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49 復讐

「あれとは素晴らしい時間を過ごしましたよ。ゴブリンという矮小な魔物に頭を垂れ、服従を誓わされ、そしてあっけなく命を奪われる人間たちの虚しく、惨めな姿を共に笑ってやろうと語り合いました。そして、その光景をもっと広く、大きくし、近隣の街を攻め、王国までも飲み込もうと夢見たものです。あれは、私の忠実なる子供にして唯一人の友人は、私の願いと希望を理解し、叶えようとしてくれました」

 マルコの一人語りが進んでも尚、エリーと女将さんの激しい剣戟の音は未だに止まず、一進一退の攻防を繰り広げていた。

 僕は、奴の長い語りに耳を傾ける唯一人の観客だった。マルコを簡単に斬り殺すことも、ドーノで焼き払うことも出来るのに、どちらも選べず、結果的に行儀の良い聴衆となってしまった。

 一年前に起きたゴブリンの大群による侵攻は、『王』とその創造主であるマルコによるものだった。僕とエリー、そしてラクサ村の人々の抵抗で阻止されなければ、この村は一体どうなっていただろう?

 それはきっと、ゴブリンに殺されたと思われる人々の物言わぬ骸の山が聳え、後は朽ちていくだけの抜け殻の家屋の群れが虚しく残る……と言った具合だろうか。

 生まれ育った村をこの世の終わりのような残酷な姿に変える。それが、マルコの願いと希望が叶った光景だという。

「……お前はどうして、人を傷つけ、貶めることを願い、そこに希望を見いだすんだ?」

 呆然とつぶやいた。

「人間はモノじゃない。傷を負えば痛みを感じ、脅されれば恐怖に慄く。そんなことさえ、知らないからか?」

 古い記憶が、呼び起こされる。中学の教室の片隅での出来事。残酷に笑う、三人のクラスメイトの姿。

 どんな力を得ようとも、いかなる理由があろうとも。あの時感じた痛みを、僕は他人には与えたくない。

 僕は理解を拒否した。

 しかし、マルコは僕の拒絶を不愉快に感じたようだ。心外だ、とばかりに鼻を鳴らした。

「何を仰いますか、英雄殿。私はよく、知っておりますよ。殴られる痛みも、暴力を振りかざして脅される恐怖も。何よりも、人々の残酷な笑い声を子守歌代わりに育ったのですよ」

 やれやれ、と肩を竦め、マルコは言う。

「あなたは私を、一方的な加害者だと思っているでしょう? でも、違うのです。私はまず、被害者であったのです。ですからこれは、単なる虐殺ではない。人生を通して受けてきた痛みをただ返そうとしただけです」

 幾度となく見せた、暗い愉悦に満ちた瞳。マルコは、まるで安寧の地を見つけたかのように満ち足りた笑みを浮かべる。

「私をあざ笑う全ての者どもに対する復讐。奴らが私を笑ったように、今度は私が奴らを笑う番がやってきただけです……」

 マルコの言葉に道理など一欠片もない。

 奴は復讐と言っているが、それは違う。奴が起こした惨劇は、彼を笑った人間だけに訪れたわけではない。そもそも最初の犠牲者はマルコを詰ってなどいないのだから。その上、会ったこともないまるで無関係な人々を大勢巻き込み、犠牲にしようと企んでいた。

 狂ってる。恍惚の笑みを浮かべるマルコに、僕は戦慄せずにはいられなかった。マスターが語った人間の皮を被った悪魔とは、奴のようなことを言うのだと理解した。決して、その心を理解してはならない人間のことだ……!

 マルコの顔から、笑みがすうっと消える。そして、僕をまっすぐに見据えた。

「お前も私を笑ったな。次は、お前の番だ」

 凍てつくような怒りと憎しみを湛えた瞳が、僕を見た。

 悪魔に目をつけられている。子供の仇と僕は執着されている。

 まるで、獅子に睨まれた小さな子鹿になったような気がした。本能に近い部分が、僕の脳裏で叫んでる。気をつけろ、と。

 何をされるか、分からない。一層剣を持つ手に力を込めた。おかしな動きの一つでもしたら、今度こそ、こいつで斬り付けなければ。

 マルコの動きを、わずかでも見逃すつもりはなかった。瞬き一つでも、見落とさないよう、僕は奴の動きに細心の注意を払った。

 しかし、奴への集中が裏目になるなど、浅はかにも考えもしなかった。

 今まで絶え間なく続いていた、剣戟の音が止んだ。そして、剣が床に転がる音が続けて響いた。

 マルコへの集中が解けて、音がした方を振り返った。

 エリーがうつ伏せになって床に倒れていた。血がしたたり落ちる脇腹を押さえ、肩が荒く上下している。その傍らには、鮮血で染まった刃を腕に生やした女将さんが立ち、無機質な目で獲物を見下ろしている。

 女将さんに、エリーが殺される!

「エリー!」

 矢も盾もたまらず、僕は駆けだした。血に濡れたエリーの元へただ駆け寄りたい、その一心で。考えなんて何もない、無防備に駆け寄ったところで何をするかなんて頭の片隅にもない。

 考え無しの突進は、容易く阻まれた。女将さんが腕を振り、僕はそれをもろに食らって、吹き飛ばされた。体を打たれた衝撃で、目の前が真っ暗になったが、歯を食いしばってすぐに意識を取り戻し、倒れた体を起こた。そして、エリーの姿を探し求めた。

 目の前の光景を認識したとき、マルコの醜悪な悪意を僕はようやく理解した。

 倒れたエリーの傍らに、マルコが片膝を突いていた。奴はじっと見ていた。脇腹を押さえる側とは反対の、床に力なく投げ出されたエリーの手。奴がその手に触れればどうなるか、僕はもう知っている。

 僕の視線に気づくと、奴は僕に笑いかけた。ぞっとするほど不気味な、悦楽の微笑で。そして、見せつけるようゆっくりとした動作で、奴はエリーの投げ出された手を取った。

 ひゅう、と喉の奥で声にならない己の悲鳴が上がったのを僕は聞いた。絶望が、光のように早く全身を駆け抜けていくのを感じた。

 おぞましい変化が始まった。マルコに握られた、エリーの手が皮を失う。皮膚で隠されていた筋肉や神経、脂肪がのぞき、血が噴き出す。

 エリーの苦痛に満ちたうめき声が聞こえる。その間にも、容赦なく彼女の腕の皮膚が食い破られていく。彼女をあの、見るも恐ろしい肉塊の化け物へと少しずつ変えていく。

 彼女の腕が人外の存在へ変わろうとしていくのを目にしていると、まるで自分の心が見えない魔物に音を立てて食われていっているかのような心地がした。

 今から、一体何が出来る? もう、彼女は化け物へと変えられつつある。今更、僕に何が出来る……?

 僕は立ち尽くしたまま、変わりゆくエリーの腕を凝視しているうちに、僕の中でかち、と音がしたことに気づいた。例えるならば、固く閉ざしていた錠前がひとりでに開いて、禁じられていた箱が開いたような。

 あいつを殺せば、腕の変化は止まるのではないか?

 頭に声が響いた。紛れもない、僕自身の。

 いや、でも、それは。僕は葛藤していた。躊躇いがあった。どんな力があろうとも、どんな理由があろうとも、人間の命には触れたくないと先ほど思ったばかりなのに……と。

 だが、僕の声は冷ややかに続ける。

 いや、違う。殺さなければいけない。何よりも守りたい人のために振るえない力など、何の役にも立たないじゃないか……!

 聞こえてきた僕の声は、怒りに震えていた。どうしようもない愚かさに、好きな女の子のために何もしない不誠実さに、憤りをぶつけずにはいられなかった。

 そうだ僕は、もう逃げないと誓ったのだった。

 内なる怒りの声に圧され、僕の目はマルコを捕らえた。もう躊躇いはなかった。奴の生命を奪い、惨めな炭の塊に間違いなく変えようとしていた。

 エリーの命を救うためだ。これは……人として正しい行為なのだ!

 ドーノを発動させた。だが、何も起こらなかった。

 邪魔が入ったせいだった。

 僕の目の前に文字通り壁が立ちはだかり、マルコの姿を覆い隠していた。剣に変形していた腕が、今度は幕のような形状に姿を変え、その背後を遮っていた。

「女将さん……」

 僕は絶望と共に呻いた。命の輝きが失せた無機質な目で、僕を見据える女将さんを。

 マルコは、殺せる。でも、女将さんは……殺せない。開いたはずの錠前が、再び固く閉ざされる音が僕の中で冷たく響いた。

 殺せない。かと言って、傷つけずに無力化する方法など無い。

 だから、精々僕の出来ることなど一つしか無い。僕は拳を固く握って、心の中で叫んだ。

 お願いだから、どうか……僕の一番大切な人を救って下さい。お願いだ……!

 魂を込めた祈りが、届くことを切に願うしかなかった。届くことなど、あり得ないと半ば知りながら。

 突如、僕の視界を遮っていた壁が消失した。女将さんの腕が幕の形状を取るのをやめ、あの巨大な蟷螂の鎌の形状を取った。そして、その切っ先が向いているのは、床に倒れたままのエリーだった。

 巨大な鎌が音もなく、振り下ろされる。僕は、自らのつたない祈りが届かなかったことを悟り、自分の無力さを噛みしめながら、もはやどうすることも出来ずに、エリーに迫り来る刃を凝視した。

 刃がエリーの体に突き立った瞬間を、僕は見た。彼女の悲痛な叫び声と共に、床に投げ出された彼女の腕のほとんどが皮膚を剥がされ、筋肉が露わになっていた。彼女の人外と化した腕が、エリーの肩から切断されていく。

 ごろりと音を立てて、腕は虚しく床を転がった。そして、転がった腕から肉が膨れ上がる嫌な音が響き、皮膚が裂け、血を吹きながら筋肉や神経の筋が噴き出す。人間の腕が醜い肉塊へと姿を変えていった。

 その一方で、床に倒れたままのエリーの姿は変わっていない。肉塊の化け物に変化することなく、荒い呼吸を繰り返している。

 衰弱しているが、エリーは生きている。人の姿を保ったまま。

「なっ……」

 声を上げたのは、マルコだった。支配しているはずの生物が、反旗を翻した。その事実に驚いている。

「貴様……なぜ、私の命令に従わない?」

 マルコの問いに、酒焼けしたしゃがれ声が鼻で笑って答えた。

「村のどんな男だってこのじゃじゃ馬を乗りこなせなかったんだ。お前ごときにゃ、無理さ」

 女将さんだった。腹を強請って、豪快な笑い声を響かせる。マルコが操る化け物などには到底出せない声。そして、目には生者にしかありえない輝きが宿っている。

 女将さんは蟷螂の腕を、マルコの首元に突きつけた。

「さあて、地獄に落ちようか、マルコよ。お前はとんでもない数の人間を殺して弄んだ罪がある。さぞ残酷で、苦痛に満ちた罰が貴様を待ち受けていることだろうよ」

「罪など私は犯してない、単にこれまで受けた痛みを返しただけだ!」

 唾を飛ばして、マルコが叫んだ。余裕も悦楽も全てかなぐり捨てた、剥き出しの怒りを露わにした。

「第一、貴様も私を笑っていただろう、私を復讐に駆り立てた人間のうち、貴様もそのうちの一人なのだぞ! 他人事のような顔をして言うな!」

 女将さんは、じっとマルコを見返した。そして、かすかに微笑んでみせた。

 蟷螂の鎌のような腕が、高く振り上げられる。処刑人が罪人の頭上に剣を掲げるかのように。

「何を言う。お前だって、他人を笑い続けただろう。誰かを愛することを、生涯一度もしないで」

 酒焼けしたしゃがれ声が、威圧的に低く酒場に響き渡る。

 屈強な男でも震え上がるような凄みのある声だったが、マルコは怯まず、くしゃくしゃに顔を歪め、くぐもった声でくつくつと笑った。

「愛する……? そんなことは……」

 細められていた男の目が、かっと見開かれた。

「私を誰も愛さなかったのだ……人間という屑共にそんな価値など、あるか!」

 狂気じみた憎悪に瞳を燃やし、マルコは絶叫した。

 異形の刃が、振るわれた。

 鈍い音を立てて、マルコの激昂したままの首が酒場の床に落ちた。切断面から鮮血が吹き上がると、間もなく首を失った体がどさりと崩れ落ちる。

 沈黙が酒場に広がっていた。外から聞こえてくる激しい雨音と雷の轟きだけが、この世界の時間が止まってなどいないことの証左のように思えた。

 目の前で起こった光景を、僕はまだ理解できていなかった。正気を取り戻した女将さんの手により、助からないと思ったエリーは、腕を切り落とされることで辛うじて人の姿を保っている。そして、この惨劇の首謀者たるマルコは、エリーとは違って腕ではなく、首を切られて死んだ。

 僕のつたない、破れかぶれの祈りが女将さんを正気に戻したのだろうか? まさか、という想いがある。自分で祈っておきながら、いざ成就すると信じがたいものがある。僕の人生には不釣り合いなど程、あまりにも都合が良すぎて。

 ぼう、とその場に僕が立ち尽くしていると、女将さんが異形の腕を一振りし、人間の腕に戻ったが、べったりと付いたマルコの血はそのままだった。彼女の動きを注視していると、女将さんはマルコに歩み寄った。憤怒に駆られた表情のまま息絶えた彼の生首を一瞥した後、しゃがみ込んだ。

 そして、その首をひしと胸に抱いた。こぼれ落ちる血に濡れることも、厭わずに。

 僕は、女将さんの思わぬ行動に息を呑んだ。彼女は一体、何をしているのだ? 訊ねようにも訊ねられずにいると、掠れた笑い声が女将さんの口から聞こえてきた。

「お前は笑うかい? 誰も愛しなかった男を、愛しちまった女のことを、さ」

 生首を抱いた女将さんの表情は、僕からは見えなかった。精々、その頬に一筋の涙が滑り落ちていくのが見えただけで。

 僕は、女将さんの問いに答えられなかった。ましてや、彼女を笑うことなど到底できやしなかった。

 沈黙している内に、女将さんは掠れた声で呆れたように笑った。

「その上、男に怪物にされて、いいように操られて、さあ。全く、どんなひどい男だってこいつの非道さには及ばないよ。まあ、そんな男に惚れる女も、女だが、ね……」

 自嘲の笑いは、最後は消え入るようにして途絶えた。

「それでも、見てられなかったんだよ。あいつがお前さんに怒りのあまりに炭屑にされちまうのは、気の毒だってね。それなら、いっそ、自分で引導を渡そうと思ったのさ。それで、なんというか……目が覚めたのさ」

 女将さんが言う。まるで僕に笑ってほしがっているみたいに。

 でも、やっぱり。僕は笑えなかった。彼女の悲しい恋を笑えるほど、僕は残酷な人間にはなりたくなかった。

「……ねえ、女将さん。正気に戻った、ってことでいいのかな」

 黙っているのも気まずく、聞かれたこととは別のことを問いかけた。

 女将さんは首を横に振った。そして、酒焼けした声でばつが悪そうに告げた。

「いいや。ちょいとつかの間、正気を取り戻しただけさ。そう長くは持つまいよ」

「そうか……」

 僕は言葉を続けられなかった。やはり、そう上手い話はないか。ほんのひととき正気を取り戻しただけでも、きっと奇跡のような出来事なのだろう。

 ふう、と女将さんが吹っ切れたように息をつくのが聞こえた。腕に抱えた首を置くと、僕の方を振り返った。

「カナタ。悪いけど、私を殺してくれるかい?」

 まるで、ちょっとしたお使いを頼むような軽い口ぶりだった。僕は、自分の表情がたちまち曇っていくのを感じた。だが、嫌だとは言えなかった。僕の複雑な心境を理解しているのだろう、女将さんは済まなさそうに言った。

「本当は自分で始末をつけるのがいいんだろうがね。頭が今にも爆発しそうなんだ。お前さんや嬢ちゃんを殺せって、うるさくてね……悪いが、どうも出来そうにないんだ」

 笑う女将さんの腕は人の形をまだしていたが、凶悪な蟷螂の鎌が時折腕から覗いた。いつまで人の腕を保っていられるか、甚だ疑問がつく。

「そういうわけだ。頼めるかい?」

 女将さんが言う。恐らく、最後に残った理性の欠片を振り絞って。

 僕は、一瞬だけ躊躇った。だが、結局頷いた。

「……言い残したことはない?」

 彼女が怪物に戻る前に葬るのが、最大限の優しさだと覚悟を決めた。

 僕の問いかけに、女将さんは少しだけ考える素振りを見せた。

「お前さんは決して、あたしたちのようになってはいけないよ」

 そして、黄ばんだすきっ歯を見せて笑い、酒焼けしたしゃがれ声で言った。

「マルコのように、何があってもその強力な力に溺れてはならない。そして、私のように、全てが終わってから後悔する人間になってはならない……ああ、でも」

 どこか恥じ入るような声で、女将さんはつぶやいた。

「余計な助言かな。ちゃんと大切な人に想いを告げられたお前さんには……さ」

 僕は首を横に振った。

 女将さんは、まるで僕が大した人間のように褒めてくれた。でも、そんなことはないのだ。

「女将さんが教えてくれたからだよ。そうじゃなきゃきっと、僕らは仲直りなんて出来なかった」

 もう少し僕が賢くて、勇気のある男だったら、きっと誰にも相談せずとも上手くやれただろう。でも、実際の僕は愚かで、他人からの助言を聞いて、ようやく全てが手遅れになる前に動くのが精一杯だったのだから。

 が、女将さんは優しく微笑むばかりだった。

「知っているだけじゃダメなのさ。私はずっと分かっていたんだよ。素直に想いを伝えるべきだ、って。そうしなきゃ、何も変えられないって。それでも、尚、ずっと……何十年も言えなかったのさ。どうせあいつは私のことなど、なんとも思っていないだろうから、と言い訳を続けてね」

 女将さんの目が、まるで遠い過去を見るように細められた。

「もし想いを伝えられていたなら、あいつは復讐に溺れずに済んだのかね? それとも、やはり目覚めた力に溺れ、復讐に走ったのかね? 今更、考えても仕方ないことだけど……それでも私はやっぱり、あいつに伝えるべきだったんだ」

 その目に浮かぶのは、例えようもないほどに深い後悔だった。

「愛して欲しいから、じゃなくて。ただ、お前を愛する人間は、ちゃんとここにいるんだよ、って教えてさえいれば……あいつには別の人生があったかもしれない」

 それはまるで、遺言のようだった。

 女将さんの目から光が消える。人の腕が変形し、蟷螂の鎌の形状へ変わる。人としての女将さんの命が尽きようとしている合図だった。

 僕はドーノを使った。一人の人間に向けて。

 今まで散々使ってきた化け物の多くが耳を塞ぎたくなるような絶叫を放って果てていくにも関わらず、女将さんは悲鳴一つ聞こえなかった。まるで既に命を落とした亡骸を火葬するかのようだった。

 次の瞬間には、その場には一つの炭化した死体が残された。元気な女将さんの姿は、この世のどこを探してももう見当たらなかった。

 僕は、今し方焼き尽くした死体から逃げるように目を逸らした。覚悟はしてやったことだ、だが、それでも亡骸を直視出来る強さはなかった。

 そうして目を逸らした先に、マルコの生首が床に置かれていた。不意に視界に入ってきたのでぎょっとしてまた眼を逸らそうとしたが、出来なかった。目を見開き憤怒の表情で逝ったはずのマルコの顔が目蓋を閉ざし、穏やかな表情に変わっていたことに気づいたから。

 女将さんが、やったのだろう。彼の死に顔を安らかにしてやりたいという一心で、人としての意識を取り戻したに違いない。それが、密かに愛していた男にしてやれる唯一のことだと悟って……。

 僕には、マルコという男は到底愛されるに値する人間とは思えなかった。

 同情はした。人々に虐げられる内に自信を失い、己に絶望しなければならない辛さは僕には分かる。自分が置かれた冷たい世界をどうすることもできないと諦め、存在するかしないか怪しい救いが天から降ってくるのを待つばかりの日々を過ごす苦しみも、僕は分かる。どちらも、過去に僕も経験した。だから、僕自身が息苦しくなるほどに同情出来る。

 それでも、僕には到底彼を愛することは出来ない。肥大化した復讐に狂った化け物、としか思えない。そう、人の皮を被った悪魔としか僕には思えない。人は愛せても、悪魔は愛せない。

 僕とマルコは似ている。同じ辛さと苦しみを味わったことも、天から降ってきた強力な力を運良く授かることが出来たことも。だが、僕とマルコは絶対に相容れない存在だ。それは何故か?

 マルコは愛を知らずに生きてきたからだ。親も兄弟も、周囲の村人達の誰からも。彼は愛された経験が無かった。女将さんが密かに抱いていた愛も、彼には全く届いていなかった。意地の悪い村人から庇ってやったり、釣り銭を受け取る時に手を引っ込めずにいたり、そういったささやかな行動だけではマルコには伝わらなかった。

 でも、僕は幸運なことに知っている。祖母と過ごした穏やかで暖かい時間が幼少期に間違いなくあったし、今は何よりも、愛する人が僕にはいる。

 僕とマルコの違いは、ただそれだけのような気がする。人と悪魔を隔てているのは、愛に触れる機会があったかどうか、ただそれだけの、紙のように薄っぺらい壁があるかどうかの違いのように思われた。

 僕は数秒だけ瞑目した。僕が殺した女将さんと、それから今晩の惨劇で命を落とした全ての死者に向けて黙祷を捧げた。この惨劇を招いた、愛を知ることなく死んだ哀れな男を含めて。

 目を開けると、死者を悼む時間は、もう終わりだ。僕は倒れているエリーの介抱に向かった。

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