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13 僕の人生

 トラックに轢かれかけていたはずなのに、目を覚ますと、僕は古めかしい板張りの天井を見上げていた。これは自宅の天井ではない。病室の風景でも当然ない。ここはどこだろう? なんだか懐かしく感じて、全く見知らぬところではないような気がする……。

 寝起きのぼんやりとした意識のまま、体を起こすと、懐かしさの正体が分かった。

 身を起こしてすぐ隣にあったちゃぶ台越しに、祖母が座っていた。目が合うと、にっこりと微笑みかけながら言った。

「おや、彼方。随分大きくなったね。おばあちゃん、びっくりしたよ」

 数年前に取り壊されたはずの父の実家、十年前に亡くなったはずの祖母。今は無いはずの家に、もういなくなったはずの人がいる。

「え……?」

 理解が追いつかない。僕はぽかんとして祖母を見返す。

 きれいに手入れされたグレーの髪が、定規を通したみたいに伸びた背筋にかかっている。なによりもあたたかく、おだやかな微笑みは記憶の中の姿と寸分違わない。

 祖母は子供の目にも品がよくて、おしゃれな人に映っていた。父よりも、母よりも慕っていた祖母。心筋梗塞で突然倒れて帰らぬ人になったとき、僕は人生で一番涙を流した記憶がある。

 それでも、会えて嬉しい、というより、なぜここにという驚きが勝った。

「どういうこと……?」

 僕の唇から出た言葉に、祖母の笑顔が曇る。

「彼方、意識を失う前に何があったか覚えているかい?」

「うん……」

 意識が途切れる前に何があったか、はっきり思い出せた。

 ブレーキが間に合いそうにないトラック。目覚めたのは、病院のベッドの上ではなくて、今は無い家で、しかも亡き祖母が出迎えてくれた……。

 すべてを落ち着いてつなぎ合わせてみれば、答えは出る。

「そっか。僕、死んだんだな」

 答えを確かめるように、声に出してつぶやいた。

 祖母は答える代わりに、立ち上がった。

「喉渇いたでしょう、お茶でも煎れましょう。おいしいお菓子もあるから持ってくるね」

 そのまま、襖を開けて廊下に出て行った。台所に向かったのだろう。

 祖母の足音が遠ざかると、急に部屋がしんと静まりかえった。

 僕は、死んだんだ。改めて、自分に言い聞かせてみた。けれども、何の感慨も湧いてこなかった。悲しいとか苦しいとか、強い感情の揺れは感じなかった。

 ろくに前を見ないで飛び出したら、そりゃ危ないよな、何やってんだろう……なんて、他人事みたいな感想なら浮かんできたけれど。

 自分の死に対する感想なんて、そんなものなのだろうか? 考えてみたが、分かるはずも無い。経験者に教えてもらったこともなければ、僕だって初めて体験することなのだ。相場なんて分からない。

 そのうち、襖がすっと開いた。祖母はお盆に急須と湯飲み、饅頭を乗せて帰ってきた。

 湯飲みにお茶を注ぎながら、祖母は言った。

「ねえ、おばあちゃんがいなくなったあと、どんな人生を送ってきたんだい?」

 さりげない口調だった。まるで、最近どう、とたずねる時みたいに。

「う……」

 差し出された湯飲みをぎこちなく受け取る。

 三年前から引きこもりになって、完全な自分の不注意で事故に遭って死んだ。

 こんな悲惨な人生は、慕っていた祖母に十年ぶりに会って、何の抵抗もなく報告できることでは決して無かった。



 僕が家に引きこもるようになったのは、中学一年生の冬からだ。

 小学生の頃から友達は少なかった。人と話すことが元から苦手で、ほんの一握りの友人とクラスの隅で目立たないように過ごしていた。学校はこのときから好きじゃなかった。でも、中学校に進学してからを思えば遙かにマシな暮らしを送っていた。

 引っ越しで、友人も知り合いもいない中学校に転入した。入学式があって、それからゴールデンウィークを迎える頃には、クラスの人間関係はほぼできあがっていた。僕はその複雑な関係図の中に入れなかった。友人一人作れず、浮いてしまった。

 最初は僕も一応頑張ったのだ。隣り合った席の生徒に、勇気を振り絞って話しかけてみたり、グループの会話に相づちだけでもいいから居場所を確保しようと試みたり、足掻いたのだ。でも、僕のささやかな努力が実を結ぶ前に、クラスメイトたちは各々の友人を定め、大小の派閥を作り上げ、クラス内のヒエラルキーを定めた。

 そうしているうちに、僕は教室にいても、いなくてもどうでもいい存在になった。僕がいたって、席が一つ埋まるだけ。休んだって、一つ席が空くだけ。僕が出席している日と休んだ日の光景を、間違い探しとして並べられるなら、違っているのはその一カ所だけ。他には何の違いもない。

 孤独な教室に居続けるのは、勿論つらかった。苦痛だった。

 それでも今になって思えば、まだ幸運な生活を送っていたのだ。誰にも相手されない、幽霊のような存在であったけれども、ただ座席に座って授業を聞いて、休み時間は寝たふりで潰していれば、放課後がやってきた。友人達と部活や遊びに出掛けるクラスメイトの和気藹々とした声を羨ましく思いながらも、自宅に戻って一息つくことが許されていた。いつか、なにかきっかけさえあれば、あの楽しげな輪の中に僕も入ることができるだろうと己を慰めながら……。

 そんなちっぽけな慰めが許されなくなったのは、夏休みが開けてしばらくしてからのこと。

 突然、机の中に入れていた筆箱と教科書がいつのまにやら見当たらなくなった。おかしいなと思って探すけれど、ない。見つからないと授業を受けるのに支障が出るから、隣の席の男子に筆記用具と教科書を借してほしいと恥を忍んで、怖々と話しかけた。

 そしたら、何も返事がない。聞こえていなかったのかな、と思ってもう一度、話しかけた。勇気を出して、少し声を大きくして。

 すると、笑われた。話しかけた男子にじゃない。僕の席の後ろの子達三人がくすくすと、なんだか嫌な響きのする笑い声を上げていた。よくよく見ると、話しかけた男子も笑ってた。笑い声をこらえて、口元だけが笑っていた。

 あ、これ、やばい。そのとき、体が冷たくなるような感覚に襲われながら思ったのはそれだけだった。それ以上のことは何も浮かんでこなかった。深く考えたくなかったから、なのかもしれない。彼らがどうして笑っているのか、理解すべきではないと直感したからかもしれない。

 そのまま僕は黙って自分の席に戻って、休み時間を終えた。教科書を持っていなかったことを先生に咎められて、声をかけた男子とは反対側の生徒に机を寄せて教科書を見せて貰った。放課後になって、教室のゴミ箱になくなったはずの教科書と筆箱を見つけた。

 それから、僕は教室にただ座っていることが怖くなった。ただ漫然と時間が流れるのを待てば良かった頃とは違って、周囲の生徒達の声に敏感になった。ささやき声に、笑い声、ごく普通の会話、全てに悪意が込められているように感じた。教室にいる全員が、僕を排除しようとあざ笑っているように聞こえた。

 僕は何のために学校に通っているんだ? 誰にも求められずに、ただただ椅子をあたためるためだけにここにいる?

 そもそも僕は何のために……生きているんだ?

 自分で自分に問いかけずにはいられなくて、そして問いかけるたびに、胸に大きな穴が開いていくような気がした。

 もし同じようなことが繰り返し起こっていれば、あるいはより一層酷い出来事があれば、耐えかねて先生か家族に相談しようと思い立ったかもしれない。だが、僕の物を捨てても大して面白くもない、と犯人たちは思ったのだろうか。物が無くなったのは、一回きりだった。あれから何も起こっていないにも関わらず、学校に通う度に毎日ヤスリをかけられていくみたいに、僕の精神はすり減っていった。

 中学一年生の冬休みに入った後、僕は学校に通えなくなった。卒業式も行かなかった。行けるわけがなかった。母は学校で何があったの、と何度も僕に尋ねてきたが、何もなかったと答え続けた。僕が学校に行けないのは、誰かが何かをしているせいだとは、嘘になるからとてもじゃないが言えなかった。僕自身のせいだ、なんてもっと言えるわけがなかった。

 家にいても、心が安まる時なんてなかった。空虚な時間を潰すために、漫画を読んでいようが、ゲームをしていようが、今のままじゃだめだ、と叫ぶ声が僕の頭の中に響いていた。朝起きてから、眠るまで、休みなくずっと。

 頭の中の声にせっつかされて、中学三年生になってから勉強を始めた。他に何ができるのか分からなくて、とりあえずそれだけはやった。母はフリースクールや通信制の高校を勧めたが、僕は全日制の学校を希望した。内申点不問の学校を探し出して、寝食を惜しんで受験に備えた。

 受験には辛うじて成功した。合格通知を目にして、これでやり直せるかもしれない、と浅はかにも喜んだのだ。灰色の三年間をなかったことに出来るかもしれない、なんて馬鹿げた希望を本気で抱いてしまった。試験に通った程度のちっぽけな成功体験が、僕を舞い上がらせてしまったのだ。

 蓋を開けてみれば、なんてことはない。中学時代の繰り返しだ。いや、一層ひどかったかもしれない。長い引きこもり生活で、中学一年の頃に出来ていたことさえ出来なくなっていた。誰かに話しかけることどころか、話しかけられても、まともな受け答えさえできなくなっていたのだから。

 幸い、嫌がらせは起こらなかった。だが、居場所のない教室に通い続けることはやはり苦痛でしかないし、またいつ起こるか分からない。

 ゴールデンウィーク明けから、休むことが増えた。六月中旬から高校には通っていない。学校にいかなくなった分、ほとんどの時間を自宅で過ごしている。中学の三年間と何一つ変わらずに。



 僕が答えに窮して、口ごもったことを祖母は察したようだ。

「言いたくなかったら、答えなくていいんだよ。誰しも、言いたくないことはあるんだから」

 祖母はそう言うと、ゆっくりと湯飲みに口をつける。

「うん……」 

 僕はほっとして胸をなで下ろす。僕の悲惨な人生について、誰もが認める立派な生涯を送った祖母に聞かせるなんて恥もいいところだ。

 祖母は祖父には早くに先立たれ、残された会社を大きくしながら、まだ幼かった父を育てた。そのうち今の社会を変えたいと志し、四十代の頃に県議会に立候補。何度も県議会に当選を果たし、最期までたくさんの人に慕われていた。僕が生まれた頃には、すでに引退していたけれど、祖母の自宅に遊びに行くと、いろんな人が入れ替わり立ち替わり訪ねてきたことを今でも覚えている。

「おばあちゃんみたいな立派な人生とは、ほど遠いことだけは間違いないかな……」

 湯飲みの熱いお茶を吹き冷ましながら、僕はぽつりとつぶやいた。

「私は立派な人生なんて送っていないよ。彼方は小さくて、まだ分からなかったかもしれないけど」

 祖母は笑いながら言うと、不意に笑みを消した。

「そもそもの話をするとね、立派な人生だったかなんて大したことじゃないんだよ。そんなことよりも、自分に問いかけてご覧なさい。生きて良かった、と自分自身が納得できる人生だったか、とね」

 なつかしい、祖母の諭す声。父の怒鳴り声よりも、母の涙声よりも、穏やかだけれども深く鋭く染み通る声だった。

 自分自身が納得できる人生だったか? 

 自問してみれば、答えは明らかだ。

 すーっと、頬を水の滴が滑っていく。はっとして、手で拭うと手の甲で涙の粒が光っていた。それで、ようやく気づいた。

 ちゃんと感じていたんだ。僕は、自分が死んだことに何も感じていないんじゃなかった。

 堰を切ったように、涙が次から次へとあふれてくる。こらえようとしても、僕の意志なんかお構いなしにぽろぽろと滑り落ちていく。

「彼方。お前はどうして、今、涙を流しているのだと思う?」

 祖母が静かな口調でたずねてきた。

「僕、生きて良かったなんて、全然思えない。……納得できなかったみたいだ」

 僕はか細い声で答えた。

「やってみたいことがたくさんあったんだ。友達と遊んだり、文化祭や体育会で盛り上がったり、バイトでお小遣い稼いだり、あと……彼女作ってみたり、とか。そういう、普通のこと……全然出来なかった」

 唇が震えた。

「生きてる間、もう僕には出来やしないって思ったんだ。人並みの人生は諦めた、そう納得していたはずだったんだ。僕には出来やしないって、受け入れていたはずなんだ。けど、この様子は違うみたいだね」

 頬を伝う涙を手で拭う。拭ったその手が、ぐっ、と拳を握る。

「だって、納得していたなら、死んでしまったことが、こんなに悔しいはずがない……!」

 腹の底から、煮えたぎるような熱がこみ上げてくる。望んだ生活を手に入れられなかった悔しさ、愚図な自分への怒り、不甲斐なさ……もはやどうしようもないという諦念で自分を塗り固めて、決して吐き出すまいとしていた感情が吹き出した。

 止めどなく涙があふれ、嗚咽がこぼれる。悔しさや怒りが嵐のように、僕の中を駆け巡る。感情の渦に呑み込まれ、ただ身を震わせて、静まるのを待つしかなかった。

 祖母は、じっと僕を見ていた。慰めるわけでもなく、叱咤するわけでも無く、凪の海のように静かな瞳をしていた

 どれぐらい時間が経ったかは、分からない。ただ、湯気を立てていた湯飲みがすっかり冷めてしまうぐらいの時間は経っていたようだ。

 すっかり冷めたお茶を啜り、湯飲みをちゃぶ台に戻すと、祖母は何の前置きもなく、言った。

「もう一度人生をやり直せるチャンスがあるとしたら、ほしい?」

 思いもしない質問に、おもわず祖母の顔をまじまじと見た。

 いつもの、微笑みを浮かべた優しい目ではない。腹の底まで見通しそうな、鋭い目。

 僕は一瞬たじろいだ。けれど、答えは、決まっている。

「……ほしい」

 泣きすぎて腫れぼったい目をこすりながら、僕は答えた。

 祖母はまばたき一つ挟まずに、言った。

「なら、元に戻ってやり直せる自信はある?」

 ある、と即答できたら良かった。

 しかし、残念なことに祖母にも、自分にも嘘がつけなかった。

「……ない」

 喉の奥から声を絞り出して、力なく首を振った。

 人生をやり直せるなら、やり直したかった。でも、やり直せる気はしなかった。

「僕、人と話すのが苦手で、お世辞にも明るい性格じゃ無くて……それから、勉強も運動も得意じゃなくて。何をやらせても、人並み以下。僕はしくじってばかりの人生しか知らない……」

 消え入りそうな声で、僕はぽつぽつとつぶやいた。

「僕はね、何をやってもダメなんだ。失敗を飽きるほど繰り返してきて、もう自分に何かが出来るとは到底思えない」

 力なく、僕は首を横に振った。

「だから、さ。やり直したって、きっと変わらない。いくらやり直したくても、やり直せないよ」

 どうせまた、失敗するんじゃないか。何度挑戦したってしくじる運命にあるんじゃないか。そう思わずには、いられない。

 祖母はまた、湯飲みに口をつけた。じれったくなるほど、ゆっくりとした動作でお茶を飲んで、湯飲みを置いた。

「なら、何か優れた能力が一つでもあれば、それから、しくじってばかりの自分を忘れられれば、彼方は人生をやり直せるのかい?」

「……え?」

 再び、想像もしていなかった祖母の問いかけ。僕は困惑した。

 なぜ、そんなことを聞いてくるのだろう? 祖母の質問の意図が分からない。

 僕が何かおかしなことを言ったから? それとも、他に何か特別な意図がある……?

 訝しんでみたけれど、結局よく分からなかった。

「絶対、うまくいくとまでは言わないけど……ひょっとしたら、そうかもしれない……」

 祖母の顔色をうかがいながら、おずおずと答えてみる。欠片のような希望だけれど、力があって、そして失敗続きの己を忘れられるなら……僕だって流石に変わることが出来るかもしれない。

 僕の答えを聞くと、祖母は唇の端をつり上げ、笑った。まるで、罠に兎がかかったのを見つけたみたいに見えた。

 つまり、かかった兎は僕のこと。見たことがない祖母の不敵な笑みに、ぞっ、と怖気が背中に走った。

 今からでも否定しようか、と思ったけれども、もう遅かった。

「そう。じゃあ……なんとかしてあげる。あなたの望む世界に、行ってらっしゃい」

 目蓋が、急にずしりと重みを増した。目を開けていようとしたけれど、抵抗は意味をなさなかった。

 トラックを前にしたときと同じように、意識がぷつりと消えた。

 そうして、僕は異世界に送られたのだ。

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