38 ラクサ村
準備を済ませて、家を出た。今から歩いて行けば、日没前には村に着くだろう。街道沿いに歩いて行けばいいだけなので、道は難しくないし、道中の危険もない。
一人で王都を出るのは、初めてだった。冒険でもなければ王都から出ることはないし、冒険となればエリーがいつも同行していた。他愛のない話をしながら、あるいは酒場で一杯引っかけながら進む道中がいかに恵まれていたのか、痛感させられた。
黙々と歩き続けるだけの道中の退屈さを、僕は初めて知った。
予想通り、あと少しで日没が訪れるような頃合いにラクサ村に着いた。一年ぶりに訪れた村は、記憶の中の光景と大きな違いは無い。二週間と比較的長い期間滞在したので、村の地理は大体頭に入っている。
村で唯一の宿屋を兼ねた酒場の『黄金の輝き亭』へ足を向ける。ドアを開けた瞬間、エリーと出くわす可能性が高い。やや緊張しながら、酒場に足を踏み入れた。
期待外れ、というべきか、エリーの姿はなかった。少し早い時間だが、早速酒盛りを始めている男達の一団が、酒場の扉が開く音を聞きつけて振り返る。
全員、顔に見覚えがある。向こうも僕の顔をしっかり覚えているみたいで、声を掛けてきた。
「よう、英雄殿。村の連中、皆で不思議がっているぜ。どうしたんだい、嬢ちゃんとは喧嘩中か?」
赤ら顔の男がからかうように言う。周りの男達も陽気な笑い声を上げて、追従する。
エリーが先に着いていて、しかも単独行動だということはもう村民の噂になっているわけか。
「まあ、ちょっとね」
「何やらかしたんだ? ひょっとして……浮気?」
興味津々、と言った様子でまた別の男が聞いてきた。僕は苦笑した。当てずっぽうに違いないのに、どうして当たるんだ。いやまあ、やってないんだけど。
「そんなわけないって」
嘘は言っていないが、正確に教える謂れはない。適当にあしらうつもりだったのだが。
「あんなべっぴんさん差し置いて、お前も罪作りな奴だな! なあに、頭を地面にこすりつけて土下座しろ! そうすりゃ許してくれるって!」
別の男が酔いの回った口調で叫ぶと、周りの男達がどっと笑い、それから、自分の体験談やら隣人の話やらで盛り上がりを見せる。こうなっては、弁解したってもう聞いていない。わいわい騒ぐ男達の耳に、僕の声は入りそうもない。
僕が浮気したことに、勝手にされてしまった。酔っ払い達に真面目に関わり合っても、話がややこしくなりそうなので、放っておくことにした。多分、数時間もすれば、浮気の噂がまことしやかに村中に拡散しているだろうけど……訂正するのも面倒くさい。
騒ぐ男達から距離を取って、カウンター席に腰掛ける。すると、酒焼けしてしゃがれた女性の声が聞こえてきた。
「悪いね、うちのぼんくら共が騒いじゃって。酔いが覚めたら、きっちり締めておくから許してやってくれよ」
かつて散々世話になった女将さんが、カウンター越しに姿を現した。僕は思わず懐かしさに目を細めた。
「よろしく頼むよ。僕は絶対にそんなことしないから」
僕としては、ごく普通に返したつもりだった。が、女将さんは軽く目を見張って僕をじっと見た。
「あんた、そんなきっぱりとした口の利き方をする子だったかい? 雰囲気、随分変わったねえ」
しみじみと女将さんがつぶやく。
そんな変なこと、僕、言った? 女将さんの反応を不思議に思ったが、そういえば会うのは一年ぶりだった。
「この一年、冒険者やってるうちに揉まれてきたんだよ。ビールももう、飲めるからね?」
僕は軽く笑って答えた。
異世界にやってきたばかりで、人見知りで臆病な少年だった僕のことしかこの人は知らない。ビールが飲めずに、牛乳を出してもらって笑われたのも、もう一年経つのだ。
「そうかい。顔つきも別人みたいだよ、男らしく、たくましくなった」
女将さんは豪快に笑って言った。
「一年前は、お嬢ちゃんの後ろを雛みたいについて歩いていたってのに。今は一人で歩けるようになったんだねえ」
何があったのか、なんて直球の問いかけはしてこない。だが、言外には匂わせている。
僕は一瞬、怯んだように押し黙ってから、口を開いた。
「エリーは、今、どこに?」
「上の階に個室取って、閉じこもってるよ。ビールの一杯も飲まずにね」
女将さんはため息をついた。
「話しかけても、全然喋らなくてね。えらく思い詰めた様子だった。見てるこっちが心配になるぐらい」
ちら、と女将さんが僕を見た。心当たりがあるのだろう、と相変わらず言葉にはしないが。
勿論、心当たりはある。が、女将さんにわざわざ話そうという気にはならなかった。これは僕と彼女の問題だったから。
僕と女将さんの間で、会話が途切れていた。少し離れた席の、さっき僕に声を掛けてきた酔っ払い達の陽気な声が、まるで別世界の出来事のように遠く感じられた。
沈黙を破ったのは、酔っ払いたちとは別の男性の声だった。
「女将さん、もういっぱい頼むよ」
振り返ると、中年の男性がカウンターの方に向かって歩いてきていた。どうやら酒場の隅の方の席で一人静かに食事を取っていたらしく、僕は完全に彼の存在を見落としていた。なんだか見たことがあるような顔だが……生憎、すぐには思い出せない。
「おや、マルコ。飲み過ぎだよ。それぐらいにしておきな」
女将さんは男に窘めるように言った。マルコと呼ばれた男性は、目を細めて笑った。
名前と顔を認識して、ようやく僕は彼の存在を思い出した。そうだ、一年前に『王』の使者としてラクサ村の住人たちに降伏するよう説いた男性だ。
「ひどい扱いだ、そんなに私の影は薄いかい?」
困ったような笑顔を女将さんに向けながら、彼は銅貨を財布から取り出した。
女将さんが銅貨を受け取るために、分厚い手のひらを差し出す。ごくごくありふれた日常の動作。見ようと思って見ていたわけじゃない、たまたま視界に入っただけ。
まじまじと見てしまうのは、ここからだった。
「はいよ。これでいいかな」
マルコは差し出された女将さんの手首を、どうしてだか左手でわざわざ掴んで引き寄せ、右手で摘まんでいた銅貨を引き寄せた手の平の上に置いた。
うわ、あんなお金の渡され方やだな。あんなに手をべっとり触られるの、嫌い。自分とは全然関係のないやり取りだったけど、嫌悪感がこみ上げる。
じろじろと、他人の釣り銭の受け渡しを見てしまった。すると、その視線に気づいたらしいマルコが僕の顔を見るなり、ぱっと破顔した。
「おお、英雄殿じゃないか! 久しいね! そうか、ゴブリン退治に来てくれたんだね。いやあ、君が来てくれるなら安心だよ」
興奮した様子でマルコが言う。
ずっと応援していたアイドルに直接会った熱心なファンみたいだ。僕は思わず面食らってしまう。正直、よく知らないおじさんに、はしゃがれてもな……。
「いやあ、もう一度会えるなんて実に光栄だよ!」
曇りのない笑みと共に差し出された右手を、僕は冷や汗と共にちらっと見た。
握手を求められているのは一目瞭然。そういえば前にもあったけど、なんだか嫌な予感がして応じなかったんだっけ。
今、思えば当時の判断は正解だった。さっきの、妙にねっとりとした釣り銭の渡し方を見た後だと、非常にためらわれる。
嫌だ、あの握手は嫌だ。
僕の猛烈な逡巡を知ってか、知らずか、マルコは辛抱強く手を差し出している。気を抜くと、無理矢理手を引っ張られて握手されそうで怖い。バレないようにそっと手を背中の後ろに隠した。
何か理由をつけて、断ろう。そう思って、こじつけられるものを探して周囲を一瞥した。
そのとき、だった。二階の階段から下りてくる、よく見知った人影……旅装を解いたエリーの姿が目に入った。
マルコの差し出された手のことなんて、頭から消し飛んだ。弾かれたように、僕は駆け出した。
「エリー!」
僕の叫び声は、酒場中に響き渡るような声だったのかもしれない。階段を下りてくるエリーが、大きな声に驚いた様子で足を止めた。
呼吸をすることさえもどかしく、彼女の元に急いだ。心臓がうるさいほどに音を立て始めたのは、急に走り出したからじゃない。彼女の前に立つと、思わず足が竦んだ。
エリーは黙って、僕を見ていた。僕を無視して下りていくわけでも、怒って部屋に戻ろうとするわけでもなく、その場に止まっていた。
夜の闇のような、彼女の黒い瞳に僕は怯んでいた。内に秘めた感情を決して読み取らせてくれず、どんな言葉をかければ良いのか分からず、皆目見当が付かなかった。
それでも、黙っているわけにはいかなかった。とにかく、何か言わなければ……。
「あの、エリー。誤解を招くようなこと、言っちゃったけど……とにかく、僕はやってないよ。嘘じゃない、マルチェラには何も……!」
「もう何も聞きたくない」
ぴしゃり、とエリーが僕の声を遮った。
「あたしのことは放っておいて。……汚らわしい」
まるで、地面でのた打ち回る蛆虫を見下ろすような目。吐き捨てるように言うと、エリーは僕に背を向けた。
「依頼で必要なとき以外、もう話しかけないで」
そのまま、階段を上って部屋に戻ってしまった。
僕は、彼女の背中を追いかけることは出来なかった。
エリーの後ろ姿を見送って、しばらく経ってからようやく階段を下りた。
ついさっきまで陽気な笑い声に包まれていた酒場が、まるで夜の墓場のように静まり返っていた。僕が酒場にやってきたとき、無遠慮な言葉を投げつけてきた男達も、酔いが吹き飛んだのか、葬式の最中のように黙り込んでいる。
沈痛な空気の中、さっきまで座っていたカウンターの席に僕は戻った。
「……女将さん。とりあえず、荷物を置きたいんで部屋の鍵もらえる?」
わずかに残った気力を総動員して、女将さんに告げた。女将さんは頷くと、「少し待ちな」と言うとカウンターの奥に姿を消した。
女将さんが立ち去ると、さっき握手を求めてきた位置でまだマルコが立っていることに気づいた。
間が悪いことに、目が合ってしまった。
「英雄殿も……大変ですな」
「まあ……」
マルコはぎこちなく僕に笑いかけ、僕もまた気まずく応じるしかなかった。
放っておいてほしいんだけど。正直な気持ちを吐露することも出来ず、黙り込む。すると、僕の気持ちなどお構いなしに、マルコが再び話しかけてきた。
「実は、私、雑貨屋を営んでいてね。それはもう雑多な商品を扱っているんだよ。生活に必要な鍋やら皿に限らず、花もあってね……」
「はあ……」
だから、なんなんだ。雑に相槌を打つと、マルコは僕に向かって得意げにウインクしてみせた。
「ご婦人のご機嫌取りにぴったりだと思うんだ。安くしておくよ?」
適当な相槌をうつことさえ、こんなに辛いことはそうそう無い。
「それはどうも……」
花で機嫌が取れるなら、借金して百本でも千本でも買ってやる。
女将さん、早く鍵をくれ。僕は心の底から願った。
僕の願いが通じたのか、タイミング良く女将さんが姿を現し、マルコに向かって追い払う仕草で手を振った。
「店の宣伝は空気を読んでやれ。会計も済んだし、とっとと帰りな」
「おや、女将さんは常連にも手厳しいねえ」
女将さんは僕が言いたかったことを代わりに言ってくれた。マルコは困ったように微笑んだ。
「では、英雄殿。ぜひともうちをご贔屓に」
そう言い残して、マルコはようやく酒場から立ち去った。
はあ、と思わずため息が出る。いや、絶対行かない。必要な物が出たら、村の外に買いに行く方がマシ。
僕ががっくりと肩を落としていると、女将さんが苦笑していた。
「悪い奴じゃないんだけどね。ただ、まあ……なんというか、変わった御仁でね」
女将さんが言葉を選んでいるのが、ひしひしと伝わってくる。
「あの人の雑貨屋、お客来るの?」
ねっとり手を触られるの、皆嫌がって行かないのではないだろうか? 素朴な疑問をぶつけると、女将さんは首を縦に振った。
「この小さな村じゃ、店は貴重だからね。なんだかんだで、皆あの店を使わざるを得ないのさ。二回目以降は触られないように避けるけど、皆最初の一回はあの洗礼を食らう」
やはりあの手つきは、村人たちにも嫌がられていたようだ。そりゃ綺麗なお姉さんがやるならともかく、ちょっと変わった感じのおっさんだもんな……。
「よく、女将さんは触られても平気な顔してられるね」
女将さんぐらい器が広いと、ねっとりした握手ぐらいどうでもよくなるのだろうか。彼女の寛大さに僕は感心してしまった。
「まあ……それは……」
すると、女将さんはちょっと言いづらそうに口ごもった。
「長い付き合いだからね。幼なじみというやつさ。今更気にしたって、仕方なかろうて」
そう言って、さっき少し口ごもった分まで豪快に笑う。
確かに言われてみれば、女将さんとマルコは年齢も近い。なんとなく他の村人より距離が近いのも、幼なじみ故か。
まあ、他人のことはどうでもいい。僕は再び、ため息をつく。
「なんか、余計に疲れたよ……」
エリーとの仲はこじれるわ、変なおっさんに絡まれるわ、で今日は碌なことがない。いや、昨日に引き続いて今日も、か。
疲れ切ってカウンターに行儀悪く肘をついていると、女将さんがからりと陽気に笑った。
「あの変な御仁のことはともかく。嬢ちゃんとは何があったんだい?」
さりげない口調で、今度は直球の質問が飛んできた。
階段でのエリーとのやり取りは見られている。今更隠したところで、変な誤解が広まるだけだ。
どうにでもなれ。半ば自棄になって、僕は話し始めた。
「実は……」
昨日『女神の抱擁亭』で起こった出来事から順番に話をした。女将さんは皿を拭きながら、時折相槌を打ちつつ、僕の話に耳を傾けてくれた。
「そりゃあ、大変だったねえ」
穏やかな口調で女将さんは言う。
「何を言っても、聞く耳を持たないみたいでさ。一体どうしたらいいかな……」
今日、何度目か分からないため息を、盛大につく。
「随分、こじれているようだけどさ。お前さん、あの子にちゃんと自分の気持ち、伝えたのかい?」
「自分の……気持ち?」
僕がオウム返しにつぶやくと、女将さんが頷いた。
「仲直りしたいんだろ? それ、ちゃんと伝えたかい?」
僕は昨日から今日にかけて、エリーとのやり取りを思い返した。『女神の抱擁亭』で彼女に詰められたとき、それからさっきの階段でのやりとり……弁解ではなくて、自分がどう思っているか……。
「いや、言ってない」
僕は首を横に振った。
「でも、そんなこと伝えたって……。誤解を解いてからじゃなきゃ、聞く耳なんて持たないでしょ」
エリーが今、何を考えているのかいまいち分からないけど。全ての原因は、僕が不貞を働いたという誤解から生じていることは、間違いない。
とは言え、今更何を言っても、誤解は解けそうにない。そして誤解を解かない限り、状況は変わらない。
要するに打つ手無し。だからこそ、こうして僕は参っているのだけれど。
女将さんは、ふっと笑った。
「そうでもないさ。騙されたと思って、一度試してみな」
「うーん……? 何で?」
どういう理屈で、そうなる? 僕には女将さんがそう言う根拠がよく分からない。
僕が全く納得した様子を見せずにいると、女将さんはからかうように笑った。
「女心って奴は複雑怪奇なもんさ。お前さんが考えているよりも、ずっとね」
「……女将さんはエリーの気持ち、分かるわけ?」
なんだか思いっきり虚仮にされたような気がする。僕が不満げにぼやくと、黄ばんだすきっ歯を唇から覗かせて女将さんは言う。
「さあ、どうだかね。いずれにせよ、それはお前さん自身が骨を折って探し出すもんだ。他人に聞いて、楽しようとしちゃいけないよ。嬢ちゃん本人に聞いて確かめるんだね」
女将さんの言葉は、耳に痛かった。楽をしようとするな、というところが特に。
「この程度の骨折りじゃ、まだ足りないって? これ以上すると、全身複雑骨折で死んじゃいそうだよ」
軽口を叩いて誤魔化そうとしたけれど、我ながら冴えていないと思った。誤魔化そうにも、誤魔化せなかったことは女将さんにも伝わったようだ。
「だったら、死ぬ気でやりな。死んでもいい、という気概を持ってぶつかりな。悩むのはそれからだね」
軽くあしらうように言われてしまった。




