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35 お疲れ様

 『女神の抱擁亭』は冒険者ギルドだが、夜は一般人も出入りする酒場になっている。マスターの言葉通り、数組の客は皆酔いが回っているらしく、僕が下りてきたことを気にとめた者は居ない。カウンター席に座ると、待っていたようにマスターがビールの入ったジョッキとつまみのチーズを出してきた。

「私も少し飲ませてもらおうかな。昼間は大変だったね、おつかれさん」

 マスターも小さなコップに自分の分のビールを注いで、杯を掲げる。仕方なく、僕も出されたジョッキを差し出して、乾杯を受ける。マスターはそのままコップのビールを飲み干したが、僕は口をつけずに、ビールの表面の白い泡を眺めていた。

「……なんで、マスターは僕に優しくしてくれるの?」

 個室をあてがってくれたのも、わざわざ部屋を訪ねてきてくれて、連れ出してくれたのも。マスターの優しい行動は不可解だった。

「私が優しいと、何かまずいのかい?」

 面白がるようにマスターが言う。

「だって、僕は屑野郎だよ。同居人に手出しして、それから口止めして、何もなかったことにしようとしていたわけで……」

 エリー達に詰められていた話は、近くにいたマスターにも全部聞こえていたはずだ。僕が酒場の床で打ちひしがれていた理由を知らないはずがない。

 僕が枯れ果てた声で言うと、マスターはからからと陽気に笑った。

「大したことじゃないって。それぐらい、皆経験あるってば」

「なっ……!」

 慰めてくれるわけでもなく、斜め上の返答。面食らって、マスターの顔を見ると、彼は微笑んで僕を見返した。

「まったく、年頃の女の子は手厳しいよね。私たちを、敬虔な修道士と勘違いしているみたいだよ。全く現実を知らないんだから……男なら、誰だって魔が差すときぐらいあるってのにねえ」

「えーと……」

 にこにこしているマスターに、どう相槌を打てばいいのか分からない。無害な山羊のような雰囲気のマスターから、割と過激な発言が飛んできたので驚かずにはいられない。この人ひょっとして、浮気したのかな……そのせいで、娘は居るのに、奥さんの姿が影も形も見当たらないのだろうか……?

「あのー……僕が屑野郎、ってところに関しては、何の疑いもないわけで……?」

 恐る恐る、尋ねてみる。一番否定してほしかったところについて。

 マスターは、きょとんとして僕を見た。何を言っているのやら、とでも言うようにじっと見つめてきた。

 あ、やっぱり、同性から見ても僕って有罪にしか見えないんだ……ま、あのザマじゃそうだよね……と分かってはいても、ちょっぴりせつなくなった。

「あ、ごめん。うん、君は嘘ついてないと思ったよ。……多分」

 とってつけたように、マスターが言った。多分、って慰める気、あるんだろうか。いや、無いよな……全然無いよな……。

「そうですか……」

 僕はため息交じりにつぶやいた。マスターとこれ以上話していると、なんだか傷口に塩を塗り込まれそうな気がしてきた……むしろ、一緒にされたくないというか、同類だと思われたくないというか……。

 なんとなく気まずい沈黙が、カウンター席に流れていた。マスターの厚意はありがたいけど、もう部屋に帰ろうかな……そんなことを思っていると、マスターが咳払いをした。

「君の発言の真偽はさておき……あの女が嘘をついている、ということだけは、はっきり分かったよ」

 周囲に聞かれることを警戒した、抑えた声だった。

 席を立とうかと浮かしかけた腰を下ろした。

「……どういうこと?」

 マスターに習って、声を潜めて聞き返す。

 マスターは、周囲に視線を走らせた。まるで、僕らの会話を盗み聞きされていないか警戒するように。

 客の中に不審な人物が混じっていないか探り終えた後、ようやく彼は口を開いた。

「私はね、職業柄、人を見る目には自信があるんだよ。大体、顔を見て、ちょっと話をすれば、どんな人間なのかは大体見当が付く。本当に誠実な人柄なのか、あるいはそれを装っているのか……だとかね」

 マスターの細い目が開かれた。僕よりもずっと長い時を生きてきた、老獪な目が僕を見た。

「特にね。絶対に信用してはいけない類いの人間は、すぐに分かる」

「マルチェラが……そうだと?」

 時折開かれるマスターの目は、見かける度に身が竦む。普段の温和な雰囲気から想像も出来ないほど、何もかも切り裂いてしまいそうな鋭さと全てを見通すかのような威圧感が秘められている。

 僕の問いかけに、マスターは軽く頷いた。

「昼間のあれは、あんまりにもよく出来た芝居だった、ありゃ素人じゃ騙されるだろうね。完璧すぎて、私みたいな人間には、かえってきな臭さしか感じないけど」

 ひどい出し物を見せられたみたいに、マスターが顔をしかめた。

「分かったんだ……」

 僕はすっかり感心して、つぶやいた。ソフィアも、エリーも、騙された。事実を知っている僕以外、マルチェラの嘘を確信できる人間なんて誰もいないと思っていた。

「信じてくれるかは、知らないけど。昨夜、マルチェラは僕の部屋に勝手に入ってきて、僕を誘惑しようとしたんだ。僕のことを慕っているから、とか言って。肉体関係を迫ってきたのは、僕じゃなくて、彼女の方だよ」

 僕はそっと、マスターに昨夜の出来事を打ち明けた。酒場の片隅でひっそりと話すことはそう難しくなかった。

「ふうん、そう。……それで、迫られたから手を出したの?」

 ビール片手に、にやにやしながらマスターが言った。僕は、マスターを睨んだ。

「出してないってば! 僕は何もしてない! むしろ迷惑だって追い返したよ!」

 マルチェラが嘘つきだと分かってるなら、僕のことはいい加減信じてくれよ! 抗議の叫びを上げると、マスターはくすくす笑った。

「じゃあ、そういうことにしておこう。ま、細部はともかく、君があの女に嵌められた、ってことは間違いないわけだ。私の勘はやはり外れないね」

 マスターは自分の予想が当たっていたことに、満足した様子を見せる。が、やっぱり僕の発言の真偽については、どうやら興味の対象外にしかないようだ。抗議しても聞き流されることは分かったので、諦めよう。

 はあ、とため息をついた。昼間からずっと張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れるのを感じた。忘れていた空腹感が今更のように顔を出した。出されたままだった、手元のチーズを手に取ってかじる。

「まったくさ……今日は災難だったよ。マルチェラの奴、なんてことをしでかしてくれたんだ。家は追い出されるわ、冒険の相棒には次が最後と言われるわ……ふられた腹いせにしちゃ、大げさすぎるよ」

 チーズのついでに、放置していたビールにも口をつける。最初はこの苦みが好きになれなかったが、最近になってようやく味が分かるようになってきた。

 ぶつぶつ愚痴を言いながら、チーズとビールで腹を満たしていると、マスターが不意にぼそりとつぶやいた。

「どうかな。君のことを慕っている、っていうのも本当か怪しいもんだね」

 口の中にあったチーズを咀嚼して、喉の奥に流し込むまで、僕は黙っていた。すっかり口の中からチーズが消えた頃、僕は今になって目が覚めたような気分になった。

「……そうだった」

 あんな美人が、僕みたいな冴えない男に一目惚れするか? そんなわけないと、とっくに僕は結論を出していたじゃないか。なのに、いざ言葉にされると、いつの間にか散々否定したはずのマルチェラの好意を信じ込んでいた。本人が言うのだから、本当のことだろうと無意識のうちに信用してしまった。

 が、彼女の好意の言葉を疑うなら、疑問が出てくる。

「じゃあ、手を出されたなんて芝居はどういう意図でやったんだろう? 下手したら、家、追い出されかねないけど……いや、そもそも」

 脳裏に閃いた考えを、僕は恐る恐る口にした。

「戦争で故郷を失った難民……というのも、嘘……?」

 マルチェラの言葉を今まで疑ってこなかった。無理に彼女の身の上話を強要しなかったし、本人もあまり語ろうとしなかった。

 けれど、これまでにあった違和感を改めて、一つ一つ取り出して検討してみると、ちぐはぐなことばかり。上流階級の出のように見えるけれど、どこで習ったか不明の妙に上手いマッサージ。まるで娼婦のような誘惑の仕方。第一あれだけの美人なら、行く当てなんて早々に決まりそうなのに、酒場の仕事が決まって以来、音沙汰一つない……。

 マルチェラが嘘をついている、というにはどれも決定的な証拠とは言いがたい。あくまで違和感の域を出ない。だが、今更見て見ぬふりをするのはもう出来ない。

「マルチェラは……何者なんだ?」

 僕は今になって、愕然とした。あの美しい顔や豊満な体、鈴を転がしたような甘い声以上のことを、僕は彼女について禄に知らない。一応、一月の間、同じ屋根の下で暮らしたというのに。マルチェラが何を考え、どういうつもりで僕らの前に姿を現したのか、まるで分からない……。

 食事の手が止まり、僕はぼうっと思案にふけっていた。しかしいくら考えても、まるで霞を手に掴むような手応えしかなかった。

「考えるだけ、無駄だと思うね。ああいう類いの人間が何を企んでいるかなんて、わかりっこないよ」

 マスターは一人でちびちびとビールを飲みながら言った。

「君みたいな善良で純情な人間には、想像が及ばないだろうけれど。世の中には、いるんだよ。他人を人間とはこれっぽっちも思っていない、悪意の塊のような……人間の皮を、それどころか天使の皮さえ被った悪魔がね」

 まるでこの世界の秘め事を打ち明けるかのように、マスターは密やかな声でつぶやいた。

 悪意の塊のような、人間の皮を被った悪魔。僕はマスターの言葉を、心の中で復唱した。

 それはどんな存在なのだろうか? 思い浮かべようとすると、教室の中の光景が思い起こされた。悪意を持って笑う、三人の生徒達。僕を笑って何が楽しいのか、理解が及ばなかった。他人に与えた痛みを想像せずに、はしゃいでいられるのが信じられず、まるで彼らが地球で生まれ育った人間ではなくて、別の星で生まれ育った宇宙人のように思われた。

 僕は苦笑して答えた。

「人の皮を被った悪魔、か。……僕にはそいつらを理解できないし、したくもない」

 正直な答えに、マスターは微笑した。

「それがいい。それが分かる人間には、決してなってはいけないよ」

 しかし、柔らかな微笑はすぐに消えた。表情を引き締めると、老獪な瞳をわずかにのぞかせた。

「だが、そういう奴らを見抜き、どうやって対処すべきかだけは身につけておきなさい。何を企んでいるかは傍から見ても分からないけれど、ああいう人間は他人の人生を壊すことに何の躊躇も覚えない。だから、関わってはいけない。さもなくば、君の人生を壊されるよ」

 教え諭すように、マスターが言った。

「……うん」

 僕は頷いた。

 昨夜、僕の自室からマルチェラが出て行った時、その時点では僕は彼女の危険性についてまだ理解していなかった。思っていたよりも謎めいた人物だと思ったけれど、嫌いにはならなかった。

 でも、今日の茶番を通してはっきりした。彼女は僕が大切にしているものをあっさりと壊せる人間なのだ。きっとあの女には躊躇なんて無かっただろう、悪いことをしたとは微塵も思っていないに違いない。そして、もう一度、いいや何度でも同じことを繰り返すだろう……。

「依頼から戻ったら、あいつとはすぐに縁を切るよ。どんな言い訳をされたって構うもんか、二度と僕の前に現れるなって言ってやる」

 昼間のことを思い出すと、今更のようにふつふつと怒りが湧いてきた。

「聞き分けが良くて結構。年寄りの説教をちゃんと聞く冒険者は長生きするよ」

 マスターが唇をほころばせて言った。

「一つお説教を聞いてくれたお礼に、もう一つお説教をしてあげよう」

「一個で既にお腹いっぱいだけど?」

 楽しそうに言うマスターに、僕はげんなりした。

 なんだ、ほとんど一方的に詰られるだけなんてみっともないとか? それとも、迫られたのに何もないなんて、男としてけしからんとか言い出すのか?

 ややあって、マスターは一つ咳払いをしてから口を開いた。

「早いところ、エリー君と仲直りしなさい。彼女は、君にとって必要な人だろ」

 肩肘張って身構えていたけれど、掛けられた言葉は予想とは違った。まるで柔らかく降り注ぐ雨のようだった。声は優しいが、反論を許さないしなやかな強さがあった。

「そりゃ、そうだけど……」

 僕は口ごもった。

「でも、僕は既に一生懸命弁明してるんだよ。言えることはもう、全部言ったつもりだ。それでも……信じてくれなかった。もう何を言っても、僕の言葉が届くとは思えない」

 深いため息が、ひとりでに唇からこぼれ落ちる。ビールのジョッキを手に取ると、ちびちびと口をつけながらぼやいた。

「今更、どうすればいいのさ」

「なあに、大した問題じゃないよ」

 マスターはからりと笑って言った。

「痴話喧嘩ぐらい、どんな夫婦も恋人もどこかでやるもんさ。それも一回や二回じゃ到底済まないよ。この程度納められなきゃ、女性と付き合うなんて出来やしない」

「ばっ……!」

 思いっきり、むせた。飲んでいたビールが変なところに入ったせいで、しばらくまともに喋れなかった。僕が苦しげに咳き込んでいるところを、マスターは特に心配するわけでもなく、にやにやしながら見ていた。

 ようやく咳が治まって、僕は大慌てでまくし立てた。

「ち、痴話喧嘩じゃないって! べ、別に、付き合うとかそういう関係じゃないって、何度言わせるんだよ!」

 一月ぐらい前にも同じ事をマスターに言ったのに、しつこい! 頬が熱く感じるのは、恐らく酒のせいだけではない。

 マスターはすぐに色恋沙汰に話を結びつけようとする。そんなことにはもう、うんざりだってのに!

「ふーん? 君、まだそんなこと言うわけ?」

 が、僕の抗議は鼠が威嚇してきた程度にしか受け取られていない様子。余裕たっぷりの微笑みを見せた後、マスターは急に声を潜めて、周囲をはばかるようにささやいた。

「もし迫ってきたのが、エリー君だったら……君、手を出してたんじゃないの?」

 昨夜のことが……もし、エリーだったら。

 ほとんど反射的に、僕の頭の中でその様が映し出されていた。彼女が、うつ伏せになった僕に覆い被さっていて。布越しに彼女のしなやかな体の感触を味わいながら、首筋に熱を帯びた吐息が掛かる。

 ねえ、あたし、カナタになら。……何をされても、構わないわ。

 そう誘惑する彼女に、僕は……。

 僕は声が出せなかった。熱く感じた頬が、まるで真夏の太陽に晒された鉄板のように、尚更ひどい熱を放ち始めた。マスターの問いかけに対して、石像になったみたいに身動き一つ取れずに、何一つ答えることが出来なかった。

 いつまでも黙り込んだままの僕を待ちくたびれたらしい。おもしろがるように笑った。

「君にだけは……信じて欲しかった、か。……若いねえ」

 マスターは僕に背を向けた。それから、カウンターの奥の厨房の方に歩いていき、やがて姿が見えなくなった。

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