52 帰宅
三日後、僕とエリーは村を立った。行きは一人で歩いた道を、帰りは二人で歩いていた。
一人で歩く道のなんと侘しいことだろう、と行きは思っていた。一緒に歩いてくれる人の存在を恋しく思ったものだけれど、二人で並んで歩いている今の道中だって似たようなものだ。
僕らの間に、全く会話がなかったわけじゃない。すれ違う人たちの目には、恐らく僕らは和やかな二人組の旅人に見えただろう。二人分の荷物を背負いながら、片腕のエリーを気遣う僕と、そんな僕に感謝の言葉と明るい微笑を絶やさないエリー。表面上は、理想的な光景。
でも、その心の内は違う。僕が手を貸すごとに、顔に浮かべた笑顔とは裏腹に、エリーは己のみじめさを募らせていく。僕はそれを知っていながらも、彼女を放置出来ない。まるで彼女に何かしてあげれば、きっとあの馬鹿げた考えを取り下げてくれると信じているみたいに。他にどうすれば良いのか、全く見当も付かず、唯一自分に出来そうなことに縋り付いた。
道中の宿では、当然のように部屋はエリーとは別々だった。夕食を取った後は、それぞれ個室に籠もって顔を合わせなかった。
部屋で一人になると、どっと疲れが押し寄せてくる。荷物の重さで肉体が疲弊しているのは勿論、エリーとの気詰まりな空気にすっかり消耗していた。
エリーが冒険者をやめる、と言ったあの日以来、彼女が語ったことを何度も思い返していた。あの場ではほぼ一方的に聞かされるだけだった彼女の言葉を反芻して、なんとか理解をしようと務めていた。
彼女が、胸の内に大きな劣等感を抱えていたことを全く知らなかった。しかも、この僕に対して。いつか捨てられるのではないか、と恐れるほどに強く。
僕は今まで、他の誰よりも彼女のことを、彼女の弱みも含めて知っているつもりでいた。特に想いが通じ合ってからは、彼女のことを全て知っているようなつもりにさえなっていた。でも、実際は全然知らなかったのだ。彼女の一番奥にたどり着いたと思っていたのに、実はそこに隠し扉があって、まだ奥に延々と続いていることを知らされた。
正直、彼女が訴えるみじめさについて、僕はそのつらさを彼女とわかり合えない。役に立たなければ、釣り合わなければ、一緒にいてはいけないのか? いいや、そんなことはないだろう。
だって、僕はエリーを憧れの人だと思ってきた。僕なんかよりも、強くて明るくてまぶしい人だと慕ってきた。自分と釣り合うかなんて考えたこともない、考えていたら、多分この想いは一生伝えられなかっただろう……。
お互い、相手のことを好いている。そして、それをお互い知っている。十分じゃないか。これからもずっと一緒にいることに、他に必要なものがあるとは思えない。
目を閉じると、今となっては懐かしい声が脳裏に響いた。
女心って奴は複雑怪奇なもんさ。お前さんが考えているよりも、ずっとね。
酒焼けしたしゃがれ声。
今、まさに痛感させられている。エリーの気持ちが分からない。理解できない。……僕はどうしたら良いのか、分からない。
女将さんは、あの時助言をくれた。自分の想いを伝えろ、と。僕は助言に従い、一度は仲直りにこぎ着けることが出来た。
でも、今度は通用しなかった。僕はこれ以上無いほど、自分の想いをはっきり伝えたのに、エリーの気持ちを変えることは出来なかった。
今の状況を相談したら、女将さんはなんて言うのだろう?
村に引き返して、酒場のカウンターの奥を覗けば、ひょっこりと姿を現してくれそうな気がする。また喧嘩したのかい、なんて呆れたように言いながら、新しい助言をくれそうな……そんな気がした。
この手で、女将さんを殺したというのに。
次の日の昼頃には、僕らは王都にたどり着いていた。『女神の抱擁亭』への報告も必要だったが、まずは一度自宅に帰ってからにしようという話になった。荷物を置いて、それから少し休憩してから向かうことになった。
久しぶりの自宅に足を踏み入れる前に、ドアの向こうに物音と人の気配を感じた。物盗りではない。僕たちを出迎えるようにこちらに堂々と向かってきている。
ドアを開けると、美しい金髪を掻き上げながら、澄んだ青い瞳で微笑むマルチェラが僕らを当然のように出迎えた。
「おかえりなさい、お二人とも。大変な目に合われたそうですわね。ソフィアさんから伺いましたわ」
「出て行け、って言ったはずだけど?」
冷ややかに言い放つが、マルチェラがそんなことで怯むわけがない。余裕たっぷりにくすくすと笑っている。
「カナタさんからは確かに、そう言われましたけど。でも、出発前にエリーさんはこう仰ってましたよ。『あたしは出て行くから、カナタと仲良く暮らしてちょうだい』って」
マルチェラは、僕の隣に立つエリーに目をやった。
「ねっ、エリーさん? その言葉って、今も有効なんでしょうか? 教えて下さる?」
晴れやかな笑顔と共に、心底意地の悪い言葉がエリーに向けられる。腕を失い、故郷に帰ることを決めた彼女に対する嫌味以外の何でも無い。
「う……」
エリーの青ざめた唇から、言葉にならないうめき声がこぼれる。マルチェラの執拗な視線を恐れ、身を小さくしている。怖がっている。
「エリーに話しかけるな。……今後、一切関わるな」
僕はエリーを後ろにやって、自分の体を盾にしてマルチェラの視線を遮った。
凄む僕に、マルチェラは微笑んだ。
「あら、お姫様を守る騎士みたいで素敵。羨ましいわ、私もそんな風に殿方に守られてみたいですわ」
マルチェラは楽しげに、残酷な笑い声を上げる。視線は遮れても、声までは防ぎきれない。
この女と話すだけ、時間も気力も無駄にするだけだ。
僕は、マルチェラを強引に押しのけて、エリーの手を引いてそのまま彼女の部屋に入った。
部屋に入って、ドアを閉めた。憂鬱に顔を曇らせたエリーに、僕は努めて優しく声をかけた。
「話しかけられても、今後は無視するんだ。あいつは君を弄んで、貶める以外のことはしないんだから。……いいね?」
「……うん」
ためらいがちにエリーが頷く。良い返事、とは言いがたいが、ないよりはずっといい。
「あいつは早いところ、僕が追い出すから。それまでに絡まれるようなことがあったら、呼んで。追い払うよ」
「うん」
エリーがさっきより、歯切れ良く答えた。
「ありがとう、カナタ。助かるわ」
か細い声でエリーが言った。
僕の余計な手助けに対するお礼の無機質な声とは違って、その小さな声には安堵の感情が籠もっていた。
今のエリーには、マルチェラと正面切って言葉のでやり取りする気力は無い。どれほどエリーがマルチェラを恐れていたのか、声の響きからありありと伝わってきた。
彼女の心細そうな肩を抱きしめたい衝動に駆られたが、押しとどめた。今の彼女は、そういった行動を喜びはするけれど、歓迎はしない。
「じゃあ、少し休んでおいて。また呼びに来るから」
僕は背負っていたエリーの分の荷物を下ろすと、そのまま部屋を出ることにした。