来事だった。ほんのりとあたたかくて、柔らかい感触がしたような気がするが、瞬きをするほどの時間に起こった出来事だったから、本当にあったことかどうかすら確信が持てなかった。

 何が起こったのか、理解したのは全てが終わってからだった。

「エリー……?」

 吐息が掛かるほどに、彼女の顔が近い。さながら、口づけを終えた直後のように。

 ほんのわずかな時間、彼女の黒い瞳と視線があった。だが、その時間はあまりにも短く、瞳に浮かぶ感情を読み取らせるだけの暇を与えてくれなかった。彼女は頭を僕の胸に埋め、その表情を隠してしまった。

「整理する時間がほしいだけ。あたし、逃げたりしないから」

「でも……!」

「首飾り、まだ貰ってないわ」

 僕の声を遮るようにエリーが言った。

「捨ててないんでしょう? じゃあ、ちょうだい。帰ってきたら、あたしの首にかけてくれる?」

 指摘されて、僕は思い出した。彼女のために買った首飾りをまだ渡していなかったことを。他のことで頭がいっぱいで、約束していたのに忘れていた。

「ああ……勿論」

 混乱したまま掠れた声で返事すると、エリーの手が軽く僕の背中を叩いた。まるで幼い子供をあやすかのように。

「夕方には戻ってくる。だから、待ってて」

 エリーが僕から手を離した。ふれあっていたぬくもりが遠ざかり、やがて僕から一歩、二歩と遠ざかっていく。

 玄関のドアが開いて、彼女の後ろ姿が消え、階段を下りる足音が遠ざかっていっても尚、僕はそのまま立ち尽くしていた。

 僕は、心の隅で疑念が湧いてくるのを感じていた。

 自分自身と彼女を傷つける、こんなやり方をしなくても、彼女は一緒にいてくれたんじゃないだろうか。もう少しだけ時間を掛けて、ほんの少しの勇気を出せば叶えられることを、最悪の方法で壊してしまったのではないか。

 さっき、彼女は、大嫌いになったなんて言っていたけど……そして、僕はそれをさっきは本当のことだと思ったけれど……多分、いや、絶対に嘘だ。

 彼女は、僕を手放せないでいる。僕が、彼女に対してそうであるように。

 なにもかもが、己の手のひらからこぼれ落ちていくような嫌な予感ばかりが募った。全てをやり遂げ、もう後戻りが利かないこの段階に至って。

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