56 終わりの始まり
マルチェラとの会話を終えると、僕はすぐさま『女神の抱擁亭』に引き返した。帰り道のだらだらとした足取りではなくて、通行人を突き飛ばしかねないような勢いで。
息を乱して姿を現した僕に、談笑中だったエリーとソフィアが驚愕の表情で振り返った。
「どうしたの、カナタ? そんなに慌てて……」
エリーが気遣わしげに訊ねてきた。
「ああ、いや……ちょっとマスターに用事があってさ」
僕は彼女の視線から逃げるように、カウンターの方に顔を背けて言った。
「何かあった……?」
不安げなエリーの声が聞こえた。だが、僕は振り返りたくなかった。何も答えずにカウンターの方を見ていると、やがてマスターが奥から姿を現した。僕の姿を目にすると、首を傾げながら近寄ってきた。
「カナタ君、どうかした?」
「マスター、ちょっと話が。……内密に話したいことがあって」
後半部分をエリーに聞かれないように、声を小さくしてマスターに言った。
「とりあえず、聞こうか。……あまりいい話ではなさそうだが」
ぼそりとマスターが付け加えた一言に、僕は心中を見透かされたような気になったが、怯んでは居られない。
「大事な話なんだ」
それだけ答えて、鍵を取りに行ったマスターを置いて、僕は相談部屋へ足を向けた。
すると、その途中で後ろから声を掛けられた。
「待って、カナタ! 何の話をするつもりなの?」
エリーの声に、僕は思わず足を止めた。
「あたしも一緒に聞いちゃいけない?」
追いすがるように、エリーが言う。だが、僕は首を横に振った。
「君はもう冒険者をやめるんだろ。これは僕一人の仕事の相談なんだ、君には関係ないことだよ」
自分が冷たい声でエリーに言い放つのを、僕はどこか他人事に聞いた。
「確かに……そうだけど」
エリーがもどかしげにつぶやくのが聞こえた。
「でも……今のカナタ、なんだかおかしい。だから、放っておいたらいけない気がして……」
躊躇いがちにエリーが言う。図星を指されて、僕はどきりとするのを感じた。これからやろうとしていることを全て見透かされているような気がして、ぞわりと鳥肌が立った。
「僕を突き放そうとしてるくせに、自分からは近づこうとするんだね。そういうの、残酷だからやめてくれない?」
恐怖の裏返しか、身を守るだけの言葉で良かったのに、過剰な言葉が出てきてしまった。後悔しても、もう言ってしまったことは取り消せない。
エリーは言葉を失っていた。背を向けているので見えはしないが、傷ついてうつむく姿がありありと脳裏に浮かんだ。
振り返って、彼女に何もかもぶちまけたい衝動に駆られた。さっきは誤って言い過ぎただけだということは勿論、僕がこれからやろうとしていることは君のためなんだということ……君を愛するが故の行動なのだと伝えたかった。
でも、僕は辛うじて踏みとどまった。
これから僕がやろうとしていることを知ったら、エリーは確実に僕を止める。何をしてでも、彼女は僕の行動を妨害するだろう。彼女の腕が戻ると知っても、絶対に了承なんかしない。
だから……今だけは、何も言えない。
僕は再び、相談部屋への歩みを再開した。その場に黙ってたたずむエリーの気配が遠ざかるまで、彼女の視線をずっと背中に感じていた。
その後、僕は一ヶ月ほど王都を離れた。エリーを伴わずに、王都を出たのはこれで二回目。だが、前回とは離れた距離も時間も段違いだった。
一応、王都を立つ前にエリーには一ヶ月もしないうちには戻るから、それまでは故郷に戻るのは待ってほしいと置き手紙を残した。
僕は甚だ不安だった。予定していた期間を過ぎた上に、彼女との最後のやり取りは、彼女を突き放すものでしかなかったから。僕の帰りなど待たずに早々に荷物を纏めて、故郷に旅立っていてもおかしくはなかった。
だから、玄関のドアをノックをしても何の反応も得られないかもしれない、誰も自宅にいないかもしれないという不安が付きまとっていた。
だが、それは杞憂に終わった。
「……ただいま」
帰ってきたことをノックしながら告げると、けたたましい足音が近づいてきた。玄関の扉が想像よりも随分早く、しかも力一杯開けられたせいで、逃げそびれた僕の額に思い切りドアが命中した。
痛むおでこを思わず押さえていると、エリーが玄関から出てきた。痛がる僕を気遣う言葉一つ無く、ぎろりと睨んだ。
「どこ行ってたのよ、置き手紙一個で姿眩まして! 余計な心配かけさせるんじゃないわよ、馬鹿! このツケはちゃんと払ってもらいますからね!」
エリーはすごい剣幕で怒鳴りながら、左手を勢いよく僕に突きつけた。
怒ってる、物凄く。でも、それが馬鹿みたいに嬉しかった。おでこの痛みを感じながらも、僕ははにかむように笑った。
「ごめん、ごめん。そんな怒らないで、お酒なら後でいくらでも奢るからさ」
「はあ? そんなのんきなこと、言って良いわけ? あんたの財布が弾け飛ぶまであたし、本当に飲むわよ」
エリーが挑発するように手を腰にやって、僕を睨む。
「いいよ、いいよ。やれるものなら、やってみたらいい。出来たら、褒めてあげるよ」
僕もまた、彼女に挑戦的な視線を返す。
「なによ、報酬を金貨で山のようにもらってきたような口ぶりね。金鉱山の一つでも掘り当ててきたって言うわけ?」
余裕を見せる僕がおもしろくないのか、エリーが頬を膨らませた。
他愛のない軽口を交わすのが、ひどく懐かしく感じた。なんだか、マルチェラがやってくるよりも前に時が巻戻ったような気がする。お互いに対するわだかまりが、一ヶ月の空白期間を経て、消えて無くなったような気がした。
僕は、このあたたかな時間を手放したくなかった。何の気兼ねもなく彼女と笑い合えることが、以前は当たり前に転がっていたのに、最近はどうも安定して手に入れられない。
だが、残念なことにいっとき、手放さなければならない。いつまでも、この一ヶ月の間に僕がどこに行って何をしていたのか隠し通すわけにはいかないから。
明かせば、彼女はきっと怒る。僕をついさっき出迎えたときの非ではないぐらいに。だが、それはこれからの長い時間を彼女と一緒に過ごすために必要な犠牲だった。
エリーの問いかけに答える前に、僕は一息ついた。この優しい時間に別れを告げる覚悟を決めた。
「……そうだね。まあ、そんなものかな」
「どういうこと? あんた、何をしてきたの?」
たちまちエリーが何かを察したように眉を跳ね上げた。
ついさっきまであった、穏やかな空気はもう消えた。あるのは、エリーの探るような視線とぴりりと張り詰めた空気ばかり。
「第一、何でそんなひどい顔してるの? ねえ、最近ちゃんとご飯食べてる? ぐっすり眠れてる? 百年働きづめだったみたいに、やつれた顔してるわよ?」
矢継ぎ早に質問を浴びせかけてくるエリーに、僕は何も答えなかった。その代わり、僕の後ろにいた人物に道を譲った。
僕の代わりにエリーの前に歩み出たのは、初老の男性だった。目立たないように地味な外套を羽織っているが、外套の隙間から覗いた衣服は仕立てが良く、絢爛な宝石やレースがちりばめられていて、僕らの粗末な住宅を訪れるには明らかにふさわしくない人物だった。
「えっ、ちょっと。この人は誰……?」
エリーの当惑する声を、僕は無視した。その代わり初老の男性に声を掛けた。
「申し訳ありません、お待たせして。お願いします」
僕がお辞儀をして丁寧に言うと、外套姿の男は尊大な仕草で頷いた。そして、一山もある果物を掴むような雑な手つきで、エリーの右肩を掴んだ。彼女は、空っぽの袖をはためかせながら、身を捩った。
「ちょっと! 離して!」
エリーが叫ぶや否や、外套姿の男性の手がまばゆい光を放った。そして、その光はエリーの右肩へと吸い込まれていく。奔流のような光が止んだときには、空っぽだった右袖に腕が通っていた。
光が止むと、初老の男性はもはやこの場にいる理由はないとばかりに、素早く踵を返した。そして、僕の側を通り抜ける際に耳打ちした。
「陛下の恩情に感謝するのだぞ」
「……はい」
僕は恭しく頭を垂れて、初老の男を見送った。
彼が階段を下りて、待たせていた馬車に乗り込む音がしたとき、ようやく僕は頭を上げた。
頭を上げた瞬間、僕は胸ぐらを掴まれていた。エリーの蘇ったばかりの右手が力強く、僕を締め上げていた。
「あんたは一体何をしてきたの? どういうことか、ちゃんと説明してくれる?」
彼女の黒い瞳には、燃え上がるような怒りが宿っている。そう簡単には鎮火しそうにない激しさがあった。
やはりこうなったか。予想はしていたが、実際目の当たりにすると辛かった。こんな風に怒らせたくなんてなかった、何も知らなかったさっきまでのように笑っていてほしかった……。
後悔ばかりしても、今更意味が無い。とにかく、今は話を先に進めることを優先しなければならない。
「もちろん話すよ。だから……手を離してくれるかい?」
エリーは乱暴な手つきで僕を解放した。そして、話をするためにリビングのテーブルの方へ歩き出した。
「一ヶ月前……あたしは、あんたを張り倒してでも止めるべきだったみたいね」
エリーが悔いるようにつぶやく声が、聞こえた。