45 惨劇
しばらくエリーの後を追っていると、僕の耳にも段々と人の声が聞こえてきた。女性の悲鳴だった。先行するエリーのランタンの明かりに照らされ、朧気ながらもその姿が見えてきた。まだ若い女性で、就寝していたところを着の身着のまま逃げ出してきたのか、寝間着姿は雨でずぶ濡れで、しかも裸足だった。必死の形相で逃げ惑う彼女の背後には、あの肉の塊の化け物が立てる重たい足音が聞こえる。一体ではない。複数いるのは間違いないだろう。まだ化け物まで距離があるようで、ランタンの光が届いておらず、視覚で捉えることは出来ない。
突如、女性がぬかるみに足を取られて転倒してしまった。恐怖のせいか尻餅をついたまま、立ち上がることができないようだ。震えて身動きの取れない女性の元に、エリーが足を速めて駆けつけ、助け起こした。
「足止めするから、逃げて! 村長の家まで!」
そう言って、僕たちがやってきた方向を示す。女性は頷くと、もつれそうな足で再び駆けだした。ちょうど僕の方に向かって、まっすぐ走ってくるような格好になる。
エリーがランタンを地面に置き、鞘から剣を抜いた。ランタンの頼りない光にも照らされるほど、肉塊の化け物たちは迫ってきていた。迫ってきている化け物たち全てが見えている保証はないが、少なくとも二匹は僕のドーノの射程圏内に既に入っていた。
家畜小屋で休むまでなら、僕は視界に入った化け物に対して、迷うことなくドーノを使っていた。でも、今の僕にはためらいがあった。思考を深めることを吐き気で中断した、あの嫌な予感が、何の考えもなくあれを焼き殺してしまっても良いのか、と問いかけ、僕の判断を鈍らせていた。
僕がためらっている内に、肉塊の化け物はエリーに襲いかかった。塔のような長い体を反らし、獲物を押しつぶそうと地面に向かって叩き付ける。当たればひとたまりも無いだろうが、動きは鈍重だ。二匹に同時に襲われながらも、エリーは軽快に攻撃を避け、振り下ろされた肉塊に剣の刃を浴びせる。化け物は肉を切り裂かれ、口のような部位からおぞましい悲鳴を上げ、傷口から鮮血をほとばしらせる。
「カナタ! どうしたの、ドーノは?!」
化け物をいなしながら、エリーが叫ぶ。
彼女の叫び声を聞いて、ようやく僕ははっとして我に返った。多分、後続が控えている。すぐにエリーがやられることはないだろうが、大勢に囲まれる前に倒さなければ危険だ。第一、彼女だけ戦わせて、僕が棒立ちでいていいわけがないじゃないか……。
僕はようやく、自分のドーノを使った。たちまち、二体の肉の化け物は炭となってその場に崩れ落ちる。だが、油断はまだ出来ない。暗闇の中から、地面を這い回る重たい物音が聞こえる。エリーも剣を構えたまま、虚空を睨んでいる。
ちょうどそのとき、肩で息をしながら女性が僕とすれ違った。余裕があれば声ぐらい掛けるが、今は生憎そんなものはない。エリーの指示通り、村長宅に向かっているようだから構わず放置することにした。絶対の安全などこの村ではもうどこにも保証のしようが無いが、ついさっき僕とエリーが通った道には何も居なかったし、村長宅も僕が嘔吐している間にエリーが全ての部屋を見て回った。化け物が徘徊している今、この場所よりはまだましだろう。
そう、後ろには誰も居ないと思っていた。だから、僕とほとんどすれ違い様に女性が苦しそうな息の下で、安堵を滲ませて声を発したとき……僕は固まってしまった。
「ああっ、生きてたのね、マルコさん!」
思わず反応が遅れた。空いた手で女性を掴んで、引き留めるチャンスを逃した。一番、怪しいと睨んでいる人物の名が出てきたというのに……!
背後を振り返ったときには、もう遅かった。僕のでも、エリーのでもないランタンの光が周囲を照らしていた。そのか細い光の中に、知り合いの生存者を見つけて、女性はまるで炎に飛び込む虫のようにふらふらと引きつけられていた。マルコもまた、小走りで女性に歩み寄っていた。まるで悠長に準備してから家を出たみたいに、ランタンを持って雨合羽もちゃんと被っていた。雨合羽のフードの下にあった表情は、僕の位置からは遠すぎて分からなかった。
「そいつに近寄るな! 逃げて!」
僕は、叫んだ。どうか間に合うように、と祈るような思いで。
だが、現実は非情だった。女性の足が止まった。僕の言葉を理解できずに、混乱した様子で。そこにマルコがランタンを持ったまま、女性に近づく。
マルコの手が、近寄ってきた女性の手を取った。
その瞬間、女性の体がまるで電撃が走ったかのようにびくり、と震えた。
「え……?」
彼女の戸惑いの声が漏れる。怯えた眼差しで、女性は己の腕に目を落としていた。
マルコが取った彼女の手から、皮膚が剥がれていく。血が吹き出し、筋肉が露出していく。手から肘に向かって、肘から肩に向かって、まるで目に見えない虫に皮を食い破られていくかのように。
女性の口から、苦痛を訴える悲鳴が漏れる。マルコを突き飛ばし、そのままぬかるみに尻餅をつく。喉が破れんばかりに女性は叫ぶが、体の変化は止まらない。腕の筋肉や脂肪が残らず雨空の下に晒された後、急速に女性の体の変化が早まった。彼女の皮膚を食い破る見えない虫が一斉に拡散したように、瞬きの時間で彼女の全身を食らいつくした。
耳をつんざくような悲鳴が、命が絶ちきられる苦しみを訴える絶叫が、夜空に響き渡った。そして、女性の体の中で何かが泡立つような低い音が響くと、まるで風船がたたき割られたかのように女性の体が弾け飛んで、消えた。
その代わり、彼女がいた全く同じ位置に、臓器や筋肉を露出させ、人間の腕や足らしきものが突き立つ奇妙な肉塊の塔が、まるで虚空から現れたかのように出現していた。
雨に混じって、血と肉片が空から降ってきた。生あたたかい血が僕にも振りかかった。さっきまで命を宿していたぬくもりを感じて、全身の血の気が一斉に引いていくのを感じた。
ランタンの光の中で、マルコは微笑んでいた。女性だったものの血と肉片を頬に張り付かせながら。
「こんばんは、英雄殿。このひどい雨の中、仕事熱心で感心しますよ」
まるで酒場で世間話をするように、マルコが話しかけてきた。
僕は何も、答えられない。マルコの前に立つ肉塊の化け物を、ぼうっと見上げていた。今さっき、僕の目に映った光景がなにかの見間違いだと思いたかった。疲労が見せた幻覚でも、なんでもいい。とにかく現実に起こったことだと認めたくなかった。
「どうです、化け物退治は順調ですか? もう何体倒されましたか? ああ……いや、その言い方は少々不適切ですかね」
くぐもった声でマルコが笑う。そして、暗い愉悦を湛えた目で僕を見た。
「あなたは、村人を何人殺したんですか?」
まるでマルコの視線に打ち抜かれたように、膝から力が抜けるのを感じた。立ってられなくて、ぬかるんだ地面に膝と両腕を付き、倒れるのを防いだ。
悲鳴を聞いて酒場を出て、まず一人。赤ん坊を見つけた後、村長宅にたどり着くまでに三人。村長宅で一人。そして、ついさっき女性に襲いかかろうとしていた二人。……計七人。
六人は、誰か皆目分からない。だが、二百人ぽっちの小さな村だ。恐らく顔は見たことあるに違いないし、話をしたことだってあるかもしれない。僕はこの村でたくさんの人々と関わった。一年前、僕とエリーを酒場に捕らえた男達かもしれない、あるいはゴブリンの大群と一緒に戦ってくれた勇気ある村人の誰かかもしれないし、ひょっとしたらつい先日、僕とエリーの仲直りに祝福の野次を飛ばした陽気な酔っ払いの誰かだったかもしれない。
だが、一人はほぼ正体に予測がついている。村長宅で、在宅の可能性が高いのに見つからなかった人……村長その人。僕たちの依頼主で、今日も夕食の前に報告に行き、また明日と別れの挨拶をした。仕事の最中だというのに派手な喧嘩をした僕らに、余計な口出しはしないで、仲直りをそっと見守ってくれた人。
全員、僕が殺した。今まで数多の魔物を葬ってきたように、あっさりと。
「あ……あ……」
意味を成さない声が、喉からこぼれる。頭の中で、村長を含め、たくさんの村人達の姿が映し出されている。彼らが円を描いて、ぐるぐると回る。段々と速度を上げ、まるでブレーキが壊れたメリーゴーランドのように延々と回り続ける。終わりなどなく、いつまでもいつまでも、悪夢のように村人達の姿は回り続けている。回り続けて、彼らを殺した僕を見つめている……。
そうしている内に、ぬかるみを這う重たい物音がゆっくりと、だが着実に近づいてくる。マルコがいた方向から、彼に化け物に変えられた哀れな女性がいた方向から。
でも、僕は顔をあげることさえ出来ない。頭の中で回り続ける、村人達の輪に意識を縫い止められている。音は聞こえる、目は見えている。けれども、それらはまるで遠い遠い異世界での出来事のように感じられた。
地面を這う音が随分近づいてきて、止んだ。血と臓物がまとう、濃密な匂いが鼻を突いた。僕のすぐ近くに、いる。肉の化け物……いや、僕が救えなかった若い女性が……!
どうすることも出来なかった。肉の塔が振り下ろされ、僕の頭が砕かれるまで、村人達の輪は僕を解放することはなかっただろう。
「しっかりしなさい!」
エリーの、暗闇にほとばしる火花のような声を聞かなければ。
僕は、ようやく顔をあげることが出来た。僕の前に立つエリーの背中と、真っ二つに体を断ち切られ、崩れ落ちる肉の塊が視界に入った。
断面からほとばしる大量の血が、エリーの雨合羽を真っ赤に濡らした。化け物を断ち切った剣にも大量の血液が付着し、神経や筋肉の筋が糸を引いていた。
「この肉塊は村の人たちじゃない。とうの昔に死んでいる。村中に絶叫が響き渡った、あのときに」
まるで、泥濘の中に凜と立つ花のような後ろ姿だと僕は感じた。
エリーは、僕に近寄ってくると左手を差し出した。
「あたしたちは、ただ化け物を退治しただけ。人を殺したわけじゃない。何も気に病むことは無い」
元は村人だった肉塊を斬った時についた血が、差し出された手のひらにはべっとりとついていた。
立て、と彼女の左手は言っている。死にたくないなら、立て、と。
僕はその手を、震えながらも取った。
「……ああ」
ため息のような声で、僕は辛うじて答えた。彼女の手に縋って、おぼつかない足取りで立ち上がった。
立ち上がって周囲を一瞥して、ようやく僕は自分が動けなくなっている間に、随分と状況が悪化していることに気づいた。
囲まれていた。肉の化け物たちが、僕の足下に置かれたランタンの光で確認できるだけでも、十は下らない。一体一体の動きは鈍重で回避はそう難しくないが、包囲されたら話は別だ。あの重たげな肉の塔がまともに当たれば、命はないのだ。まともに肉弾戦を挑んだところで、勝機は薄い。
このままだと、僕だけじゃない。エリーも死ぬ。
あの肉塊は、村の人たちじゃない。僕はエリーの言葉を、自分の心の中で繰り返した。そうだ、僕がこれからやることは人殺しじゃない。むしろ、これは、惨たらしい姿に変えられてしまった彼らを救うための行為なのだ。そう、自分に強く言い聞かせた。一度ならず、二度でも三度でも繰り返した。
本当に、そうか? 自分を騙そうとしていないか? エリーの言葉に、疑いを挟もうとする声を聞かないために。
ランタンの灯りに照らされた、肉塊の塔が一斉にその場に崩れ落ちた。灼熱の炎に焼かれ、その場で炭の塊と化した。まるで火葬に付されたかのように。
ドーノを湯水のごとく使っても、他の人たちとは違って、僕は全く疲れを感じない。だから、たかだか十匹魔物を消し飛ばしたところで、何の影響も出ないはず……なのに。
目の前の景色が、一瞬ぐにゃりと歪んで見えた。強烈な目眩に見舞われて、体がぐらりと傾いだ。まるで、今のドーノの使用に体が悲鳴を上げたみたいだった。
「……大丈夫?」
気遣わしげに、エリーが聞いてきた。
「……平気。ちょっと、目眩がしただけだよ」
僕は微笑んで言った。
「ドーノの使用には問題ない。化け物が出てきても、任せてよ。全部、吹き飛ばしてやるからさ」
果たして、僕は上手く微笑めたのだろうか。エリーは、まるで仮面を被ったかのように感情を見せない顔で、僕をじっと見ていた。
不意に、自分の手がぎゅっと握られた。握ったのは、エリーの手だった。立ち上がるときに差し出された手を、僕は無意識の間にずっと離さずいたらしい。
エリーは何か言おうとして、まるで書きかけた手紙を破り捨てるときみたいに、顔を歪め、口ごもった。
結局彼女は何も言わず、その代わりにもう一度強く、言葉にできなかった想いを託すかのように、僕の手を握った。
彼女の手も、僕の手も雨で冷え切っていた。