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55 悪魔の契約

長い帰路を終えて、ようやく家にたどり着いた。本当はそう長くない距離のはずなのに、どっと疲れた体を少しでも休めたいという欲求があった。

 だが、今の自宅が安らげる憩いの場ではないことは分かっている。それに、エリーが戻ってくる前にやらなければならないことがあるのを忘れてはいない。

 僕は部屋に入る前に深呼吸をした。これからやろうとしていることに、何よりも起こりうることに対して、僕はかつてないほど極度の緊張を覚えていた。

 出来ることなら、穏便に済ませたい。だが、どうしても上手くいかないときにはやむを得ない。

 僕にはもう、覚悟がある。何をしてでもエリーを守るのだという固い覚悟が、ラクサ村の惨劇を経て、僕の中に確かに芽生えていた。

 心して玄関のドアを開ける。やはり当然のように出迎える人影があった。

「お帰りなさい、カナタさん。あら、エリーさんの姿が見当たらないですわね。ひょっとして、また喧嘩でもなさったのかしら?」

 嘲るように笑いながら、マルチェラが出てきた。

 この女の悪意に満ちた煽りを、いちいち真に受けていては身が持たない。僕は出来る限り冷静になるよう務めた。

「出て行け、って再三言ってるよね。力尽くで追い出されるまで、分からないかな?」

 マルチェラは肩をすくめた。

「怖いこと仰るのね。でも、知ってますのよ。カナタさんはとても優しい人だって。哀れな私を無理矢理追い出すなんて、そんなひどいこと、出来るはずがない……」

 僕はべらべらと話し続けるマルチェラを押しのけて、部屋に上がった。リビングに入って椅子に目を留めた。マルチェラがやってきて、屋根裏で埃を被っていたのを引っ張り出したものだ。

 背を向けたマルチェラに向かって、僕は言った。

「見くびるなよ」

 毒の滴るような悪意に対抗すべく、精一杯の敵意を込めて。

 次の瞬間、僕が視線を向けていた椅子が、真っ黒な炭の塊と化した。焦げ臭い、深いな匂いが鼻を突いた。

「お前もこうなりたくなかったら、出て行け」

 がた、と音を立てて、マルチェラがいつも座っていた椅子が崩れる。

 マルチェラが息をのむ音が、静まりかえった室内に響いた。

「……へえ、意外とやるんですね」

 笑おうとして笑えなかった声で、マルチェラが言った。

 僕は背後を振り返った。いつもたっぷりと湛えていた余裕の微笑が、彼女の表情からなりを潜めていることに気づいた。

「猶予なんか与えない。今すぐ出ろ。……さもなくば」

 僕は、じろりとマルチェラの美しい顔を睨んだ。

「次は、お前の番だ」

 眼差しに込めた、殺意を隠そうともしないで。

 躊躇はまるで湧いてこなかった。こいつならいい、と僕は思っている。エリーを害しようとする奴は殺してもいい、と頭の中の声が言っている。マルコのときと同じように。

 もう僕は同じ過ちを繰り返したくない。相手が人間だからといって躊躇っているうちに、大切な人が傷つけられる愚行はまっぴらだ。人前でドーノを使うな、というエリーとの約束をこれで破ったことになる。だが、もう何もしないための言い訳をするのは嫌だ。

 僕は、強い男になると誓った。これはその手始めの一歩だ。

 マルチェラは黙っていた。まるで感情を持たない人形のように、何の表情も浮かべずにただ立っていた。

 僕の言葉が単なる脅しではないことは、十分理解しているはずだ。彼女は王都の正式な市民でもなんでもない、余所から流れてきた単なる難民。他に身寄りも無く、彼女が姿を消したところで熱心に探す人はいない。……そう、僕が考えているとマルチェラは考えているに違いない。

 マルチェラが、彼女自身が語ったとおり難民であるかどうかは、知ったことではないが。

 青い瞳や白い頬に表情が浮かび上がってくるまでに、しばらく時間を要した。

「ねえ、カナタさん。あなたはエリーさんのこと……本当に愛していらっしゃるのね」

 マルチェラが、僕に微笑みかけてきた。悪意を感じさせない、表面上は穏やかな微笑みだった。

 何かを企んでいるに違いない。僕は沈黙を貫いた。言葉を交わせば、惑わされる。自分に言い聞かせる。

「こうして、心を鬼にして私を無理矢理にでも追い出そうとしているのも、あのお方のため。そうでしょう? 私、分かりますわ。冒険から戻ってきてから、あなたのお顔を見れば分かることですもの。今のあなたはエリーさんのためなら、何でも出来る……何を犠牲にしてもいい、という覚悟がおありだって」

 マルチェラは、目を細くして微笑した。

「でも、やっぱりあなたは甘いわ。エリーさんを救う手段が目の前にあるのに、まるで見えない振りをしていらっしゃる……」

 悪意が形を取って滴り落ちてきそうな、邪悪な微笑だった。

 挑発されているのは、明らかだった。耳を貸せば、罠が待ち受けている。絡め取られて、また良からぬ事に巻き込まれる。

 分かっている。それでも、僕は抗えなかった。

「……エリーを救う手段、って……?」

 マルチェラの、あまりにも魅力的な言葉を無視することが出来なかった。

 彼女の妖艶な唇が、まるで新月のように、蠱惑的でそしてどこか狂気的な笑みを浮かべる。

「エリーさんを苦しめる全ての元凶が何か、あなたは当然お分かりでしょう? 冒険に出かける前にはあったけれど、帰ってきたときにはあのお方から失われていたもの……それを取り戻せば、きっと何もかも元通り……」

「そんな都合のいい話、あるもんか!」

 僕の叫び声が、マルチェラの声を遮った。

「どうにか出来る手段があるなら、とっくにやってるよ! でも、そんなものはない。この世の中に存在していたとしても……僕の手には何をしても届きっこないんだから!」

 マルチェラの声を僕は必死になって、否定した。彼女の提案がひどく魅力的であることを承知で、それが現実には起こりえないことを願っていた。

 だって、彼女の言葉が本当なら、僕はエリーのために何もしなかったことになる。彼女を守るためならなんでもするという覚悟も、誓いも偽物だったことになる。

 僕の、彼女への感情までも嘘だったと否定されてしまいそうで……僕は恐怖さえ感じていた。

 だが、マルチェラの言葉は無情だった。

「ありますわ。ただ、あなたは気づかないふりをしていただけです。あなたの覚悟が足りないから、やろうとしなかっただけ……」

 焼け落ちた椅子のそばでたたずむ僕に、マルチェラがゆっくりと近づいてくる。まるで罠に掛かった獲物にとどめを刺そうとする猟師のように。

「あなたはこれからどうすればいいのか……私が手取り足取り、教えて差し上げますわ。だから、私の言うとおりになさって」

 マルチェラが僕の傍らに立った。そして、その妖艶な唇を僕の耳元に近づけてきて、囁いた。

「そうすれば、あの方の心はずっと……あなたのものですわ」

 抗いがたい、魅惑的な誘いだった。何度も彼女に突き放された僕にとっては、特に。

 耳を貸すべきではない、と理性は警告している。この女が、まさか魔法の杖の一振りのような誰もが幸せになれる方法を提案するわけなんてないんだから。

 でも、もう僕は彼女の手を離したくなかった。諦めるのも、追いかけ続けるのも、どちらも苦しい選択肢であることを理解していた。どんな手段を用いても、どんな犠牲を払おうとも……確かに彼女をこの手に捕まえられるなら……。

「……言ってみろよ」

 魂を、悪魔に売り渡した心地がした。


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