29 和解
マルチェラの気配が完全に遠ざかった後、僕は寝台から起き上がって、扉につっかえ棒代わりに剣を差して開かないようにした。
鍵がないのでその代わりだ。気を抜いたところでまた、マルチェラが戻ってきたら非常に困る。
ようやく、全ての緊張を解いた。今度こそ安心して寝台の上に仰向けで寝そべった。
目を閉じれば、まだ自分の鼓動が聞こえるし、火照りが残っている。それから思い出される、情事一歩手前のやりとりの一部始終。
やばかった。色々と。何だ、あのけしからん乳は。尻も負けず劣らずけしからん。というか全身けしからんことの塊だ。……最高かよ。あれに欲情しない男なんているのか? いや、どんな偉い修行僧だって無理だろう。
自分のことをすごい、なんて感じることはそうそうないけれど、今日ばかりは手放しで自画自賛しても罰は当たらないはず。よくぞ、耐えた。すごいぞ、カナタ。まあ、幸いうつ伏せだったのでなんとかなった節はあるけれど。仰向けだったら、今頃寝台で一人で横になっていないかもしれない……。
もし勢いに任せて、マルチェラと寝ることになっていたら? 想像するだけで恐ろしい。だって、そうなったら恐らく、一夜の出来事では終わらないだろう。上手くいくかはさておき、僕とマルチェラとの関係は変わる。そして、僕とエリーとの関係は恐らく終わる。不誠実な行為に走ってしまったら、僕はもう相棒の前には立てない。
僕は、この世界に人生をやり直すためにやってきた。そして、やり直せたと思っている。無論、それは僕が立派な人物になったとかそういう意味合いじゃない。相変わらず、僕は未熟で、エリーを筆頭に色んな人の助けを借りてようやく日々を過ごしているけれど、それでも理由を付けて苦難から逃げてばかりの自分ではもうない。
苦しいことも辛いことも、お金に困ることも多いけれど、それでも、僕はこの世界での暮らしが好きだ。それはやっぱり、エリーが一緒にいてくれるからだと思う。最初に出会ったときからそうだったように、彼女が僕を多少強引にでも引っ張っていってくれるから、大きく蹴躓かずに今日までやってこれた。
なんだかんだで、あんなことがあってもまだ、マルチェラが嫌いだとは感じなかった。見た目がすごく好みなのは否定しようがないし、思っていたよりずっとくせ者だと分かったけれど、それでも憎みきれない。ある程度は、彼女のことも好きなんだと思う。ただ、エリーとの関係を壊してまで手に入れたいほど好きか、と問われれば、違うと断言できる……。
あれ、と僕は自分の思考に違和感を覚えた。それってつまり、僕が恋人を作るハードルって滅茶苦茶高いのでは?
だって、恋する相手というのは誰よりも大切な人のことだろう。ということは、相手は誰よりも、当然エリーよりも大事にしたい人じゃなきゃだめなんだけど……それってとても難しいのでは?
エリーとは数多の困難を共にし、信頼を共にしてきた。それらを上回って、僕を惹き付ける人なんて一体どんな人だろう? マルチェラ以上の美人ならいいのか? それとも天使のように性格の良い人? いや、そんな相手はそもそも僕には付き合えっこないぞ……。僕の望みはなんだか、ひどく難しいことのような気がする。
となると、僕は一生、独身で恋人もなく過ごす羽目になるのか? それはとても寂しい人生のように思われた。
どこかに、そんな都合の良い女神みたいな人いないだろうか。……いるわけないか。僕には『異世界チート』の大和みたいな生活は送れっこないのだ。
一生独身童貞生活を送ることになるんだろうなと悲しんでいる間に、再び僕は寝入ってしまったようだ。遠くから名前を呼ばれているのが聞こえて、目が覚めた。
声が止むと、なにやら周囲が騒がしくなった。寝起きのぼんやりとした頭に、扉を開けようとして荷物に当たって開かない音がやかましく響く。一回では飽き足らず、外から何度か扉をがちゃがちゃやっているようだ。
また、マルチェラが懲りずに来たな。僕は半ば呆れながら、扉を開けようとしている人物に声を掛けた。
「帰ってよ! 僕はもう君にはこりごりだから!」
ちょっと物言いがきついことは承知の上で、叫んだ。甘い顔をすると彼女はつけあがるから、はっきり言わなければならない。
ぴたりと物音が止んだ。それから、扉の前に立つ人物の声がかすかに聞こえた。
「……え?」
僕の拒絶にひどく驚いているのは、エリーの声だった。
マルチェラじゃない! 僕は弾かれたように立ち上がって、扉に駆け寄った。
「ごめん、勘違いしたんだ! 今開けるから、少し待って!」
消えていたランプを点し、つっかえ棒代わりの剣を退けて扉を開ける。間違いなく、エリーが扉の向こう側に立っていた。
「さっきの……何?」
エリーが決まり悪そうに尋ねてきた。
そうだ、僕とマルチェラの間で何があったか彼女に勘づかれるのはまずい。
「ちょっと、マルチェラと喧嘩しちゃってさ。それで顔を合わせたくなくて」
とっさに嘘をつく。ちゃんと何食わぬ顔が出来ているか心配になったが。
「……ふうん、そう」
エリーが追求する素振りを見せなかったので、恐らく上手くいったのだろう。
とはいえ、詳細を聞かれたらごまかしが難しい。
「中入ってよ。立ち話もなんだからさ」
さっさと話題を切り替えるべきだ。僕はエリーを部屋に手招いた。彼女は少し考えるように目を泳がせたが、結局入ってきた。椅子などこの部屋には無いから、自然に寝台に並んで腰掛けることになる。
「それで、どうしたの? こんな夜中に」
正確な時間は分からないが、窓の外はすっかり深夜の様相である。同居人とはいえ、人を訪ねてくるには本来不適格な時間だ。
エリーはすぐに口を開かなかった。膝の上に置いた手が落ち着き無く、ひっきりなしに指を組み替えている。
早く話してくれ。内心、僕は気が気じゃなかった。一体、何を切り出しに彼女がやってきたのか、全く予想が付かなかった。まさかさっきのマルチェラとのやり取り、筒抜けだったとか? あるいは……僕に愛想を尽かしたので家を出て行く、とか? 早く話すよう促したかったが、堪えて彼女が話し出すのを待った。
エリーのそわそわした手の動きが止まるまで、しばらく時間が掛かった。
「謝りに来たの。夕方、あんたにひどい態度とっちゃったから」
エリーが膝に視線を落としながら、ぽつりと言った。
すぐに、ぴんと来なかった。けれども、さほど時間は掛からずに思い至った。夕食の席、僕がエリーを呼び止めたときだ。確かに、刺々しい対応だった。とは言え、わざわざ夜中に謝りに来るほどのことか?
なんだ、嫌な話じゃなかった。いつの間にか肩に入っていた力が、急速に抜けていくのを感じた。
「別に、気にしてないよ」
僕はなんでもないことのように言った。本当は滅茶苦茶気にしていたことは悟られたくない。
「……そ。なら、いいんだけどさ」
どこか強ばった面持ちだったエリーの表情がほぐれていく。
彼女は深々と息を吐いた。
「言い訳になるけど、最近、ちょっと疲れてるみたいでさ。イライラしてて、あんたに当たっちゃったんだと思う。……ごめんね」
申し訳なさそうに、それから少し落ち込んだ様子でエリーが言う。僕は対照的に上機嫌そのものだった。
「そういう日もあるよ。さっきも言ったとおり、僕は気にしてないからさ。そんなに深刻に考えないで」
自分でも、声が弾んでいるのが分かる。だって、僕はとても嬉しかったのだ。
僕が感じた喜びを、エリーも感じたのかもしれない。彼女ははにかむように微笑んだ。
「……ありがと」
久しぶりに、エリーの笑顔を見たような気がした。
僕たちの間に起こっていたのは、単なる歯車のずれのようなもので、何か決定的な不具合が起きたわけじゃなかった。そのことを確かめ合って、僕らは互いに深い安堵を覚えたのだと思う。
本当に良かった。僕は声には出さず、心の中だけで独り言をつぶやいた。
「ねえ、そういえばさ。夕方、カナタは何か言いかけて忘れたとか言ってたけど……あれ、何言おうとしていたの?」
思い出したように、エリーが言った。
やっべ。僕はぎくりとした。忘れるも何も、最初から何も話題なんてなかったんだけど。
正直に話すか、それか適当にでっちあげるか。最近話すことがなかったから話しかけただけ、と正直に打ち明けても、打ち解けた様子の今なら問題は無いと思う。
だけど。僕は思い出すふりをしながら考える時間を作って、とっさにでっちあげることにした。
「明日、飲みに行かない? ……僕ら二人でさ」
本当のことを言うより、今考えついた案の方が良いと思ったから。
思わぬ提案に、エリーは目を丸くした。
「えっ。そんなお金、どこにあるの?」
真っ先に気にするの、そこ? いいね、とか嬉しいとかそんな反応を僕は期待していたらしい。斜め上の、現実的な反応にちょっとがっかりしたけれど、彼女の問いに答えた。
「そりゃ豪勢に、とは行かないけど……ちょっと飲むぐらいならなんとか出せるよ」
日雇い仕事からちょっぴり前借りすればね、という一言は心の中だけで留めておく。マルチェラが来て経済的に少し楽になったとは言え、決して余裕が出来たわけではないのだ。
エリーが難しげに考える素振りを見せた。それから、僕の顔を盗み見るように、横目でちらっと視線を投げかけてきた。
「……あの人、誘った方が良いんじゃないの?」
ためらうようにエリーが言う。
三人で暮らしているのに、二人だけ抜け駆けで飲みに行くのは気まずい。彼女の困惑の表情からはそう読み取れる。が、僕の答えは決まっている。
「やだなあ。さっき言ったじゃん、僕、顔合わせたくないんだ。マルチェラを呼ぶのは勘弁して」
両手を合わせて、エリーに向かって拝むポーズ。すると、エリーが眉をひそめる。
「ちょっと、喧嘩なんてやめてよ。さっさと仲直りしてよね、家の空気が悪くなるじゃない」
怒ったように言っているつもりなんだろうけど、全然表情も声色も怒っていない。むしろ、ちょっと口の端が微笑んでいるようにさえ見える。
「ごめんごめん。それは近日中にどうにかするよ。君には迷惑掛けないからさ。……でも、とりあえず」
軽い調子で謝った後、僕はエリーの黒い瞳をちらりと伺う。
「明日はエリーと二人で飲みたいな。……だめ、かな?」
僕は慎重に彼女の様子をうかがった。断られまいかと不安で、少し緊張した。
エリーは即答しなかった。考えている表情には、迷いがあった。多分、お金とかマルチェラに対する遠慮が彼女を悩ませているのだろう。
しばらくして、彼女は悩むことに疲れたのか、大げさなぐらいため息をついた。
「あんたに奢ってもらう約束のお酒、あと二十ぐらいあるものね。仕方ないから、減らす機会をあげるわ」
憮然とした、でもどこか嬉しそうな顔でエリーがぼやく。
「二十杯も奢るなんて約束してないけど? 勝手に水増ししないでくれる?」
僕も、承諾が出た喜びをなんとか押し隠しながら、彼女の軽口に応じる。すると、エリーが口元をほころばせて答えた。
「はあ? あんたこそ勝手に減らさないでよ。杯じゃなくて、樽。二十個の樽!」
荒唐無稽なことを言うエリー。さすがにそれは言い過ぎだと彼女も思ったらしい。言った直後に、しまったという風に表情が変わる。
これはチャンス。絶好のやり返すチャンスだ。
「じゃあ、僕は今後、君に樽単位で奢らないといけないわけ? そうしないとどれだけ奢ったか分からなくなるもんね? なるほど、じゃあ一樽奢れるようになるまで、奢りはお預けでいいよね?」
にやにやしながらとぼけると、彼女は照れくさそうにそっぽを向いた。
「……仕方ないから、杯にまけてあげるわ」
珍しく、勝ち星を拾った。