54 昔話
その後、酒場に戻ってもエリーとソフィアの長話が続いていた。別れを惜しんで話を切り上げられない、というわけではなく、いつまで経っても話の種が尽きず、結果延々と話続けているようだ。要するに、いつもどおりの雰囲気で喋り続けている。
彼女たちの邪魔をするのも気が引けた。それに、やるべきことが僕には一つあった。先に家に帰るとエリーに伝え、僕は『女神の抱擁亭』を後にした。
自宅への帰路に、僕はマスターとの会話を思い返していた。僕の相談の後、余興代わりだと言って話し始めた昔話……ソフィアの母親についてだった。
今日になって初めて知ったのだが、マスターの年齢は五十才なのだそうだ。そして、ソフィアは彼が三十五才の時に出来た唯一の子供。この世界の五十才は老年にさしかかっているし、三十五才で初めて子供を作るのは相当遅い。
「私が二十才の頃には、妻とは知り合っていたんだがね。これがもう大変でね、口説き落とすのに十年以上掛かったのさ」
マスターは懐かしげに語る。
「何でそんなに掛かったの?」
僕は素朴な疑問を口にした。
「あれは、幼少時から病弱でね。いつ死んでも不思議じゃないような体の持ち主だったのさ。私が求婚しても、首を横に振るばかりだったよ。いつ死ぬか分からない女を娶ってどうするんだ、ってね。私はそんなことどうでもいい、って言って、懲りずに求婚を続けたわけさ」
「へえ……」
マスターの話を、僕は意外に思いながら聞いた。てっきり、浮気して奥さんに逃げられた人だと思っていたから、予想とは真逆の話が出てきて驚いた。何度断られてもめげずに求婚するなんて情熱的な人だったのか、と見直したのだが。
「まあ、二,三度……寄り道はしたけれどね」
マスターが声を小さくして、付け加えるのを聞いた。なるほど、やはり魔が差したことはあるわけか。
「それはともかく。なんだかんだ言いながら、彼女は私と会ってから十五年は生きられた。最後の一年を私の妻として生きて、ソフィアを残してこの世を去った」
「一年……」
十五年の内の、たった一年。二十代から三十代半ばまでという、人生において貴重な時期を捧げたにも関わらず。
「なんだかそれは、とても寂しいね。たったそれだけ……なんて」
一年というのは、僕がこの世界にやってきてエリーと過ごした年月と同じ時間だ。
それは決して長い時間だとは思わない。体感の時間だと前世の一ヶ月ぐらいにさえ思われる。知らないことだらけ、苦難だらけのこの世界の暮らしは、振り返ってみればあっという間に駆け抜けていて、一年が過ぎていたような感じだ。
「そう、一年なんてあっという間さ。でも、十五年分の幸福がそこにはあったんだよ」
マスターは誇らしげに微笑んだ。
「それにね、彼女が去った後、全ての幸福が消え去ったわけじゃない。不出来な娘だが、ソフィアもいる。それに……」
節くれ立った手を、彼は胸に当てた。
「彼女の全てが、消え去ったわけではないから」
彼の手は、まるでそこに残った、他の誰にも見えない何かを慈しんでいるかのようだった。
あんな風に、僕はなれるのだろうか? 長い年月を掛けて、途中で寄り道をしながらも最後までやり遂げて、苦労に見合った幸福を手にするなんて。僕なんかに、そんな大それたことが出来るのだろうか? 問わずには、いられない。
マスターの奥さんは重篤な病気、エリーには片腕を失った、という負い目を持つところが二人の共通点だ。どちらも単なる好意の有無が問題ではなくて、もっと厄介な問題が障壁となって立ちはだかっている。マスターはまるで気まぐれのように自分の話をし始めたけれども、実際は意図を持って話をしたのだと思う。己の苦難に満ちた道のりとその見返りの大きさを、僕の決定の参考にしてほしいと。
僕は、今、悩んでいる。マスターが自分ならそうすると言ったように、諦めるか。それとも、困難を承知で彼女を追いかけるか。
マスターが自分なら諦める、と言った理由は、本人は明言しなかったけれど、なんとなく分かる。それはやはり、大変だから。一度通った道だからこそ、その辛い道のりをよく分かっていて、もう一度同じようなことをやれと言われたら拒否する、という意味合いなのだと思う。自分の立場なら、という前提を再三強調していたのも、そういう意図があるのではないだろうか。
ただ、諦めることが、楽な選択になるとも思えない。僕の中に芽生えてしまった感情を今更、なかったことには出来ないから。その感情が僕の中で生き続ける限り、彼女を追わずにいることは苦痛を生むだろう。
もっとも、すぐにその苦しみが消えたら消えたで、僕はまた別の意味で苦しむような気がする。その程度の感情だったのか、と自分を軽蔑するんじゃないだろうか。自分には彼女しかいない、と確信を持っていたのに、それが嘘だったと突きつけられたような気がして。苦心して手に入れた宝物が、実は偽物だったと知る落胆のような……。
諦めることで生じる不都合から目を逸らすためにも、とりあえず追いかけることをついつい選びたくなる。その道のりに待ち受ける困難をまだ禄に理解していないことを、いいことに。更に言えば、僕がしつこく追い下がることで、彼女がどれくらい傷つくかをまるで考えもせずに。僕の失態で彼女は腕を失ったのだから、その責任を取るべきだ、と大義名分までも振りかざして。
マスターと話すまでの僕は、追いかけることしか考えていなかった。でも、今は違う。追いかけることに躊躇いが出来た。かといって、すっぱり諦めることも出来ずにいる。結果、これからどうすればいいのかまるで分からなくなってしまった。
いつもなら十分も掛からずに着く帰路が、まるで道しるべ一つ無い砂漠の中を延々と歩いているように感じられた。足取りは砂に足を取られたかのように、重たい。
ひとりでに、深いため息が唇から漏れた。
「こんなつもりじゃ、なかったのにな……」
ついでに、誰に聞かせるわけでもない独り言も。
僕が『異世界チート』の主人公大和だったら、きっとこんな悩まずに済んだのに。颯爽と女の子を助けて、分かりやすい好意を向けられて、何の障壁もなく結ばれる。それも一人二人じゃなくて、何人も。特に彼女らの中では何の争いも起きず、平穏な日々が約束されている。
そんな、なにもかもが順調で幸福だけが詰まった恋をしてみたかった。だが、僕にはどうも、縁がないようだ……。