53 別れの言葉
しばらくの間、各々の部屋で休憩した後、僕とエリーは『女神の抱擁亭』に向かった。マスターもソフィアも、僕からの手紙で村で起こった出来事も、エリーの身に何があったかも知っている。それでも、利き腕を失ったエリーと実際に向かい合うと二人はしばしの間、言葉を失っていた。
「あたし、冒険者はやめて故郷に帰るつもり。二人とも、今までありがとう」
エリーは、マスターとソフィアに向かって頭を下げた。マスターはもっともだという風に頷き、ソフィアは仲の良い友人が去ることに涙した。
「私、絶対手紙書くから……元気でね」
ソフィアはハンカチで目元を拭いながら、言う。エリーは友人の泣き顔を優しく見守り言う。
「うん、あたしも書くから。あたしたち、ずっと友達よ? ……そうそう、ソフィア」
「うん?」
ソフィアがハンカチから顔を上げる。エリーの目が僕を見た。
「もう責めないであげてね。あれ……マルチェラの真っ赤な嘘みたいだから」
あれ、が何を指すか分からない人間はこの場には居ない。ソフィアの目も僕をちらりと見て、頷いた。
「……エリーがそう言うなら」
どことなく不服そうな響きがある。エリーが柔らかい微笑を湛えて、ソフィアに言う。
「カナタのこと、頼むわね? あんまり殴ったり、いじめたりしちゃダメよ?」
「うーん、それは保証できないな……あいつが余計なこと言わないかどうかだね」
腕組みして、ソフィアが唸る。エリーは友人同士の気の置けない会話に、くすくす笑っていた。
僕は口を一切挟まずに座っていた。僕だけが王都に残って冒険者を続けるような前提で話が進んでいることを、わざわざ指摘しようとは思わなかった。
ソフィアとエリーの会話がその後も尽きずに続いていくのを確認して、僕はひっそりと席を立った。いつの間にかカウンターの奥に引っ込んでいたマスターと目が合った。すると、手招きされてついていくと、いつぞやの相談部屋だった。鍵までは閉めなかったが、ドアを閉めると、マスターがにっこり笑って話しかけてきた。
「僕だけは納得してないぞ、って顔してるね」
「よくご存じで」
乾いた声で笑った。ソフィアは全然気づいた素振りさえないのに、しっかりマスターは僕の心境を見抜いている。
「僕も冒険者、やめてエリーについていくつもりだったんだけど。断られちゃったよ」
自嘲気味に笑うと、マスターは僕に席を勧めた。
「長い話になりそうだね。まあ、今は店も暇だから聞いてあげるよ。お酒いるかい?」
「いや……なくても、話せるから」
マスターの申し出を固辞すると、彼は人の悪い笑みを浮かべた。
「そいつは残念。話す側には不要でも、聞く側には酒の肴にうってつけなのになあ」
「他人事だと思って、好きに言うね……」
ぼやきながらも、僕は話し始めた。村で起きた事件の詳細から、エリーに拒絶されたところまで包み隠さず。
マスターの方から声を掛けられなければ、別に話すつもりはなかった。ただ、隠そうとしても、どうせこの人は追求してくるだろうし、僕自身に、他人に話を聞いてもらいたい気持ちも少しあった。
僕の私情は出来るだけ排除して、実際に起こったこととエリーが話したことを述べた。全て聞き終わったマスターは、ぽつりと言った。
「なるほど。一筋縄ではいかないね、今回は」
前回とは違って、ということだろうか。
「……マスターなら、どうする?」
訊ねる声に、ためらいが出た。
それを知ってか知らずか、マスターは視線を宙にさまよわせて、少しだけ考える素振りを見せた後、口を開いた。
「私が君の立場なら、という前提だったら……諦めるかな」
マスターの口調に迷いこそあったが、答えははっきりしていた。
「一度、覚悟を決めた女性の心を変えるというのはね、至難の業だよ。半端な覚悟なら、やめた方が身のためだ」
マスターは苦々しく顔を顰めて言った。
「僕は……分からないんだ」
机に視線を落としながら、ぽつりと言った。
「今まで、エリーは自分のことをみじめだと思ってるなんて、知らなかったんだ。腕を無くした後なら、まだしも……ずっと前から、なんて」
教師を必要とする生徒のように、僕は解説を必要としていた。
マスターはじっと僕を見た。その視線には、その程度のことも分からないのかと僕を責めているようにも思えた。でも、彼はそのようなことは言わず、頬杖を突きながら口を開いた。
「これから話すのは、私の推測だよ。正解とは限らない、一つの可能性ぐらいに思って聞いてくれるかい?」
穏やかな声で、マスターが言った。僕は黙って頷いた。
「たしか彼女って、五人兄弟の一番上のお姉さんだったよね。母親は随分前に亡くしていて、父親と協力して幼い弟妹達の母親代わりを務めていた。弟妹たちが大きくなって、ようやく生活が落ち着いてきて、以前からの夢だった冒険者になった……って聞いてるけど、それで合ってる?」
「合ってるはずだよ」
僕は答えたが、質問の意図はまだ読めない。
「じゃあ、そういう境遇だからかな。面倒見が良くて、困っている人をどうやら見過ごせない性質のようだ。一年前、危なっかしい君を見かねて、依頼に同行した。色々、彼女に面倒みてもらったでしょ?」
マスターがからかうように笑って言った。僕は口ごもりながら答えた。
「まあ……ドーノの使い方から、軽口の叩き方まで教えてもらったよ」
狼の群れに放たれた羊を放っておけなかった、とエリーは言っていたっけ。当時の僕は馬鹿にされたと軽く憤慨していたけれど、今になって思えば彼女の言葉は妥当に思える。
「君は、弟みたいな存在だったんだろうね。思わず世話を焼きたくなって、それから守ってあげなくてはと思うような、ね……」
「弟……か」
そんなところだろうな、とは感じていた。実際に言われたのは、飼ってる犬に似ている、なんてひどい内容だったけれど。
「僕にとっては甚だ不本意だったけど……でも、納得できるな」
エリーはいつも、冒険の時僕より前を歩いた。役割分担の都合だ、と僕は深く考えることなく思ってきた。でも、彼女からすれば違ったのかもしれない。後ろを歩く僕を、守らなければならないと意志を固く持っていたのかもしれない。
それは最初の冒険から……最後の冒険となった、あの時まで変わらず。
「ところが、だよ。守るべき相手だったはずの君は、彼女の想定以上の速さで成長していく。それも自分をいつの間にか超えて、強く、たくましくね。ひょっとしたら、彼女は君のそういうところに惹かれたのかもしれないね。でも、同時に混乱もしたんじゃないかな……」
マスターの指が、こつこつと机を叩いた。ここが話の肝要なところだ、と強調するように。
「君のことを守るべき存在の自分が、その役割を全うできなくなっている。むしろ、このままではいつか守られる側になるんじゃないか。そういう危機感にずっと苛まれながら日々を過ごしてきて……突然、腕を失った」
指が机を叩く音が、止んだ。
「彼女は、唐突に欠片も残さず失う羽目になったわけだ。君を守るべき立場である自分、というプライドをね。残ったのは、剣を握れないどころか、日常生活の助けまで乞わねばならない弱い自分……」
マスターの老獪な鋭い目が、僕に視線を投げかけた。
「君は、想像できるかい? それがどれほど、辛いことか? 人一倍責任感が強くて真面目な彼女にとって、君に頼り切りの人生を送らなければならない、ということが」
僕は、その鋭い目を正面から受け止めることが出来なかった。逃げるように目を背けた。
「でも、僕たちはお互いを……」
「好き合ってるって?」
弱々しい声で続けようとした僕の声を、マスターが遮った。
「だからこそ、余計に苦しいと感じるんじゃないかい? 好きな相手だからこそ、自分の汚いところや弱いところを見せたくない。綺麗な部分だけを選んで、見せたいと願う」
マスターは息を短く吐いて、つぶやいた。
「それは君だってそうでしょう。エリー君だってそうだ、とは考えないの?」
どきり、と胸が締め付けられるのを感じた。
自分の汚いところも、弱いところも出来ることなら見せたくない。そう強く願っているくせに、弱音を吐いたり、狼狽したりして失敗するのが僕じゃないか。エリーだって実は同じ願いを持っていて、ただし僕と違って成功しているだけだとしたら。上手く立ち回って、今まで見せずに済んでいるだけだとしたら。
もう、彼女の気持ちが分からない、なんて言えない。言ってはいけない。
痛いほどに、分かるのだから。
「……ごめん。馬鹿なことを聞いた」
想いの強さばかりに気を取られていた自分が、急に幼く、恥ずかしく思えてきた。マスターに諭されるまで、彼女の立場に立って考えることも全然出来なくて、自分の視野の狭さに愕然とするほか無かった。
「やっぱり……僕は、諦めた方が良いのかな」
口を突いて出てきたのは、気弱な言葉だった。まるで閉め忘れた蛇口からこぼれた水滴が立てるような、かすかな声。
「この程度のことさえ分からない、愚かで弱い奴につきまとわれたら……彼女が可哀想だ」
自嘲する僕に、マスターは微笑した。
「さっき私なら諦めると言ったけれど、それはあくまで私が君の立場だったら、という仮定に過ぎないよ」
僕の肩を、マスターがぽんと叩いた。
「君がどうするのかは、君自身で決めなさい」
年輪を重ねた木々のような、節くれ立った手だった。きっと、いくつもの選択をきっとこの手で行ってきたのだろう、と僕は感じた。