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28 マッサージ

 エリーと仲直りする大したアイデアも出ない内に、疲労と満腹に負けてどうやら寝落ちしてしまったらしい。

 ぼんやりしながら、意識を取り戻したのは、背中に何やら心地よい刺激を感じたからだ。肉体労働でがちがちに固まった筋肉がほぐされる、心地よい痛み。背中に走る快感に身を委ねたまま、僕はしばらくうとうとしていた。

 で、この心地よい刺激の正体は何なのだ? 不意に疑問がよぎり、僕はようやく覚醒した。誰か、居る。

 恐る恐るうつ伏せの頭を持ち上げて振り返ると、青い瞳と目が合った。

「おはようございます、カナタさん。お加減いかがですか?」

 マルチェラが微笑んでいた。寝台のそばに立って、僕の左肩甲骨の辺りをマッサージする手を一端止めた。

 ……え? どういうこと?

 夕食後に寝台でうつ伏せで倒れていて、起きたら何故かマルチェラがいて、マッサージされている。

「あの……なんで君、こんなことしてるの?」

 寝そべった姿勢のまま、頭を後ろに向けて尋ねる。するとマルチェラは悪戯な妖精のように笑った。

「あら、やだ。もうお忘れになったのですか? 後でお部屋に伺いますと申し上げたではありませんか」

「いやいや、待って」

 マルチェラが悪びれずに言うので、僕は慌てて言葉を遮った。

「僕は、いいよとも、頼むよとも、とも言っていないんだけど?」

 そういえば、さっきは途中でエリーに気を取られて、最後まで断りの言葉を言えていなかった。確かに僕の落ち度ではある。

 けど、ちゃんと抗議しなければ。僕は心を鬼にして言った。

「いくら同居人でも、勝手に部屋に入ってこられるのは、嫌だよ」

 一応、鍵がかからなくてもここは個人の部屋なのだ。屋根裏部屋をあてがわれたマルチェラ含め、三人それぞれ自室があるけれど、相手の了承無く足を踏み入れないのは暗黙の了解だ。緊急時は確かにやむなしとは言え、どう考えても今回はそうではない。

「申し出はありがたいけど、今日は自分の部屋にもど……」

 戻ってくれ、と僕は続けようとした。が、またしても、言えなかった。

「この辺り、すごい凝ってますね」

 マルチェラの手が僕の肩甲骨の一点をぐりぐりと刺激した。

 途端に、電撃が走るかのように、心地よい痛みが走る。そこは一番、疲労感を覚えていたところだ。ちょうど良い痛みと気持ちよさに、言いかけた言葉が吹き飛んで、代わりに「ふにゃ!」と言葉にならない悶絶の声が出た。

 マルチェラが声を上げて笑った。

「こっちもすごいですよ」

 次は、腰の一点をぐりぐり。それもまた「ほげ!」と僕は悶絶する羽目になり、その次は太もも、ふくらはぎ、足の裏……と全身のツボを押された。押されるたびに変な声が出て、ほとばしるイタ気持ちいい感覚の洪水に押し流された。

 気づけば、マルチェラはまた肩甲骨からもみほぐすようなマッサージに戻っていて、僕はその心地よさに浸りきっていた。自室に帰れ、と促すつもりはどこへやら、まるで酩酊したときのような浮遊感に包まれていた。

「君、すごくマッサージ上手いね……」

 マルチェラの手がくれる快感にすっかり身を委ねながら、感心して僕は言った。マッサージなんて前世も込みで受けたことがなかったけれど、これほど気持ちいいものだとは知らなかった。

 彼女が鈴を転がしたような声で笑った。

「お褒めいただき、ありがとうございます。ね、自信があると言ったでしょう?」

「そうだね……。誰かに習ったりしたの?」

 こんなに気持ちいいマッサージは素人には出来ないだろう。僕は何気なく尋ねた。

「ええ、まあ……」

 彼女にしては珍しく、返事の歯切れが悪いような気がする。あまり詳しく話したくなさそうな様子だ。

 マルチェラは王都に流れてくるまでの生活について、自分から多くは語らない。辛うじてティエンヌとの国境付近のとある街出身で、裕福な商家の生まれだとは聞いたが、

それ以上のことは何も知らない。家族構成だとか、何を商っている家なのか、あるいはマルチェラはどんなドーノを所持しているのか、だとか……本人が語ろうとしないことを、わざわざ掘り起こそうとは思わなかった。

 しかし、そういう裕福な家柄の出身の子女が、マッサージを習う事なんてあるんだろうか? 僕はふと疑問に感じた。一年間、この世界で暮らして、庶民の風俗について大分身についたけれど、上流階級の暮らしについてはよく知らない。それでも大雑把なイメージに過ぎないけれど、なんだか違和感があるような……。

 快感に押し流されるばかりでなく、少し慣れが出てきて、ようやくまともな思考回路が動き始めた頃だった。

「ちょっと失礼しますね」

 マルチェラが突然、靴を脱いで寝台に上がってきた。何事だろうと顔を上げて後ろをちらと見たときには、彼女は僕の体をまたいで、腰をそっと下ろした。

 僕が体を強ばらせ、びくりと反応すると、彼女はさりげない口調で言った。

「ごめんなさいね。こうしたほうがやりやすいので」

 彼女の言葉は確かに一理あって、僕の右手側は壁に面していて、左側をマッサージする時と同じように寝台のそばに立って行うというのが難しい。おまけに寝台は狭いので、僕の腰の上で馬乗りになる、というのは理にかなっている。理にはかなっているけれど……。

 ぴったりと密着した彼女の体を感じる。柔らかさと張りを両立させた太ももに、温かい人肌のぬくもり。おまけにまたがられているので、簡単には逃げられないこの状況。

 再びうつ伏せにした顔が火照りだした。密着した肌から、僕の心臓がバクバクと激しく音を立てているのを知られそうな気がした。マルチェラの手が僕の体の左側をマッサージし始めて、ツボを刺激したり、ほぐしたりする快感が再びやってきた。しかし、今度はその心地よさに身を任せきることが出来ず、腰に乗っている彼女の体を意識せざるをえなかった。

 ずっと同じ状況が続いていたなら、まだ慣れることが出来たかもしれない。でも、マッサージをしている手が不意に、指先をすっと背中に滑らせたり、僕の腰や手の甲を優しくなで始めたり……揉みほぐしているとは思えない動作が入り交じり初め、次々に彼女を意識することが増える。

 そうしている内に、マッサージによる快感よりも、徐々にマルチェラの身体に対して意識が向いてきた。熱に浮かされたように、頭が重く、ぼんやりとしてきた。

 そんな頃合いを見計らったように。マルチェラが、不意に僕の背中に覆い被さってきた。

 僕の抵抗を封じるように、彼女の華奢な指が僕の指の間に差し込まれている。首筋には、熱を帯びた甘い吐息がかかった。そして、何よりも強烈に存在感を主張するのは、背中の上で潰れている胸の感触。柔らかな弾力とずっしりとした重みを、僕は余すところなく感じていた。

 もはや何も考えられなかった。頭が真っ白になって、指先一つ自分の意志では動かせなかった。ただただ、早鐘のような鼓動の音を聞きながら、マルチェラの身体の感触を受け取るだけの存在と化していた。

 彼女の吐息が耳へ掛かった。唇が耳朶に触れるような距離で、ささやき声が聞こえた。

「私は……あなたのことをお慕いしております。路地裏で助けていただいたときからずっと……好きでした」

 艶を帯びた、耳がしびれそうなぐらい甘い声。

 同時に、布越しになまめかしい動きがはっきりと伝わってきた。彼女が僕に体を擦り付けるかのように、腰をくねらせている。

 再び、マルチェラの甘い声が耳朶を打つ。

「ねえ。私、カナタさんになら。……何をされても、構わなくってよ」

 彼女の言葉と動作が暗示する行為に、緊張と興奮で僕の全身から脂汗がにじんだ。今にも意識が飛びそうなぐらい鼓動が早まり、息をするのも苦しいぐらいだった。

 この場面で、僕がマルチェラに求めること。そんなこと、たった一つしか無い。まるで喉が渇ききったときに水を求めるように、強く欲していることがある。

 彼女は僕の望みを受け入れる、と言っている。ほのめかし続けていた好意をはっきりと言葉にして、拒絶するどころか、むしろ僕が欲望を素直にぶつけてくるよう煽り、誘っている。

 でも、それは……。

 僕は、首がちぎれるのではないかと思うほど力を込めて……首をかすかに横に振った。

「いや……遠慮するよ」

 血反吐を吐く思いで、喉の奥から声を絞り出して答えた。

「僕は……間違っても、君につり合うような人間じゃないから。止めておくのが……お互いのためだよ」

 欠片のように残った、僕の理性が欲望のままに行動することを拒んだ。

 いくら、彼女が許可したと言っても、僕に好意があると分かったとしても。僕も彼女の好意に応えると覚悟を決めない内は、求められても応じてはならない。

 だが、僕の断固たる拒絶をどこかあざ笑うように、マルチェラがくすくすと笑うのが聞こえた。

「あら、カナタさんったら、お堅いのね。そういうところも、私、大好きですわ。……でもね」

 マルチェラが声を落とすと、僕の耳に、産毛が逆立つような、寒気に似た、しかし蠱惑的な背徳感を帯びた刺激が走った。熱くぬめる舌に艶めかしくなぶられた耳から、全身に彼女の色気に犯されていくような心地がした。

「私、自信がありますのよ。マッサージだけじゃなくて……これから、カナタさんに好きになってもらうことも」

 マルチェラの妖艶な声に、再びぞわりと体が刺激される。

「だ、だめだってば……」

 僕は首を絞められたかのように、弱々しく呻いた。

「君が僕に誘っていることは……好きになってもらうためにやることじゃないよ。それは……お互いが本当に好きな人同士じゃなきゃ、だめなことだよ」

 いかにも青臭くて、口にするのは少しはばかられた。それでも、僕は言わざるを得なかった。実際に誰とでもするようなものじゃないって、思っていたから。

 僕は真剣に彼女に応えたつもりだった。だが、マルチェラはそうは受け取らなかったのだろうか。僕の耳に舌を這わせるのを止めると、唐突にけたたましく笑い始めた。

「そんなこと仰るなんて、本当に可愛い人。ああもう……そんな頑なだなんて、余計に、欲しくなるじゃありませんの」

 僕の体の上に座り込んだまま、全身を揺らして笑っている。壊れたオルゴールのようにいつまでも笑い続けるように思われたが……唐突にぴたりと声が止んだ。

 僕が突然訪れた静寂に驚いていると、再び覆い被さられ、マルチェラの声が僕の耳元でささやいた。

「ねえ、随分こらえているんでしょう? 大分苦しいんじゃありませんの? いい加減……楽になりませんか?」

 耳に掛かる、なま温かい吐息。全身が痺れるような甘い声。背中で潰れる柔らかい胸。

 随分こらえているし、大分苦しくもある。そう、僕はさっさと楽になりたい。体に貯まり続けた熱と興奮を吐き出したい、そういう欲求で頭がくらくらしている。

 マルチェラの言葉は、間違いなく正しい。彼女の体に興奮も欲望も抱いている。彼女の提案にだって、本当は乗りたい。今まで味わったことがない行為をやってみたいとも、心ゆくまで味わってみたいとも思っている。だって、僕は紛れもなく、男なのだから。こんな理想の美人を好きにできるなんて、天上の宝を授けられたようなものだ……!

 それでも、僕は抗っている。彼女の好意につけ込んで、不誠実な行動は取るまいと懸命に堪えている。それは、自分の中にある、さっき青臭いと笑われたプライドを守るため。そう、それともう一つ……。

 混沌としたマルチェラへの欲望の海に、まるで一筋の光が差すように、別の感情が閃いた。

 それは一週間前から、禄に口を利いていない相棒に対してのものだ。

 僕はエリーに、マルチェラに不誠実を働いたと軽蔑されたくはない。例え、エリーに知られることがなかったとしても過ちを仕出かしてしまったら、自分には彼女に会わせる顔なんてないと感じるに違いない。

 絶対に、嫌だ。それだけは、何があってもごめんだ。僕は相棒に対して、恥じるような自分にはなりたくない。

 二つのプライドを杖にして、僕は煮えたぎるような興奮と欲望を振り払い、言った。

「自分の部屋に帰ってくれ。……もう、迷惑だよ」

 沈黙が訪れた。一切の言葉が飛び交わず、早鐘のような自分の鼓動の音ばかりが支配する世界。

 ふいに、背中が軽くなった。ぴったりと密着していた体が離れ、柔らかな胸の感触も、あたたかな人肌のぬくもりも遠のいた。

 ようやく戒めが解けてのろのろと体を起こすと、マルチェラは寝台を下りていた。

「強情な人。私、とっても傷つきましたわ」

 目が合うと、彼女はすねたように唇を尖らせてみせた。

 どうやら、峠は越えたようだ。僕はほっと胸をなで下ろした。

「……そう。慰める気は無いからね」

 先手を打つように言うと、マルチェラはあからさまに不機嫌そうに、派手な足音を立てて扉に手を掛けた。

 扉の前に立つと、彼女は青い瞳で僕をまた見つめていた。熟れた果実のような唇には微笑みがあった。

「構いませんわ、おやすみなさい。……愛しい人」

 それだけ言い残すと、足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

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