2 冒険者ギルド『女神の抱擁亭』
冒険者ギルドはすぐ近くにあった。走って女の子に追いついたときにはもう到着していた。女の子は一度だけ振り返って、僕付いてきていることを確認してから、ジョッキが描かれた看板が下がっている店の扉を開いた。看板に書かれた文字は明らかに日本語ではなかったが、『女神の抱擁亭』と書かれていると読めもしないのに理解できた。
おっかなびっくり僕も女の子の後に続く。すると、軽やかな鐘の音に引きつづいて、元気のいい少女の声が聞こえてきた。
「いらっしゃい! おや、見ない顔。新入りさん?」
栗色の髪をポニーテールにし、エプロンを着けた少女が愛想の良い笑顔で出迎えた。僕を先導してくれた女の子の冷たい美貌とは違って、明るくて活発な雰囲気の少女だった。なるほど、ギルドの受付嬢という奴か。
年齢的には僕と大差なさそうだ。立派に働いているんだなあ、なんて感慨を覚えていると、黒髪の女の子が口を開いた。
「そうよ。冒険者として仕事を始めたくて」
「なるほど。……二人は一緒に組んでるの?」
受付嬢がちらりと横目で僕を見た。
え、どうなんだ? 助けを求めて、黒髪の女の子の方を振り返った。
「店に入ったタイミングが一緒だっただけ。つまり、単なる赤の他人」
そんな冷たい言い方しなくても……と思ったが、迷子のところを拾ってもらっただけと訂正しても、格好悪いだけなので黙っておこう。
「あら、そう。まあいいけど。……じゃあ、名前をそれぞれ聞かせて? ちなみに私はソフィア」
「あたしはエリー。あんたは?」
黒髪の女の子……エリーが短く答えて、僕に水を向けた。
そういえば、僕の名前ってなんだっけ? まるで何年も昔の記憶みたいに、すぐに思い出せなかった。大慌てで頭をフル回転させて、答えるまでに一秒はかかった気がする。
「僕は……彼方」
名字がちょっと思い出せなくて、とりあえず下の名前だけ答えた。
すると、エリーと受付嬢のソフィアはそれぞれ不思議そうに首を傾げた。
「カナタ……? 随分変わった名前ね、出身はどこ?」
エリーが珍しげにつぶやく。何も考えずに本名を答えたけど、この世界ではどうやら馴染みの名前ではないらしい。まあ中世ヨーロッパに近い世界みたいだし、そりゃそうか。
出身は? なんて聞かれてもなんて答えりゃいいんだ? 現代日本から異世界転生しました、なんて言って納得してくれるようにはとても思えない……。
気まずく黙り込んでると、ソフィアがパンパンと手を叩いた。
「腕が良ければ、素性は問わないのが、冒険者の掟だよ。お尋ね者は除くけどね」
ソフィアがいたずらっぽく笑う。さすが、荒くれ者たちの相手をする少女だ。エリーもそれ以上追求するのをやめた。内心で、ほっと一息つく。
「それじゃ、次……二人のドーノを見せて」
何気ない口調でソフィアが言った。
ドーノ? なんだそれ? 見当もつかない……が、ソフィアもエリーも平然としている。二人には当たり前の単語のようだ。
先にエリーが見せてくれれば、推測出来るかもしれない。期待を込めて視線を彼女に向けた。
が、彼女もまた僕の方を見ていて、顎をしゃくった。
「カナタ、あんた先に見せてよ」
「え、いや……その」
「あたし、先に名乗ったでしょ。じゃ、今度はあんたの番」
「う……」
有無を言わせぬ強い口調に、何にも言い返せない。
息苦しい沈黙がその場に広がる。押し黙る僕に、顔を見合わせるエリーとソフィア。
「カナタ、うちは冒険者に深入りしない主義でやっているけれど、さすがにドーノぐらいは教えてもらわないと。このままじゃ、仕事の斡旋は出来ないよ」
ソフィアが困り果てた様子で言う。
「ほら、もったいぶらないで言いなさいよ。それとも、人に言えないような事情でもあるの?」
エリーもたたみかけるように、言った。
二人の、胡乱げな視線が僕に集中する。
このまま黙り込んでいたら、店から追い出されかねない。観念するしかない、仕方が無いんだ、と覚悟を決めて口を開いた。
「ごめん、実は分からないんだ。……ドーノって何……?」
へらへらとおどけて笑って聞いてみる。少しでもこの重たい空気を和らげられるように、と思って。
が、残念ながら逆効果だったらしい。
「ふざけてる? 私も忙しいんだけど?」
ソフィアが冷ややかな声で言う。愛想の良い、人好きのする雰囲気は消え失せていた。
彼女の棘のある視線にたじろいで、僕はたまらず後ずさりした。この場から立ち去れ、と訴える目。お前はここにふさわしくない、と咎める目……。
急に、苦い液体が喉元までこみ上げてきたような気がした。誰かがあざ笑うようにくすくす笑う声が、じんと耳の奥で鳴り響くのを聞いた。
僕はこの嫌な感覚をとてもよく知っている。何度も、何度も繰り返してきて……そして、今もまた繰り返そうとしているのだと悟った。
ぎこちなく持ち上げた口角が鉛のように重たくなって、僕はこびへつらうために笑うのをやめた。険しい表情のソフィアから目をそらす。
震える足が、出口に向かって踏み出した。この場から逃げ出すために。
「ねえ、あんたさ。ひょっとして、記憶喪失なんじゃないの?」
エリーの声だった。
僕はぴたりと足を止めた。
「だから、ふざけてるんじゃなくて、本当に覚えてないだけ。どこかで頭でも打ったのか、それとも記憶を奪う魔物にでも出くわしたのか……何があってそうなったのかは知らない。でも、そうなんでしょう?」
エリーは問いかけるように、僕に言った。
僕は記憶喪失だから、己のドーノについて答えられないのではない。僕はそもそもこの世界にやって来たばかりで知らないから、答えられないのだ。彼女への答えは、「違う」が正解だ。
でも……。
僕は振り返った。もう一度、二人に向き直った。
険しい表情のまま、腕組みしたソフィア。それから、ただ静かにたたずむエリー。
膝が震えた。でも、辛うじてその場に立ち続けることが出来た。
「そうなんだ。ごめん、うまく説明できなくて」
僕は二人に深々と頭を下げた。
「本当に何も覚えてないんだ。ただ、自分が冒険者だったってことだけ覚えていて、それでここに来たんだ。……最初から、ちゃんと言えば良かった」
沈黙が一瞬、訪れた。
「……だってさ」
エリーが、意味ありげにソフィアを横目でちらりと見る。
すると、ソフィアは見せつけるように、深々とため息をついた。
「ま、冒険者に深入りする必要は無いか」
自分に言い聞かせるようにつぶやくと、さっきと同じようにパンパンと手を叩いた。
「ほら、カナタ。顔あげて。他のお客さんが来たら、変な誤解されそう。ちょっと待ってて、鑑定水晶を持ってくるから」
顔を上げると、ソフィアがカウンターの奥に歩いて行く後ろ姿が見えた。
乗り切ったんだ。
異世界で掴んだ、初めての成功を僕はゆっくりとかみしめた。こんな些細な一幕、物語にする価値などなさそうだが、僕とってには十分刺激的な冒険の一つだった。
無論、僕一人で達成したことではないのは、よくよく分かっている。
「……あの、エリーさん。ありがとう、ございました。あと、本当は僕……」
黒髪の少女に向かって、ぎこちなく話しかけた。すると、彼女は唇の前に人差し指を立てた。その先は言葉にするな、と。
「さん付けは結構。あと、お礼は言葉より現物の方でよろしく」
そう言うと、彼女は手でジョッキの形を作ってあおる仕草をした。
彼女は僕よりちょっと年上ぐらいで、日本ならまだ飲酒が禁止されていそうな年齢に見えるけど、この異世界ではそうではないみたいだ。お酒をねだってくる辺り、実は酒豪だったりするのだろうか。
「あ、はい……」
初めての依頼の報酬の使い道が、早速決まってしまった。