57 一か月
時は一ヶ月前に遡る。
エリーの制止を振り切って、僕は『女神の抱擁亭』の相談部屋でマスターに一つ依頼をした。この国で一番の癒やしのドーノの使い手に繋ぎを取りたい、と。
マスターはすげなく、僕の申し出を無理だと却下した。当たり前だ、この国一番の癒やしのドーノの使い手と言えば、女王の侍医だ。名の知れた貴族ですら、大量の金貨を積んでようやく治療を受けることが出来るほどの人物だ。金も名声も持ち合わせのない庶民では、雲の上の存在。例え、身を売って作った金をはたいたところで、届くはずもない。
だが、僕は真剣に侍医にエリーの腕を治してもらうつもりでいた。だから山のような金貨よりも、貴重で価値があるものを差し出すと決めていた。
それは……恐るべき力を持つ、僕のドーノ。
「僕は、女王陛下に売り込んだのさ。今なお終わらない戦争だって、この力さえあれば、終わらせられますってね」
僕とエリーは、リビングのテーブルで向かい合わせに座っていた。
和やかというには、ほど遠い空気だった。エリーは怒りを堪えるように歯を食いしばり、テーブルに投げ出された両手は震えていた。
「それで……さっき、あたしの腕を治してくれた人が、女王の侍医だったってことね」
うめくような声で、エリーが言った。
「その通り。僕の力が本物であることを、この一ヶ月の間に証明した。それでようやく認めてもらって、今日エリーの腕を治してもらうことが出来た、というわけだ」
「待って。……証明って何をしたの?」
はっとして、エリーが僕に鋭い視線を投げかけた。
僕は一瞬押し黙った。聞き流してくれれば良かったのに、と思ったが、どうせ遅かれ早かれ話すことになる。
「大勢の人を殺した」
誤魔化そうとは毛頭思わなかった。僕は一番、的確な言葉を選んで言った。
「平原での部隊のぶつかり合いだった。僕は高台に上って、戦場を見下ろしていた。見晴らしが良くて、遮蔽物もなく、昼間で視界は良好。さあ何千人、殺したかな……」
僕は、虚ろな笑みが浮かんでくるのを止めることが出来なかった。
目を閉じれば、今でもその戦場に舞い戻ることが出来る。僕が戦場を一瞥した瞬間、川向こうに布陣していた隣国の軍隊が、一瞬で消し炭と化していた。甲冑を身にまとい、馬に跨がった立派な騎士も、剣や槍で武装した熟練の傭兵達も、普段は鍬や隙を片手に畑仕事に従事していた農民たちの民兵も、皆残らず焼き尽くした。
距離があったので、平原に横たわる夥しい数の死体はほとんどごま粒のようにしか見えなかった。だが、風に乗って運ばれてきた嫌な匂いが、確かにあれは焼死体で、僕が殺した人々なのだと実感を持たせてくれた。
その日は、水も含めて何も口にすることが出来なかった。目蓋を閉じれば、騎士や兵士達の見知らぬ何千もの顔が延々と浮かんできて、苦悶に満ちた表情で断末魔の絶叫を僕に聞かせ続けた。そんな状況では禄に眠れない。夢も見れないほどに疲れ切って、ようやく昏倒するような日々を繰り返している。
エリーは、何も言わなかった。いや、言えなかったという方が正確な表現かもしれない。彼女は必死に、拳を握りしめて耐えていた。今、言いたいことを言えば、感情が爆発して、何も話が出来なくなることを危惧しているように見えた。
「もう……カナタは、何もしなくていいのよね?」
エリーは最後の希望に縋るような口ぶりで言った。
だが、僕は静かに首を横に振った。
「いいや。明日から、僕はまた最前線に投入される。この戦争が終わるまでは、女王陛下のために戦わなければいけない。今日、一日だけでもここに戻ってこれたのも、相当僕がごねたからだよ」
先ほど再生されたばかりの彼女の右腕に、僕は目をやった。生まれたときからあったかのように、何の不自然さも感じさせない。あの侍医は性格にはかなりの難があるが、ドーノの腕だけは間違いなく確かだった。
僕はそっと、テーブルの上に投げ出されたエリーの右手に触れ、そして恭しく取った。新しく作り直したせいか、手には小さな傷どころか、剣だこさえ無かった。彼女の手から血の通ったあたたかさを感じながら、手の甲に口づけをした。
「治って良かったよ、本当に」
僕よりも少し小さくて、けれども強くしなやかな手。愛しい人の手。
いつまででも眺めていたいと思ったけれども、エリーは静かな動きで僕の手から右手を引いた。彼女は膝の上に右手を置くと、うつむきがちになって首を振った。
「あたし……ありがとう、なんて言わないわよ。絶対に」
僕は頷いた。
「うん、別にいらない」
感謝されようと思ってやったことじゃない。エリーは絶対に言わない、いいや言えない、と分かっていた。
「……なんで、こんな馬鹿げたことをやろうと思ったの? 自分を犠牲にして……」
うなだれながら、エリーが言う。僕は即答した。
「君と一緒にいたかったから。そのためには、君の腕が必要みたいだから」
冒険者をやめる、とエリーが告げたあの日。彼女は言っていた。僕を両腕で抱きしめることが出来ない自分に、愛してほしいなんて言う価値はないのだと。
だったら、こうも言えるのではないか? 腕さえあれば、愛してほしいという価値があると。
「腕だけの問題じゃない……」
苛立った、そして疲れ切った声でエリーがつぶやく。もっともだ、と僕は思った。言われなくても、分かり切っていることだ。
ただ、とぼけてみせただけだ。腕さえあれば、と僕が勘違いしているように見せかけたかっただけ。
「言いたいこと、山のようにあるのよ。でもね、もう言えない。言いたいことが多すぎて、あたし……あんたに、もう何も言えない。何を言ったら良いのか、分からない」
エリーがテーブルの上で、長い髪を乱雑に掻き上げながら突っ伏した。まるで大きすぎる荷物に押しつぶされたかのように。
「いいよ。言えるようになったら、言って。今日聞ける分は聞くし、聞ききれなかった分は……戦争から戻ったら聞くよ」
「……戻ってこれるの?」
突っ伏したまま、エリーがつぶやいた。
「待っていてくれるの?」
僕は彼女の問いかけがたまらなく嬉しかった。声が弾むのを、抑えきれなかったほどに。
けど、彼女の声は対照的だった。
「……待たない、という選択肢、あたしにあるとでも?」
呪詛を唱えているような、苦々しい声だった。
「あんたの両手を血に染め上げさせて、自分の未来を捨てて、女王の狗にさせたあたしが、拒否できるわけないじゃない」
エリーは顔を上げた。焼け付くような激しい瞳が、まるで親の仇に向けるような怒りを露わにしている。
けど、そんなことは構わなかった。彼女の言葉は、待つ、という返事も同然だったから。僕は彼女からこの言葉を引き出したくて、自らをなげうつことに決めたのだ。
「ねえ、戦争から戻ったら約束を守ってくれる? 君の故郷に僕も行く、って約束……」
躊躇いがちに切り出した。ここまで彼女に言わせても尚、まだ怯えていた。約束なんて知らない、なんて言い出さないか不安で仕方なかった。
エリーは、仰々しくため息をついた。
「……守るわ」
全てを諦めたような声。でも、僕は……それでも嬉しかった。思わず舞い上がってしまうほどに。
もう一つの約束を口に出しても良いだろうか。僕は、胸が高鳴るのを聞いた。
「あの、エリー。もう一つ、僕たちは約束をしたの……覚えている?」
「約束? いいえ……?」
おずおずと切り出した僕に、エリーは不思議そうに答える。本気で覚えていない様子だった。
少し、落胆した。僕にとっては、彼女の故郷へ行くことと同じぐらい大事な約束だったのに。だが、忘れられていたからと言って諦める気には、到底ならなかった。
「ほら、あの日、僕らがマルコと戦った日だよ。雨の中、僕らは肉の化け物に囲まれたけれど、窮地を抜けて、雨宿りをした。そのときに話した……」
続きを言うのに、時間が必要だった。なけなしの勇気を振り絞って、なんとか続けた。
「……続きをしようね、って僕は言った。雨が降り出す前、村に惨劇が起きる直前の……」
彼女の体の柔らかな感触とぬくもり、それから形の良い柔らかそうな唇。あの日に体験した感覚が蘇り、己の中で鼓動が一層激しくなっていくのを感じた。
「僕が王都にいられるのは……今晩だけだから。今日を逃せば……いつ会えるか、もう分からないから。だから……その……」
自分の唇が、戦慄いた。崖から飛び降りるようなつもりで、その続きを言葉にした。
「今晩、僕と一緒に過ごしてほしい。あの日の続きに……付き合ってくれないか」
僕の決死の告白を、エリーは重たい沈黙で答えた。
言葉よりも先に、重苦しいため息がかえってきた。
「あたし、ひどいこと……言うわね」
ぽつりとエリーが言った。
断られるのだろうか。それだけじゃなくて、口汚く罵られるのだろうか。逃げ出したくなるぐらい怖かったけれど、なんとかその場に踏みとどまった。
「どうぞ」
僕が固唾をのんで告げると、エリーは待っていたように口を開いた。
「あたし……分かんなくなっちゃった。あんたのこと、好きなのか……嫌いなのか、あるいは憎んでいるのか、それとも愛してるのか……もう全然分からない」
エリーは肩を揺すって笑った。笑いながら、同時に泣いているような声だった。
彼女の答えに、落胆なんてしなかった。むしろ安堵したぐらいだった。それは、予想通りだったから。好きで居てくれたらむしろラッキーで、嫌われたり憎まれることは重々承知の上で、僕は一ヶ月前から行動していた。
想定済みの言葉に応えるために、前もって答えを託されていた。
「嫌われたって、憎まれてたって別にいいよ。もう一度……君に好きになってもらうように、頑張るだけだから」
僕が淀みなく答えると、エリーは乾いた声で笑った。
「……今、大嫌いになったわ」
そう言うと、黙り込んで会話が途切れた。疲れ切って、もはや口も利きたくない、という風に。
別に構いやしなかった。なにもかもが、どうなったって今の僕には大したことではない。
彼女が、僕から逃げられないのならば。