14 決意の時
流れ込む記憶の奔流が止んだ。それでも尚、疼くような頭の痛みは止まらなかった。
僕はいかなる人間だったのか。何故、異世界にやって来たのか。無くしていたジグソーパズルのピースを見つけ出し、あるべきところにはめ込んだように、僕はその答えを思い出した。
僕は前世で、多くの未練を抱えて死んだ。人並みの人生を送りたいというささやかな、しかし途方もなく難しい望みを叶えることが出来なかった。そんな不甲斐ない僕は、祖母の助けを借りて、強力な能力を一つ得て、忌まわしい記憶を捨て去り、この異世界にやって来た。
願いはただ、一つ。しくじってしまった人生を、今度こそやり直したいという切実な願い。
前世で何度も繰り返してきたように、困難から逃げようとしたまさにこの時に……僕は、この世界にやってきた理由を思い出してしまった。
僕が過去の回想を終えても、しばらくの間、時が止まったかのように誰も動かなかった。静寂を破ったのは、エリーが空になったシチューの皿を置いた音だった。
彼女は取り上げられていた剣を腰に帯び、弓を背負った。顔と武装を隠すために、マントを纏い、フードを下ろす。
「絶対に助けを呼んできます。それまで少しだけ、待っていてください。……このご恩は一生忘れませんから」
エリーは震える声で言った。まるでこみ上げる感情を押し殺しているかのようだった。
対照的に、女将は茶目っ気たっぷりにウインクを返した。
「あんたは良い飲みっぷりだったね。また、うちにビールを飲みにおいでよ」
「ええ、是非」
エリーはか細い声で答えると、扉の方へ歩き出した。そして、数歩歩いた後、僕を振り返った。
「急いで。……王都まで行くわよ」
旅立つ準備はおろか、座り込んだままの僕を。
声を掛けられても、僕は立とうという気にならなかった。空っぽになった皿と籠を、ぼうっと眺めている。
つかつかとエリーが歩み寄ってくる。ランプに照らされた、彼女の綺麗な弧を描く眉が、苛立ちにつり上がる。
「カナタ、いい加減に……」
「王都からの救援なんて間に合いっこない」
僕の声に、エリーがぴたりと歩みを止める。
「それは……分からないでしょ」
「僕らを差し出さなければ、ゴブリン達はすぐに攻めてくるよ。五百を超える大軍にこの村が襲われたら、ひとたまりも無い」
ここが王都のように堅牢な城壁を持ち、訓練された兵士がいるなら話は別だが、多くの非戦闘要員を抱えた上で、頼りない獣除けの柵と一般人の農夫達で一体どうやって村を守り切ろうと言うのだろうか。
エリーが逃げるように、目をそらした。
「たとえ攻めてこられても……この村がダメだったとしても、余所へ被害が広がることは防げる」
消え入るような声でつぶやく。その言葉に彼女自身も価値を見いだしていないことは明らかだった。エリーはうつむきながら、フードを目深に被り直した。
「あたしだって、ラクサ村も……女将さんも、何もかもを見捨てて逃げるも同然だって分かってる。でも、他にどうしろっていうのよ。逃げる以外に、どうしろと……」
偽らざるエリーの本音だろう。
なら、僕も本音を彼女に打ち明けることにしよう。
「僕は、逃げたくない。……だから、逃げない」
断固たる決意を込めて、僕は言った。
エリーがはっとして、顔を上げる。
「そんなこと言っても、勝てるわけ……!」
エリーが悲鳴のような声で叫ぶ。だが、僕は不思議なことに動じなかった。
「絶対勝てないわけじゃない、と言ったら?」
それどころか、エリーの言葉を遮った。
「ただし、絶対、勝てるとも言わない。そういう策……ううん、これは賭けだ」
エリーは目を大きく見開いた。まるで息が止まったかのように、一瞬黙り込んだ。
「どうしたの? 突然、人が変わったみたい……」
まるで信じがたい光景を前にしたかのように、エリーは呆然とつぶやいた。
「僕は変わりたいんだ。臆病で、逃げてばかりの自分を変えたい。だから、戦う。どんなに勝てる可能性が低くても、何もせずに逃げることだけはしたくない」
僕はきっぱりと答えた。
心が、燃え立つ炎のように熱く滾っているのを感じる。後悔ばかりを積み重ねた前世を、もう一度繰り返したくなどないという誓いが、僕を力強く突き動かしている。
「どう、エリーは乗る? 僕の無謀な賭けに、付き合ってくれるかい?」
僕の賭けは、自分一人で出来るものじゃない。数は多ければ多いほど助かる。何より、優秀な冒険の相棒の協力があれば……百人力に違いない。
エリーは、秘めた決意を推し量るようにじっと僕の目を見た。そして、わずかな時間そっと目を伏せた。
彼女が見せた逡巡はただそれだけ。
「あんたの賭け、乗るわよ!」
力強い返事に、決意に満ちた眼差し。
僕は微笑した。だって彼女なら、間違いなくそう言うと思ったからだ。
僕はようやく立ち上がって、後ろを振り返った。女将さんは、思ってもみなかった方向に話が進んで行ってあっけにとられている様子だった。
「あの、教えてほしいんですけど、この村で一番高いところはどこですか? 村中を見渡せるようなところはあります?」
「ああ、それは……心当たりはあるが」
女将さんが口ごもりながら答えた。僕の質問の意図が分からず、戸惑っているようだ。
該当の場所さえあればいい。僕は構わず話を進めた。
「ではもう一つ。……女将さんの人望を見込んで、できる限りたくさんの人の協力を得たいんです。頼めますか?」
熊のように厳つい外見だけれど、人々に慕われている酒場の女将の顔を僕はじっと見つめた。
女将さんは、僕の問いかけに躊躇わなかった。いかつい鉤鼻をふんと鳴らして、不敵に笑ってみせた。
「ああ、任せな。あたしに逆らうってことは、フォルツァの女王様に逆らうことよりおっかないことだからねえ。やってやろうじゃないの」
頼りがいのある返事に僕は微笑した。