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26 三人暮らし

 マルチェラはすぐに酒場の給仕の仕事を見つけた。

 依頼を干されている冒険者の僕とエリーよりも、酒場で人気者となった彼女の方が稼ぎが良いぐらいだった。一人で部屋を借りられるように貯金を勧めているのだが、僕らに世話になっているのだからと言って、マルチェラは惜しげも無く、僕らにお金を渡すか、食べ物に換えて食卓に並べてしまう。部屋の貸主でさえなければ、どちらが養っているのだろうかと訝るような状況だった。

 同居人が一人増えた、新しい生活は表面上は穏やかに過ぎていった。

 あくまで、表面上は。



 マルチェラが僕らの家にやって来てから一ヶ月が経過した頃だった。

 その日、僕は商館での荷下ろしの仕事を終えて家路につくところだった。冒険者としての依頼になかなかありつけないので、戦争勃発後からはこうして日雇い仕事に精を出す日が増えたのだ。

 一日中、馬車から重たい荷物を上げ下ろしするので、肩や腰を筆頭に全身疲れ切っていて、それからお腹に穴が空いてるんじゃないかと思うほどに空腹で、一刻も早く夕食を取って、そのまま寝台に寝そべりたいはずだった。そうなれば家に帰りたくなるのが自然なはずなのに、家路へ向かう足取りは異様に重たい。三階の自宅へ上がる階段が、雲に届くほどに高い塔のように感じられた。

「……ただいま」

 気乗りしないが、玄関のドアを開けた。すると、明るくて高い声がまっさきに返ってくる。

「おかえりなさい、カナタさん!」

 弾むような足取りで姿を現したのは、給仕仕事から先に戻っていたマルチェラだった。輝くような笑顔を僕に見せ、そのままリビングに進む僕に歩調を合わせている。

「お仕事、お疲れ様でした。お食事はもう用意してありますから、どうぞ」

「ああ、うん、ありがとう……」

 僕は生返事を返しながら、席に着いた。

 テーブルには既に夕食の準備が整っていた。パンと野菜と少しばかりのベーコンが入ったスープ、それから皿にはチーズ。

「チーズは酒場のご主人が譲ってくださったんです。遠慮せずに食べてください」

 マルチェラが屈託のない笑みを浮かべて言う。彼女が来る前と比較すれば、豪勢といっても差し支えないような食事内容だ。そのまま飛びついて貪り始めても何らおかしくないはずなのに、僕はぼうっとスープから立ち上る湯気を眺めていた。

 そうしているうちに、玄関から声が聞こえてきた。

「……ただいま」

 エリーの、疲れ切った声だった。

 彼女もまた、僕と同様に冒険者家業で稼げないので、日雇い仕事に精を出している。この部屋を借りている大家が一階で商店を営んでいるのだが、その手伝いにほぼ毎日出掛けているのだ。

「おかえりなさい、エリーさん。お食事は既にできあがっていますよ」

 マルチェラがエリーに声を掛ける。

「ありがとう。助かるわ」

「後、洗濯や水汲みも全部終わってますから」

「悪いわね。あたしのドーノが使えたら、もっと楽だったんだけど……」

 エリーが硬い声で答える。重たい水を三階まで運ぶのは重労働だ。エリーのドーノを生活用水に当てられれば楽なのだが、ちょっと事情があって使えないのだ。

「いいえ、構いません。大したことじゃありませんから」

 マルチェラはさりげない口調で言う。

 玄関からエリーがリビングに入ってくる。だが、僕の方を見もしないで、彼女は所定の席に着いた。

 僕は湯気を見つめたまま、言った。

「……おかえり」

「……ええ、ただいま」

 まるで返事をするのを躊躇うような声だった。こんな形式的なやり取りでさえ。

 三人で囲む食卓では、ほとんどマルチェラが話した。今日、彼女の仕事先で起こったことや酒場の客から聞いた話を主に話題にし、僕がそれに相槌を打つ形で会話が進んでいた。

「カナタさんはどうですか? 荷下ろしのお仕事は、大変でしょう?」

 マルチェラの仕事の話が一段落すると、僕に話題を振ってきた。僕は少し緊張しながら答えた。

「まあね。重たい荷物の積み下ろしばっかりだから」

「そうでしょうね。ご苦労様ですわ」

 マルチェラが労いを込めて言う。

「そんな重労働が続くようじゃ、体も大分お疲れなんじゃありません?」

「うん……肩も腰もパンパンで辛いね」

 答えながら、パンをちぎって口に運ぶ。どうして僕にばかり話しかけてくるんだろうと思いながら。

 すると、マルチェラが一旦食事の手を止める。スープの匙を置くと、その青い瞳で僕の顔にじっと視線を注いだ。

「ねえ、カナタさん。そんなにお疲れなら、私、少しお体を揉みほぐして差し上げましょうか?」

 マルチェラが放ったのは、ありきたりとは言えない言葉だった。僕は思わず、口に入れようとしたパンを行儀悪くテーブルの上に取り落とした。

「……へ?」

 聞き間違い? ぽかんとしていると、マルチェラが僕に微笑みかけた。

「肩や腰だけじゃなくて、背中や足にも来ているんじゃありません? 全身、丹念に揉んでさしあげますわ。きっと楽になりますよ」

 彼女の屈託のない柔らかな微笑みから、釘で打たれたかのように目が離せなかった。

 全身を丹念に揉まれる、なんてされたことがない。しかも物凄い美人から、なんて。彼女の、絹のように繊細で柔らかそうな手で、肩や背中に腰を触られたら……どんな感触がするんだろうか。

 脳裏にその感覚を想像して描き出そうとして、僕は慌てて打ち消した。

 いやいや、変な想像を膨らませるのはいかがなものか。そりゃ、まずいだろう。

「や、あの、マルチェラ。それは……その……」

 下心を持ってしまうぐらいなら断れ、僕。自分を叱咤するが、生憎僕の口はじれったくなるほどしどろもどろにしか言葉を発しない。

 が、僕が結論に到達する前に、マルチェラが遮ってしまった。

「あら、心配なさらないで。私、結構自信がありますの。後でお部屋に伺いますわ」

「え? いや、あの……」

 いやいや、最後まで話を聞いて欲しい。僕が焦りともどかしさと共に口を開こうとすると、がた、と席を立つ音が響いた。

「ごちそうさま」

 食事中一言も口をきかなかったエリーの声だった。立ち上がると、自分の食器をまとめる。まだ少し、食器にスープやパンの欠片が残っているにも関わらず。普段の彼女なら、綺麗に残さず食べるのに。

 台所に向かう足音が、嫌によく響く。まるで苛立ちを拳に叩き付けるみたいに、ブーツの踵が床を叩いてるように聞こえた。

 エリーの機嫌の悪さだけは、手に取るように分かった。どうして、だとかそんなことを考える間もなく、僕は弾かれたように声を掛けた。

「エリー」

 彼女の名を呼んだ。ただそれだけなのに、ずっと昔の忘れかけていた習慣を突然再開したような、ぎこちなさを感じた。

 台所に向かいかけたエリーが足を止める。

「何?」

 目線すらこちらに向けずに言う。声には冷ややかな苛立ちさえ感じられるような気がした。

 僕は思わず、ひるんだ。

「……ごめん、何言おうとしたか忘れた」

 とにかく話をしたかっただけで、初めから話題なんか考えていなかった。これ以上話を続けられる自信が僕にはなかった。

 エリーはちらっと僕を一瞥した後、まるで何事もなかったかのように、再び台所へ向かって歩き出した。しばらく洗い物をする水音がして、リビングに戻ってきた彼女は自室へ直行してしまった。

 多分、このまま朝まで閉じこもって過ごすもだろう。朝、僕たちは出かける時間が各々ばらばらなので、次に顔を合わせるのは翌日の同じ時刻になるだろう

 となると、今日、僕とエリーが交わした会話は儀礼的な挨拶のやり取りぐらいしかまともにしていない。その状況がもう一週間続いたことになる。それどころか、なんだか険悪な雰囲気にまでなってしまった。

 彼女の姿が消えた後も、僕はエリーの部屋の扉をじっと見ていた。何かの拍子に、彼女が再び姿を現してくれるのではないかと思って。だが、しばらく待ってもエリーの姿がもう一度現れることはなかった。

 何を期待しているのだろう。僕は自分が馬鹿馬鹿しくなった。待っていたって出てこないことぐらい、分かるだろうに。

 自分に呆れて、ようやくエリーの部屋に視線を送るのを止めた。明日、会ったときにとりあえず謝ろう。よく分からないけど、彼女は何かに腹を立てているみたいだから……そう思いながら、食卓に視線を戻すときに気づいた。

 マルチェラの青い瞳が、僕をじっと見つめていた。多分、僕がエリーの部屋を未練がましく見ていた間中、ずっと。ほんの少し目を細めて、唇にはどこか幸福そうな微笑みさえ浮かべて。

「……えっと。僕の顔に、何かついてる?」

 僕がぎこちなく声を掛けると、マルチェラは微笑を浮かべたまま、まるで羽毛のように柔らかな声で言う。

「いいえ。……ただ、見ていただけですよ」

 彼女の青い瞳は、未だにまっすぐに僕の顔を捉えていた。まるで、魅入られでもしたかのように。

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