51 拒絶
椅子に腰掛けたエリーも、寝台に座った僕も、双方黙り込んだまま、時間だけが過ぎていく。
僕は、エリーが感じる苦しみに寄り添ってあげたかった。いや、僕だけはそうしなければならない、と思っていた。でも、実際出来ていない。どうすれば、彼女の暗い表情を少しでも和らげることができるのか、分からない。
今、僕の目の前にいるエリーの表情も、決して明るいとは言えない。どこを見ているのか判然としない目が、ぼうっと視線を宙に泳がせている。心ここにあらず、といった顔だ。
弱音の一つでも吐いてくれればいいのに、と切に思う。辛いとか、苦しいとか……なんでもいい。それなら、僕だって何をしたらいいのか分かる。彼女が気が済むまで話を聞いて慰めるとか……抱きしめるとか。
けど、実際には、彼女は周りの村人と同じように、僕にも隙を見せようとしない。僕が手を差し伸べても、あからさまに拒絶することはないが、喜んでいるようには到底見えない。それどころか、まるで嵐が過ぎ去るのを待つかのように、僕が立ち去るのを待っているようにさえ思われる。
消極的な拒絶、と言うべきか。
エリーとの距離がまた開いているのを感じていた。一度縮んだはずの距離が、またこの手が届かないほどに遠ざかっていることに嫌でも気づいた。
その理由が何も思い至らないほど、僕だって愚かではない。彼女は一言も僕を責めたりしないけれど……何も思わないわけがない。
耳が痛くなるほどの沈黙を破ったのは、エリーだった。
「あたし、冒険者、やめようと思うの」
唐突な言葉に、僕は思わず、はっと息をのんだ。
でも、驚いたのは、一瞬だけ。僕は彼女の言葉に頷いた。
「そうだね。……そうせざるをえないね」
利き腕を失った以上、剣も握れず、弓も引けない。そんな体で、魔物と戦うことなど出来るはずがない。彼女がわざわざ口にしなくても、薄々分かっていたことではないか。
「じゃあ、僕も冒険者はやめるよ。どうせ大して稼げてないし、ずっと続けたいと思っていたわけじゃないし、こんな悲惨な事件にも巻き込まれるし……。ちょうど良い潮時だ」
僕は、つとめて明るく笑った。彼女との良い思い出も、悪い思い出もたくさん詰まった仕事を、まるで空になった杯を下げるように、あっさりと捨てることにした。
「別の仕事を探さなきゃね。えり好みをするつもりはないけど、実入りがいいものにしないとね。二人分の生活費がまかなえるぐらいには……。そうだ、君が前に言ってた……吟遊詩人とかやってみようか?」
新しい生活に向けて、明るい話をしている。僕はそのつもりだった。
でも、エリーはそんなものに付き合うつもりはないという風に、冷たく首を横に振った。
「あたし、王都にはもう住むつもりないの。故郷に帰るつもり」
まるで喉元にナイフを突きつけられたみたいに、僕は彼女の言葉に怯んだ。
どうして、と言いかけた。でも、言わずに飲み込んだ。こみ上げる違和感を必死で飲み込んで、僕はまた笑った。取り繕うように。
「そっかそっか。王都じゃ、生活費も馬鹿にならないもんね。田舎の方がお金の面じゃ暮らしやすいだろうし……家族と暮らす方が安心だもんね。そりゃ、いい判断だと思うよ」
僕は勢いよく、ぺらぺらとまくし立てた。
けど、次の瞬間には急に黙り込んだ。不安で、胸が苦しくて、今にも息が詰まりそうな気がした。
「……ねえ、僕も……一緒に……行っていいよね……?」
そよ風にも打ち消されてしまいそうな、ひどく心細い声しか出なかった。
「だって……約束だって、したし……」
縋るような思いで、僕は約束を口にした。
マルチェラには内緒で二人で一緒に飲みに行こうと笑い合った、あの晩に交わした。エリーの故郷に僕も一緒に行くという、あの約束……。
エリーの答えは簡潔だった。
「だめ」
「……どうして」
僕は今度こそ、さっき飲み込んだ言葉を堪えることが出来なかった。
でも、口から出た言葉とは裏腹に分かっていた。聞かずとも、エリーの答えは予想できた。
「それはやっぱり……僕が……マルコを、女将さんを……すぐに殺せなかったせい?」
訊ねる声が、震えた。
「さっさと二人を殺していれば、エリーは腕を失わずに済んだ。でも……僕は、あの時、何も出来なかった」
自分の弱さがあまりにも情けなくて、惨めだった。
剣なんて使わなくても、僕はマルコも女将さんも殺せた。彼らを一睨みするだけでいとも容易く。なのに、出来なかった。
それだけじゃない。エリーから糾弾されるまで、自分からその事実に触れないようにしていた。二人を殺せなかった自分の弱さから、事件の後処理の忙しさを理由にして、ずっと目を逸らしていた。
僕は寝台から、立ち上がった。そして、椅子に腰掛けたエリーの前に立った。
「ごめんよ、本当にごめんよ。謝っても、謝りきれないのは分かってる。失望されるのも……当然のことだって、理解してるよ」
そして、床に膝を突いて、エリーを見上げた。冷ややかな目をした彼女に臆しないよう、ありったけの勇気を振り絞って。
「でも、どうかもう一度だけチャンスがほしい。今度こそ、君のことを守り通すから。何にも臆さない、強い男になってみせるから……僕、もっと頑張るから……」
そのまま、床に額をこすりつけた。
「だから……これからも、僕の隣にいてほしい」
なんて、みっともない姿だろう。自分自身を頭上から眺めることが出来たら、無様で、情けない己の姿はさぞかし醜く映っただろう。
でも、それでもだ。どんな屈辱であろうが、甘んじて受け入れよう。
異形となった女将さんにエリーを助けてほしいと懇願したときと同じように、あるいはそのとき以上の強さで祈った。再び、僕は彼女を失おうとしているのだから。
エリーが、椅子から立ち上がる音がした。そして足音が近づいてきて、彼女の声が僕の頭上から降ってきた。
「やめて、カナタ。そんなことしたって、無駄なんだから」
こみ上げる怒りを堪えるような、エリーの声。
僕は、弾かれたように顔を上げた。
「無駄なんてっ……!」
「違うのよ、あたしが怒っているのは、あなたに対してじゃない」
エリーは唯一残った左手で顔を押さえ、激しく頭を振った。そして、抑えきれなくなった怒りを叩き付けるように、声を荒らげた。
「あたし自身なのよ。自分の情けなさに、無力さに……もう耐えられない……!」
顔を覆う左手の指の隙間からのぞき見た、エリーの瞳には、深い絶望が見て取れた。空っぽの右袖に腕が通っていれば、きっと拳を握りしめて戦慄いていたことだろう。
「君が……?」
僕は、呆然とつぶやいた。理解が追いつかなかった。
そんなことが、あっただろうか? 僕が詰られるのならともかく、エリーが自分自身を詰る理由なんて。
だって、エリーは僕なんかとは違う。困難を前にしても、恐れたりしない。自分が颯爽と先頭に立って、危険を引き受ける。彼女の後ろで立ちすくむ僕を、いつも導いてくれた。すぐ気弱になって、弱音ばかり漏らす僕を励ましてくれた。
そんな彼女の、一体どこに無力感や情けなさがあったというのか?
叫んだことで、濁流のような激情は少し落ち着いたのだろうか。顔を左手で隠しながら、エリーは言う。
「あたしね……前から、怖かったのよ。カナタがすごい勢いで、成長していくのが。置いて行かれちゃうような、もう対等では居られなくなるような……あたしの手の届かなくなる人になるような……そんな気がして」
震える声で、エリーがつぶやく。
「だって、カナタが本気を出せば、どんな敵だって一瞬で倒せる。難しい状況判断だって、あたしなんかよりずっと上手くやっちゃう。あたしみたいな、凡庸な冒険者じゃない。森歩きの知識は単に実家の手伝いで身についただけだし、飛び抜けて剣術や弓術が上手いわけじゃない。ドーノの力だってそこまで大したものじゃない。あたしの役割なんて、せいぜい、カナタが焼き払う前の露払い程度……」
エリーの左手で隠しきれない唇が、自嘲気味に微笑んだ。
「女としての、価値なんて更に自信なくて。憎まれ口ばっかりで、素直じゃなくて、可愛げがなくて。それに、あなたのことを傷つけてばかり……」
彼女は長い黒髪を揺らして、首を横にゆっくりと振った。
「一緒に居る時間はとても楽しかったけど……同時に、あなたの隣にいつまでいられるか、不安でいつもいっぱいだった」
エリーの肩が、寒気を覚えたようにぶるりと震える。
「覚えてるかしら。傭兵の仕事を受けるために、他のパーティと組めば、とカナタが言ったときのこと。あたし……怖かったのよ。遠回しに、君なんかもういらないよ、と言われたような気がしたから」
僕は彼女の弱々しい声に、はっとした。一ヶ月ほど前、あの時の彼女は、僕の勝手な言動に憤慨しているのだと解釈して謝った。でも、違ったのだ。あの頑なな態度は怒りではなく、恐れによるものだったのだ。
「だからこそ……あの時は、とっても嬉しかった。故郷に来てくれるって、約束してくれたの……。でも、一番嬉しかったのはね……」
ずっと顔を隠していた左手が退けられる。
「こんなあたしのことを、大切な人だって言ってくれて……天にも昇る気持ちになった」
涙に濡れた顔が晒された。失われた幸福な過去を嘆いて、彼女は泣いていた。
僕は床から立ち上がり、エリーとの距離を詰めた。そして、彼女を抱き寄せ、両腕を背中に回した。
「じゃあ、これからも一緒にいようよ。どうして、君から離れなくちゃいけないのか、僕には何も理解できない」
エリーは僕の手に抵抗しなかった。それどころか、頬をほんのりと赤らめて、甘えるように僕の体に身を預けていた。
失望されたわけじゃないことも、寝台の上で抱きしめ合ったあの夜から心が変わったわけでもないことは、彼女の陶然とした表情を見れば明らかだった。相変わらず、僕は彼女を求めていて、彼女もまた僕を求めてくれている。僕のみっともない愚行を目撃した後でさえ。
なら、どうして。僕はそう思わずには、いられない。
胸の内の疑問ばかりが膨らんでいく最中に、エリーが口を開いた。
「ねえ、想像できる? ほんの少し前まで出来ていたことが……突然何もかも出来なくなってしまう苦痛が……」
エリーの声が、苦みを帯びる。
「あたしの代わりにリンゴを剥いてくれたり、髪を結んでくれたとき、あったじゃない。優しさとか気遣いからそうしてくれたんだって、勿論分かってる。でもね……あたし、全然嬉しくなかった。むしろ……みじめだった」
吐き捨てるように、エリーはつぶやいた。
「腕があった頃でも、苦しかったのよ。あなたに釣り合ってないんじゃないかと思って……自分が役に立ててないんじゃないかって……いつ、いらないって言われるか怖くて」
エリーはそっと僕の体に手を回した。それは唯一残った左手だ。
「今のあたし、あなたを両手で抱きしめることさえ出来ないのよ。そんな状態じゃあ、とても言えないわ」
頭を僕の体にもたせかけながら、エリーは目を瞑った。
「あたしのこと、愛してほしいなんて……」
閉じた瞳から、一筋涙が伝った。
「そんな言葉でよければ……いくらでも、言うよ」
僕は偽りのない、素直な気持ちを言った。そして、彼女の体を一層強く抱きしめた。
「いらない、なんて僕が言うと思う? そんな馬鹿げた話……何があっても、あるもんか」
でも、エリーは僕の腕の中で黙り込んでいた。固く目蓋を閉ざしたまま、何も答えなかった。
僕の言葉が、伝えたはずの気持ちが、届いた様子はなかった。
それからしばらくして、エリーは僕の腕から離れた。離れるとすぐに、彼女は僕に背を向けた。
「そろそろ部屋から、出てくれる? 少し……休みたいの」
「……分かったよ。出直すよ」
エリーの背中には、拒絶の意志がありありと現れている。これ以上、ここに残っても、多分何も変わらない。
でも、このまま黙って引き下がるつもりはなかった。
「全然、納得してないからね」
諦めたものだと誤解されたくなかった。
エリーの言っていることは、僕には到底受け入れがたい。これなら、失望される方がよほどましだった。
挑むような口調で僕は言う。
「僕には……君しかいないって、確信してるんだから」
すると、背を向けていたエリーが振り返った。
涙の痕は消えていた。エリーはさっきまで泣いていたことなど、なかったかのように、晴れやかに微笑んだ。
「そんなことないわよ」
「……あるよ」
「ううん」
エリーは優しく、首を横に振った。
「あなたにお似合いで、あなたを好きになってくれる人は、すぐに現れるわ。カナタは……とても素敵な人だから」
彼女は胸に手を当てて、言った。
「あたし、知ってるもの。……そう、誰よりもね」