47 緊張
僕たちは、『黄金の輝き亭』に戻ってきた。全く勢いの衰えない雨に打たれながら、ドアの前に立った。ドアや窓の隙間から、酒場の中の灯りが漏れ、男達が密やかな声で話し合うのが聞こえる。
酒場に立てこもった人々は、まだ生きているようだ。だが、ここが安全な場所だとは限らない。
エリーが剣の柄に手を掛けながら、ドアをノックした。僕は彼女の後ろでランタンを掲げていた。
「あたしよ。カナタも一緒にいる。入っても良いかしら?」
「ドアにバリケードを作って、開かないようにしてるんだ。どけるから、ちょいと待ちな」
女将さんの特徴的な声が、ドア越しに聞こえた。酒場の中から複数人の足音が近づいてきて、恐らく椅子やらテーブルやらを引きずっているのであろう音が聞こえる。ややあって、作業の音が止んだ。
「さあ、どけたよ。入りな」
女将さんの声が言う。
エリーがごくりと固唾をのむ音が、雨音に混じって聞こえてきた。
剣の柄に手を掛けながら、エリーは慎重にドアを開ける。僕はその後ろから、ドアの向こうの光景に目を凝らした。化け物が万が一にも飛び出してきた際には、すぐさまドーノで焼き払うつもりでいた。
幸いにも、と言うべきか。僕の出番は来なかった。開かれたドアの向こうには、緊張した面持ちで斧や鎌、古びた槍で武装した男達と女将さんがいた。
エリーの背中越しに、僕はじっと酒場の中を観察した。バリケードを作った痕跡を除けば、酒場に変わった様子はない。僕らを取り囲んでいる人の輪は、酒場を出たときと同じ顔ぶれだ。化け物や死体、マルコの姿はぱっと見、見つからない。
だが、どこかに隠れ潜んでいる可能性は否めない。奴は条件さえ満たしていれば、離れたところからでも、あの恐ろしい力を使うことが出来る。酒場の中の人々がいつ化け物に姿を変えてもおかしくはない、気を緩めるにはまだ早すぎる。
エリーも恐らく、僕と同じ、いやそれ以上にぴりぴりとした空気を放っている。入り口で立ち尽くしたまま、動かない。剣の柄に添えていた手は、今は強く柄を握りしめ、足腰もいつでも抜刀できる構え。
僕らが抱く警戒心は、酒場の中の人々にも伝わっているようだった。武装した男達は武器を握りしめて離さず、口々に外の様子を訊ねにきてもおかしくないのに、皆黙り込んでいる。
酒場の入り口を境に、僕とエリー、武装する男達は睨み合っていた。まるで、互いが敵同士であるかのように。
そんな緊迫した空気の中、女将さんが輪の中から一歩、歩み出た。
「よく無事に帰ってきてくれたね。雨に打たれて、体も冷えているだろう? さあ、中へお入り。嬢ちゃんの言っていたとおり、酒もつまみも用意してあるよ」
未だに酒場に足を踏み入れず、雨に打たれている僕らに、あたたかみのある声で女将さんは言った。そして、そのまま僕らに背中を晒し、カウンターの方へと歩いて行った。
女将さんの無防備な背を見て、エリーが少し警戒心を緩めるのを感じた。剣の柄を握りこむ手から力が少し抜けて、抜刀の構えだった足が普通の立ち姿に戻る。
彼女の足が、ややためらいがちに酒場の入り口を超えたが、特に何も起こらない。女将さんはその間にも、カウンターへの歩みを止めない。まるで混雑した時間に給仕をしているような、日常の足取り。
エリーが女将さんの跡を追って、酒場の中へ歩みを進める。一歩歩みを進めるごとに、彼女の警戒心が薄れていく。そのうち手が、剣の柄を離れた。ほんの一息、張り詰めた空気が緩んだ、その一瞬を狙って女将さんが振り返り、腕を水平に薙いだ。
女将さんの腕は、人間の腕ではなかった。蟷螂のような鎌へと変形していた。しかもその鎌は巨大で、女将さんの位置から酒場の入り口まで届くほど、優に十メートルはある。旋風のようになぎ払われた鎌は、易々と武器を構えた男達を切り裂いた。彼らは一人残らず、全員床に崩れ落ちた。
エリーは、髪を数本斬られただけで済んだ。後ろから駆け寄った僕に、すんでの所で床に引き倒されたからだ。僕が身を起こした頃には、カウンターの奥から悠長な足取りでマルコが姿を現していた。
「おや、さすが。不意打ちは警戒されていましたか」
あまり熱心でない拍手をしながら、奴は言った。
「女将さんだけは、絶対に助からないって分かってたんでね。何か仕掛けてくるだろう、とは踏んでいた」
マルコの一挙一同に神経を尖らせながら、僕は言う。
この村に着いたときに、女将さんの手がべたべたとマルコに触られているところは、僕がこの目で見た。奴のドーノの影響下にあることはほぼ確定事項だったので、一番の警戒対象だった。
「まさか死体と肉の塊の化け物以外にも、変えられるとは思っていなかったけど」
僕はマルコから女将さんの方へ、いや、女将さんだったものへ視線を移した。
女将さんだったものは、人間の振りをするのをやめていた。さっきまであたたかい表情を浮かべていた顔は、まるでしゃれこうべのように虚ろで、極めて人間によく似た人形のように立っていた。そして、さきほどまで巨大な蟷螂の鎌と化していた腕は、元の人間の腕に戻っている。どうやら、この化け物は体の一部を変化させる能力があるらしい。
体の一部分の変形能力。僕は一年前から抱いていた疑問の答えをようやく見つけた。
「一年前、この村を襲ったゴブリンを束ねていた首領。そいつはお前に作られた化け物だったんだな」
人間並みの知力と体格、それから不思議な変身能力を兼ね備えていたゴブリンの『王』。ゴブリンと人の間に生まれた子供だとか、色々可能性は考えていたが、正解はマルコのドーノによって生まれた化け物だった、というわけだ。
マルコがまた、やる気の無い拍手を始めた。
「正解です。あれは、私の一番の傑作。彼は私の忠実な理解者であり、同時に愛する子供のような存在でした」
拍手の音が止む。
「あなたは、あれの仇です。ですから、思いつく限りの、残虐で惨めな死をくれてやろうと思ったのですが……」
静かな殺意と、底知れぬ悪意を湛えたマルコの目が、僕をじろりと睨んだ。
「どれも上手くいきませんでしたね。さて、どうしたものやら」
「あんたは気が狂ってる!」
轟く雷光のような声で、エリーが叫んだ。
抜き身の剣の白刃をきらめかせ、マルコにその切っ先を向けた。
「子供のような存在の仇? 何を言っているのよ、じゃああんたは何人の子供達を、そしてその親達を殺したのよ! あんたの化け物一匹の報復が、どれだけたくさんの家族を壊したと思ってるのよ!」
剣の切っ先が、恐怖で、怒りで、震える。
しかし、マルコは激しい怒りと剣を向けられても、まるで頓着した様子はなかった。まるで飛び回る小蠅をうっとうしがるように、目を少し細めてわずかな不快感を見せただけ。
エリーが、唇を噛んだ。そして、剣の切っ先がぴたりと震えるのをやめた。
「地獄で、みんなに詫びろ!」
エリーがマルコに向かって、剣と共に風のように躍りかかった。
その白刃が、微動だにしないマルコに届こうとしたが、剣に変形した腕に阻まれた。女将さんだったもののが、目にもとまらぬ速さで立ちはだかったのだ。
エリーは刃を引いて、後ろに下がった。鍔迫り合いを避けたのだ。彼女は油断なく剣を構えたまま、後ろを振り返ることなく、叫んだ。
「カナタ……やりなさい!」
女将さんだったものを、やれ、と。
僕はエリーの声を聞いて、女将さんによく似た化け物を見た。顔立ちはとても女将さんによく似ているが、その虚ろな表情は、いつも明るくそして不敵に笑う女将さんには似ても似つかない。ましてや、剣に変形した腕などまさしく人外の証ではないか。
あれは、人ではない。僕は自分に言い聞かせた。エリーもそう言っている。僕は女将さんを殺すのではない。女将さんを冒涜するおぞましい化け物を殺すのだ。
決意を固め、僕は照準を定めた。一撃で、生命を滅ぼす力を使おうとした。数多の魔物を葬ってきたときと同じように、次の瞬間には、原型を留めない炭クズが一つできあがって、音を立てて崩れる。
そのはず、だった。
女将さんによく似た化け物が、僕の方を見て、その虚ろな目に光を宿し、口を開くまでは。
「ねえ、カナタ。お前さんは、私を殺そうとするのかい?」
女将さんの特徴的な、酒焼けしたしゃがれ声。縋るような目をして、哀れみを誘う声色でそれは言った。
僕は、息が詰まった。まるで、心臓を冷たい手で触られて機能が止まったような、自分の中で時が止まったような気がした。
それは、まだ言葉を続ける。人形にも、化け物にも決して真似なんか出来そうにないほど哀愁を込めて、表情をゆがめた。
「そんな、ひどいじゃないか。私はまだ、死んでいない。生きている。なのに、殺そうと?」
女将さんのような何かは、訴えるような眼差しで僕を見る。僕は目を逸らせない。とっくに条件は満たしているのに、自分のドーノを使うことが出来ない。
僕の視界が、急にぐらりと揺れる。
「しっかりして! あれはあんたを騙そうとしてるだけ! 女将さんはもういないのよ、死んでるのよ!」
エリーが、剣を持たない左手で僕の肩を掴んで激しく揺らしたせいだった。彼女は必死の形相で、僕に呼びかけていた。
「で、でも……」
酸欠に喘ぐ金魚のように、僕は口を動かしたが、それ以上の言葉が出てこない。
もういない? だって、目の前にいるじゃないか? 死んでいる? でも、あの特徴的な声で喋り、目に光が有り、殺さないでくれと懇願するものが死んでいるというのなら、生きているものとは一体何なのだ……?
世界全体が大きく回り出したような、酷い目眩を感じた。目の前の光景が輪郭を失い、全てがぼやけ、滲んで見えた。
ぐちゃぐちゃになった世界から、まだ僕に痛切に呼びかける声が聞こえてくる。
「確かに、私はもう化け物になっちまったかもしれない。けど、人間に戻る方法がどこかにあるのかも知れない。なあ、諦めないでおくれよ。砂粒一つ分の可能性でもあるなら、私を救う方法を世界中を調べて、探し出しておくれよ。どうしても手段がなくて殺すというのなら、それからだろう」
声を一段と低くして、それは言った。
「さもなくば……お前さんは、人殺しだよ」
世界が急に、元に戻った。女将さんの冷たい眼差しが僕を刺し貫いていた。
体を動かす権利を誰かに取り上げられたみたいに、動けなかった。指先一つ、僕の意志では動かせなくなってしまった。人殺し、という言葉が氷柱のように心臓に鋭く突き立ち、抜けそうになかった。
一年前、村人の多くが僕たちをゴブリン達に売って保身を図ろうとしたのに、女将さんは僕らを救い出し、命をかけて戦ってくれた。それだけじゃない。彼女は自分の気持ちを伝えてごらん、と助言をくれて、僕とエリーの仲直りを心から祝ってくれた。
そんな恩義ある人を、どうして僕が殺せるだろうか……?
「カナタ……」
エリーが、僕を呼ぶ声が聞こえた。でも、僕は応えられなかった。微動だにしなかった。
エリーはそれで、諦めたようだ。僕がまるでもう救えない死人であるかのように、背を向けた。
彼女は、両手で剣を構えた。そして、小さいけれども、揺るぎない声で言った。
「無茶をさせてごめんなさい。後は、あたしがけりをつける」
まるで、戦場に赴く兵士が残す遺言のような一言だった。
鋭い声を上げて、エリーは女将さんに向かって斬りかかる。しかし、その一撃は容易く防がれる。剣の刃に変形した女将さんの腕が受け止め、逆にエリーの剣を弾き返す。エリーは体勢を崩しかけるが、なんとか持ちこたえ、怯まずに女将さんに再び挑む……。
女性二人の、激しい剣戟が繰り広げられている。エリーは剣を、女将さんは自由自在に変形する腕を使って、互いの命を奪おうと刃を振りかざしている。
僕は、その様を後ろから見ている。まるで試合に出ているスポーツ選手と観客のように、遠く、決して交わらない距離で。
「あなたなら、瞬き一つであれを殺せるんでしょう? だというのに、後ろで見てるだけで何も出来ずと。実に無様ですな」
マルコが女性達の戦いの場に巻き込まれないよう、迂回しながら僕の方へゆっくりと歩み寄ってくる。
僕は、今更になってようやく自分も腰に剣を吊っていたことを思い出した。
「……うるさい」
ぎこちない手つきで、剣を抜き、歩み寄るマルコに切っ先を向けた。すると、マルコは喉を鳴らして不気味に笑った。
「そんなもの、抜いたって無駄ですよ。心優しい英雄殿には、私のような下種ですら殺せないし、なんなら傷つけることさえできないんでしょう。ちゃんと分かってますからね」
向けられた剣など気に掛けることなく、マルコは近づいてきた。一歩足を踏み込めば、奴の体を剣の刃が貫く。その距離でもマルコは臆することなく、丸腰で僕の前に立った。
マルコの挑発にもかかわらず、僕が握った剣の刃は、見えない壁に弾かれたように進みやしない。気の毒そうに、マルコは僕を見た。
「あなたを哀れに思いますよ。私なんぞよりも遙かに強力で、無慈悲な力をお持ちだというのに、下らぬ枷に囚われて、その力を満足に振るえないでいる……」
僕は絡みついてくるような視線を、首を振って拒否した。
「黙れよ、お前なんかに哀れみを向けられる筋合いはない」
「いいえ、あなたは実に哀れだ」
マルコがきっぱりとした口調で断言した。
「生命を破壊し、冒涜する快感。力の劣る蛆虫共を、踏み潰す快楽。あなたにもその資格があるというのに、それらをまだご存じないようだ……」
マルコの目が、暗い愉悦を湛えて僕を見つめた。
その目は、底知れぬ虚無を覗き込んだような寒気を僕に起こさせて、ぞっとした。持った剣を取り落とさないよう、懸命に握りしめた。
「少し、昔話をしましょうか。私が命を弄ぶ喜びを知ったときのことを。それはもう、素晴らしい日々の幕開けでした」
そう言って、マルコは語り始めた。間近で続く、激しい剣戟の音を背景にして。