21 女王の使命
フォルツァ王国の王都の中心には、国を統べる王が代々住まう城があった。二百年もの歴史を刻んだ立派な城は、周囲に広がる市街地を睥睨するかのように高く聳えていた。
王城の中でも一際高い尖塔のバルコニーに、一人の若い女の姿があった。一見すると地味で簡素な作りの、だが最高級の素材と国内でも有数の職人の手による白のドレスを身に纏っている。青ざめて見えるほど白く透き通った肌に、憂鬱に沈んだ深い緑の瞳は、まるで女を血の通わぬ彫像のように、可憐で美しくもどこか冷めたく見せていた。
空には分厚く雲が垂れて込めており、大粒の雨が激しく地上に降り注いでいた。当然、女が立つバルコニーも容赦なく雨に晒され、突き出した屋根の下に立つ女にもわずかながらも雨粒が及んだ。
女の真後ろには、バルコニーと室内を繋ぐ豪奢な扉があった。音も無く扉が拳一つ分ほど開き、その隙間から人間の声が漏れ聞こえた。
「陛下。お体を冷やさぬうちに、部屋にお戻り下さい」
恭しい臣下の声が、陛下と呼ばれた女ーーフォルツァ王国女王カテリーナ一世に掛けられた。
だが、女王は振り返る素振りさえない。石のようにその場で立ち尽くしている。
「愛する民の嘆きの声が、聞こえます」
女王が愁いを帯びた声で言った。
「例えこの身が雨に打たれようとも、雷に打たれようとも構いません。何があろうと、私は彼らの声を聞かねばなりません」
女王の緑の瞳は、王城の外に広がる下々の民が暮らす市街地へ向けられていた。
フォルツァ王国は長年の宿敵たるティエンヌ王国から宣戦布告を受け、戦争が始まった。かれこれ半年が経つだろうか。直接戦火にさらされてはいないとは言え、王都もその影響は免れなかった。街の活気が以前と比べて衰えているように思われるのは、降りしきる雨のせいばかりとは決して言えなかった。
「民の命と幸福を守ること、それは神が私に授けられた使命なのですから……」
ひょっとすると、女王の眼差しは決して目には映らぬ辺境の地にさえ向けられていたかも知れない。王国全土のフォルツァを愁い慈しむような、深い輝きがまだ年若い女王の瞳にはあった。
「王国全土を覆う戦乱を、早急に終わらせねばなりません。……いかなる手段を用いても」
決意に満ちた声が凜と雨の中、響く。すると、扉の奥から、臣下が微笑したように吐息を柔らかにもらした。
「朗報がございます。使えそうな玩具を発見しました。もしかすると、陛下の望みを叶える一助になるやもしれませぬ」
臣下の声が慇懃に告げる。すると、女王は背を向けたまま口を開く。
「『蛇』よ、それは真ですか?」
「はい。まだ、仔細については報告いたしかねますが……」
「よろしい」
女王が背後の扉を振り返った。その美しい顔には静かな微笑があった。
「非力な私には、あなた方のような存在……表舞台には立てぬ、影の立場からの助けは必要不可欠です。頼りにしていますよ」
女王の微笑には、母のような慈愛を漂わせながらも、大国の王者に相応しい威厳がまばゆい太陽のごとく存在していた。扉の向こう側で、『蛇』と呼ばれた臣下が萎縮したように跪き、頭を垂れる気配がバルコニーまで伝わってきた。
「勿体ないほどに、有り難きお言葉でございます……。地上に舞い降りた天使のごとく、慈愛に満ちあふれ、賢明なる君主よ。貴方に仕えることを許された我が身は、なんと恵まれているのでしょう」
こみ上げる歓喜に酔いしれるように、『蛇』が感極まった様子で答える。
しかし臣下の忠誠に燃える興奮を、女王はさえずる小鳥のような可憐な声で笑った。
「知っていますか、『蛇』よ。天使になろうと決意するなら、悪魔の心さえ持たぬねばならぬことを」
物心つかぬ子供に語りかけるように、女王は言う。
「人を最も慈しみ深い存在に変えるのは、愛です。ですが、同時に人を最も残酷で冷酷な存在にするのもまた、怒りでもなく憎しみでもなく、愛なのですよ……」
女王の顔に密やかに浮かんだ微笑は、天使のように可憐であり、同時に悪魔のように謎めいていた。
「……承知いたしました」
落ち着きを取り戻した口調で『蛇』が答える。まるで、女王の微笑に気圧されたかのように。
扉の奥で、跪いていた『蛇』が立ち上がる音がした。
「陛下への忠誠は永久に。例え天上の国であれ、例え地獄の果てであれ、どこまでもお供しましょう」
恭しく告げ、足音が遠ざかっていく。臣下が立ち去ったのを確認すると、再び女王は城の外へと視線を移し、戦火に喘ぐ民草への想いを巡らせた。
雨は一向に止む気配を見せない。当分の間、王都を覆う厚い雲は晴れそうになかった。




