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42 二人の時間

 思い返すと、どこかに追いやったはずの照れくささがまた蘇ってくる。ほとんど反射的に体が動いてしまった。しかもその理由をわざわざエリーに説明させられるなんて、とんだ拷問だ。馬鹿はどっちだ、察しろっての。

 しかし、こうして落ち着いて振り返ってみると、あれは実は正しい選択だったのだと思えてきた。エリーに自分以外の異性が触れるのが嫌、なんて幼稚な理由とは別の理由で。

 村人のリストを眺めながら、寝台で寝転がっていると、ドアをノックする音が聞こえてきた。返事をすると、エリーの声が聞こえてきた。

「入ってもいい?」

「……どうぞ」

 拒絶する理由は何もない。でも、返事をするのに少しためらいがあった。

 エリーは僕のためらいに気づいた素振り無く、すかさず部屋に入ってきた。流石に寝転がったまま迎えるのはよろしくない。体を起こして、彼女と目が合ったところで、僕は体がぎくりと強ばるのを感じた。

 ざあ、と雨の音が急に聞こえてきた。僕とエリーの沈黙を、代わりに埋めるために降り出したように。

「特に用事があるわけじゃないんだけど……」

 居心地悪そうに、髪の毛先を手元で弄りながらエリーが言う。昼間の革鎧をまとった冒険者の姿ではなくて、しなやかな体のラインが透けて見える、無防備極まりないワンピースの寝間着姿。夕食も終わっているので、あとは寝るだけなら寝間着でも全然不思議じゃないんだけど……。

 別に、前までならなんとも思わなかったはずなのに。なんなら、この格好のまま隣で寝てても平気だったのに。今はもう、そうとはいかない。

 エリーと仲直りをして、時間が巻戻ったように元通り……とは行かなかった。確かに、今の僕らは傷つけ合ったり、疑い合ったりすることはない。でも、以前のように何の屈託も無く笑い合ったり、軽口を気軽にたたき合うということも同時に出来なくなっていた。

 会話がない、というわけではないんだけど、なんとなくぎこちない。話をどう振って良いか迷うときがあるし、不意に会話が途切れて黙り込んでしまうときもある。

 でも、不思議とそれが苦痛だとは感じない。思うように話ができなくて歯がゆく思うことはあっても、彼女のそばを離れたいとは思わない。隣にいてくれるだけで、空気があたたかくなるような気さえする。

 多分、僕だけじゃなくて、彼女も同じように感じていると思う。お互いの気持ちはもう、分かっている。でも、これ以上近づくのは、避けている。物理的にも……精神的にも。

 実際、彼女は僕が腰掛けている寝台までやってきて、端の方にちょこんと腰を下ろす。手を伸ばしたって、指先が届きそうにもないぐらい。

 そんなに離れなくたって、いいじゃん。拗ねた顔してそう言ってやりたくなる。でも、ぐっと堪えた。距離を縮められるのも、それはそれで対応に困るから。

 結局、どう口火を切ったものかと悩んでいるうちに、エリーが僕の手元のリストに目をやった。

「考え事? 何か分かった?」

「あの雑貨屋のおっさんのこと、ちょっと考えててさ」

 ほっとして答えた。下手な雑談よりも、仕事の話の方が今の僕らにとってはしやすかった。

「手が触れた相手の考えを読み取れるドーノだ、ってあいつは言ってたけど、それがもし嘘だったら……って思ってさ」

「あ……」

 エリーが察した様子で、声をあげる。

 もし、マルコが僕らが捜している犯人だったら。彼がぐちゃぐちゃの死体を作って、その上意味不明な改造をするドーノの持ち主で、その発動条件が相手の手に触れること、だったら。

「君は、今頃ここにいなかったかもしれない」

 僕の幼稚な判断でエリーの腕を引っ張ったのは、正解だったということになる。

 エリーが寒気を感じたように、自分の肩を抱いた。

「ドーノの調査のやり方、ちょっと考え直さなきゃだめね」

「だね」

 エリーの言葉に頷く。実際にドーノを見せてもらうときに、厄介な力を使われては困る。

「ごめん、エリー。危ない奴を探して調査しているのに、その自覚が足りなかった。村人のドーノを調査しようと言い出したのも、どうやって調査するか考えたのも両方僕だ。僕の手落ちだ」

 手落ちがあったら、その責任を負うべきは僕だ。

 特に、雑貨屋で初めて顔を合わせたエリーと違って、僕は一年前と数日前の二度、直接会話を交わしている。いずれのときも、彼は僕に握手を求めていた。僕らの手に触れることに、ひょっとしたら目的があるのかもしれない……そう予測することだって可能だったはずなのに。

「カナタ一人の責任じゃないでしょ、何も考えずに手を出したあたしにも非はある」

 彼女は素っ気なく言った後、ぽつりとつぶやいた。

「あんたは……頑張りすぎ」

 まるで、星のない夜空にひとりきりで浮かぶ月のように、彼女が孤独に見えた。

「そう? そんなことないよ」

 僕は、どうしてエリーがそんなに寂しそうな顔をしているのか、よく分からなかった。

「むしろ僕は、もっと頑張らなきゃって思ってるよ。だって僕はまだ、この世界に不慣れで、未熟で、もっと学ばないと……」

 冒険の技術にしても、それから人間関係の作り方にしても、そう。足りないことばかりで、周りの人たちになんとか助けてもらってここにいる。『女神の抱擁亭』のマスター、まあ一応ソフィア、それからこの村の女将さんに、村人達。何よりも、今、同じ空間にいるエリー。最初の冒険から今日に至るまで、彼らの励ましがあって僕はなんとかやってこれたのだ。

 今の自分に満足なんてしていない。もっと強くならなくちゃいけないと思っている。それは誰だって自然に抱く感情だと思っていたのだけれど、エリーの表情は、暗い。

 何かまずいこと、言っただろうか? 不安になっていると、急に、エリーが立ち上がった。そして、拳一つ分もない距離で僕の隣に腰掛けた。

「ほら、こっちに背中向けて!」

 強い口調でエリーが言う。

「何する気?」

 あまりにも近い距離に慌てながらも、当然の疑問を口にすると、彼女は風船のように頬を膨らませた。

「口答えは良いから。さっさとあたしの言うこと聞きなさい!」

「ええ……」

 んな、無茶苦茶な。当然のことを聞いただけなのに。

 何を言っても怒られそうなので、僕は渋々彼女の要求に従った。ひょっとして、刺される? そんなことを考えながら、彼女の行動を怖々と待った。

 しばらくして、エリーの両手が僕の肩に触れた。彼女の指が、僕の肩の肉を揉み始めた。彼女の行動に思わず身構えてると、エリーが言う。

「ほら、肩に力はいってる。揉みづらいじゃない、力抜いて」

「はあ……」

 そんな近くに寄られたら、肩に力ぐらい入るよ……。そう言ったら、また口答えするなと言われそうだ。

 なんで、僕は肩を揉まれてるんだ。自問したって分かりっこない。答えられるとしたら、それはエリーにしか出来ないことだ。

 黙って肩を揉まれていると、案外気持ちよかった。凝っている場所の目星が付いているのか、何も言わずとも的確な場所を揉んでいる。畑仕事や日常の家事で疲れた両親の肩でもよく揉んでいたのだろうか、と思う。彼女は孝行者の娘のようだから。

「ねえ、カナタ。あんたがこの世界に来て、どのくらい経ったっけ? 一年ぐらい?」

 肩揉みを続けながら、エリーが声を掛けてきた。まるで、王都の自宅にいるときのようなくつろいだ声で。

「ちょうどそのくらいかな」

「そんなもんよね。一年ぶりに女将さんとか、この村の人たちに会って、どう? 変わったな、って言われるんじゃないの?」

「ああ……」

 記憶の糸をたぐり寄せる。

「言われるね。雰囲気変わったね、とか。別人みたい、って驚いてる人も結構いた」

 女将さんやそのほかの村人たちと顔を合わせたときのことを、一つ一つ思い返した。

「驚くほどのことじゃないと思うんだけどね。一年あれば、人が変わるには十分だろ。僕の前世では、『男子、三日会わざれば刮目して見よ』って格言もあるし……」

「なにそれ、変な格言」

 エリーが笑って言う。

「三日前のあんたと比べたって、今のあんたとの違いなんてたいしたことないわよ。せいぜい、違うのは鼻毛が出てるかどうかぐらい?」

「えっ?! で、出てた?」

 僕は大慌てで鼻を押さえた。それは気づいた時点で早く言えよ! それか逆に指摘せずにそっとしておくか、のどっちか!

 すると、エリーがくすくす笑い出す。

「うそ。どこも変わりないわよ」

 多分、僕に背中で意地の悪い笑みを浮かべていることだろう。

 からかわれた。問題なかったと安堵するより、弄ばれたことへの屈辱感が勝った。

 がくりとうなだれていると、エリーの肩もみの手がいつの間にか止まっていた。そのことに気づく暇も、僕には無かった。

 背中一面に薄い布越しに人肌のぬくもりを、肩の辺りに彼女の頭部の重みを感じる。

 エリーに、後ろから抱きつかれている。現状を理解して、僕は凍り付いたように動けなくなった。

 心臓の音がうるさいぐらいに聞こえる。それは僕自身のものか、それとも、革鎧を身につけていた洞窟のときとは違って、薄い寝間着を隔てて触れているエリーの胸から聞こえてくるものなのか……。

「そんなに焦らないでよ。あんまり、頑張りすぎないで」

 柔らかなささやき声が、聞こえる。どこまでも甘やかしてくれそうな、優しい響きがその声にはあった。

「そんな……頑張りすぎだなんて……とても……」

 僕は困惑した。彼女がひどく僕を甘やかそうとしていることにも、ぴったりと密着した距離にも。

「頑張りすぎよ」

 声は柔らかいが、エリーは頑として譲らない。

「だって、あんたは三日どころか、たった一日でも……下手したら、ほんの一瞬目を離した隙に、別人みたいになっちゃう」

 拗ねたような口調に急に変わった。

「そ、そう……?」

 大げさに言われているような気がする。が、エリーは変わらず拗ねた声で続ける。

「一年前のゴブリン退治の時に始まって、今だってそう。『女神の抱擁亭』で別れたときはあの様だったのに、洞窟の中じゃ……全然違う」

 エリーのつぶやきに、僕は反論を挟もうとは思わなかった。

 確かに、洞窟内での出来事は僕自身にとっても驚きだった。女将さんからの助言があったとはいえ、あんなに大胆なことが出来る人間だと、自分のことを思っていなかった。同じように、エリーにとっても僕の変化は驚きだったし、そんな人間だったとは思っていなかったということだろう。

 僕が何も言わないのを受けて、エリーが再び口を開いた。

「自覚してるかどうかは知らないけど、あんたが頑張ってないわけ、ないでしょ。ものすごい速度でたくましくなって、強くなって、どんどん変わっていく、なんてさ」

 さっきまで、肩もみをしていた手が僕の腹に回されていた。

「あまり遠くに行きすぎないで。あたしのこと……置いていかないで」

 不安と恐れを滲ませて、エリーが囁いた。まるで、遠ざかろうとしている人をためらいがちに引き留めるように。

 僕は、エリーが自ら望んで弱みを曝け出した瞬間に、初めて立ち会った。そして、それが僕だけの特権だということを直感的に悟った。

 晴れた空に突然湧き出た雨雲のように、感情がこみ上げてくるのを全身で感じた。その感情に突き動かされ、僕の腹に手を回している彼女の手に、自分の手を重ねた。

 僕の手のひらの中に、彼女の手は十分に収まった。想像以上に小さかったことをしみじみと感じながら、そのまま指を絡めた。

 彼女が、僕の行動に驚いたように身を竦めた。僕は彼女に、できる限り優しく笑いかけた。

「手を離してくれる、エリー? 大丈夫、怖がらないで」

 脆いガラス細工を扱うように、慎重に絡めた指を外す。すると、彼女はおずおずと僕の体から腕を外して、身を起こした。腕の枷が外れて、彼女の体との距離が少し空いた瞬間、僕は彼女に向き直って、その勢いのまま、自分の胸に抱き寄せる。そして、もう片方の手で彼女の顎に手を添えて、少し強引に上げさせた。

「カナタ……?」

 顔を上げさせたエリーは、目を見開いて僕を見つめている。頬は紅をさしたように赤い。

 なんて可愛い顔をしてるんだろう、と思った。一年近くずっと隣にいたのに、どうして僕は最近まで平気でいられたのか? 今となっては、不思議でならない。

 一方で、出会ったそのときから今に至るまで、一貫していることがある。

「僕が、君を置いていくわけないだろ。君はずっと憧れの人で……一生懸命、追いかけてきたんだから」

 この一年、僕は先を行く彼女の後ろ姿に憧れていた。それがいつからか分からないけれど、追いていかれたくなくて、見くびられたくなくて、今思えば……認めてほしくてもがいて、なんとか彼女の隣に居場所を確保したくて、努力し続けた。

 そうやって必死になって追いかけてきた人を、今、僕は己の腕の中に捕まえている。

 僕は、エリーを抱き寄せていた手を背中に滑らせ、ゆっくりとなで始めた。寝間着の柔らかい生地ごしに、彼女のしなやかな体の感触を味わう。

 エリーの唇が、言葉にならない声を短く、甘く紡いだ。僕を見上げる眼差しが、熱を帯びる。

「ほら……カナタは、ほんの一瞬目を離しただけで変わるって……言ったとおり……」

 とろけたような目をしてエリーが言う。僕は彼女を見つめて、微笑んだ。

「君もね。急に怒り出したり、気弱になったり、平気な顔したり、かと思えば甘えてきたり……ここ最近、とても忙しいよ」

「それは……」

 からかうように言うと、エリーが不服そうに、唇を尖らせた。

「あんたが、あたしの気持ちを……ぐちゃぐちゃにしてくるからじゃない……」

 途切れ途切れに、エリーがつぶやく。合間合間に甘いうめき声を挟みながら、体からこみ上げる感情を堪えている。

 僕にも、その感情を堪えることの窮屈さはよく分かる。エリーの体に手を滑らすごとに、高まっていくのが感じ取れる。

 これに名前をつけるなら、興奮と言うべきか? もっと有り体に言えば、劣情? 違う、と僕は思う。かつてマルチェラに向けた感情と、今エリーに向けている感情は全く別物だ。あんな紛い物とは桁違いに激しく、比べようがないほどに幸せを感じる。

 僕は、エリーを撫でている手を止めた。高まり続ける感情に、エリーに向ける愛情が、耐えがたいほど膨らんできたのを感じたから。これ以上続けると、何をしでかすか自分でも分からないから……。

「……いいかな、エリー?」

 僕は荒い息の中、それだけ言った。エリーは頷いた。僕がこれから何をしようとしているのか、理解した様子で。

「……うん」

 彼女の返事も、それだけ。少し気恥ずかしそうに、でも、隠しきれないほどに幸せそうに。

 これ以上、言葉はいらない。

 僕らは互いに視線を絡ませるように見つめ合いながら、顔を近づけた。僕がエリーの頬に掛かった黒髪をそっと払いのけると、彼女は目蓋を下ろした。僕は彼女の、形の良い柔らかそうな唇を一瞥し……目を閉じた。

 本当は、もう少し我慢するつもりだった。王都の自宅に帰って首飾りを渡してから、冒険の相棒ではなく、恋人として振る舞い始めようと思った。

 だって、少なくとも十日間は掛かる依頼の途中で、エリーとの距離を縮めてしまったら、頭がそれでいっぱいになってしまうだろうと思ったのだ。そんな状況じゃ、禄に仕事なんて出来そうにない。

 でも、もう……これ以上我慢するのは、無理だった。僕も、エリーも互いに確かめ合った気持ちを押しとどめることは、もう限界だったのだ。

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