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12 現代日本との別れ

 トラックに撥ねられる少し前のことだ。僕はついさっき、書店で購入したばかりの一冊の小説を手に取っていた。家に着くまで我慢しようと思っていたけれど、表紙と挿絵だけでも確認したくなって、書店から出るや否や鞄から取り出した。

 表紙には、青年の主人公と三人の女性キャラクターたちが描かれている。中世ヨーロッパ風の衣装に身を包んで、それぞれ己の得物を誇らしげに掲げている。ページをぱらぱらとめくると、彼らが楽しげに談笑しているシーンや緊迫の戦闘シーンがイラストの中で繰り広げられている。ついつい本文を読んでしまいたくなるが、ぐっとこらえて鞄に戻した。

 今日は、待ちに待ったこの本『チート能力で異世界転生、無双します~二回目の人生、完璧にやり直します~』の発売日。僕が三ヶ月に一度、外出するただ一つの理由だった。

 電子書籍でも買えるけれど、どうしてもこの本だけは紙の書籍で手元に置いておきたかった。紙の書籍でいち早く手に入れたい、となると、通販だと時間は掛かるし、家族に買ってきてくれと頼むわけにも行かないし、自分の足で書店に行く羽目になる。

 外出なんて、本当は心の奥底から気が進まない。自宅のマンションの住人の目は警戒しなければならないし、全く見知らぬ道行く人々さえ、僕にはまぶしい。みんな仕事や学業を抱えていて、大変だけれども充実した人生を送っている……僕なんかとは違って。

 どれだけ夏の日差しが強かろうと、僕のこの鬱々とした気分を明るく照らし出すことはできやしない。狭い自室に籠もれば、目に見えない他人をあまり意識しないですむけれど、この目で直接見てしまえば、嫌でも現実を突きつけられてしまう。

 それでも尚、書店に行くのは、この本は僕にとって特別な小説だから。ただ単純におもしろいから、あるいは、キャラクターが魅力的だから……とか、そんなありふれた理由だけじゃない。この物語は、端的に言えば、僕にとって憧れなのだ。

 『チート能力で異世界転生、無双します~二回目の人生、完璧にやり直します~』こと、通称『異世界チート』の主人公は、大学卒業後、就職活動に失敗して引きこもってしまった青年・大和だ。ある日、久しぶりに外出したところ、暴走するトラックに轢かれて死んでしまう。死後の世界に送られるが、神様が手違いで大和を死なせてしまったことを詫び、中世ヨーロッパ風の異世界へ転生させることを約束する。しかも、優れた天性の能力をいくつも持たせてくれた上で。それはいかなる魔法も使いこなす魔術師の能力であったり、いかなる病も治す薬師の能力であったり、どれも強力無比の力、チート級の能力だ。

 前世では惨めな人生を送った大和だったが、異世界では、誰もがその名前を知る英雄だ。彼が一つ優れた才能を見せると、そのたびに人々は驚きと共に喝采を送る。ごく一部の、性根の曲がったライバルや傲慢な敵が彼の活躍を鼻であざ笑うが、結局は大和の力の強大さに膝を突く羽目になる。そんな彼を女性が放っておくわけもなく、たくさんの魅力的なヒロインたちが次々とやって来て、彼女らに囲まれて暮らしている。

 この作品に対する、いくつもの否定的な感想を目にしてきた。「俺ツエーをやりたいだけの、底の浅い話」だとか、「そんな上手くいくわけない、こんなくだらない話が好きな奴の気が知れない」だとか。出来るだけ触れないように努めているけれど、こういった冷たいコメントはふとした瞬間に目にしてしまい、その度、僕は慌てて目をそらす。自分自身が否定されたような気がして。

 僕だって、人生やり直せるならやり直したい。大和みたいに、過去を捨て、生まれ変わってすばらしい生活を送ってみたい。

 そんなことを大真面目に夢見る僕のことを、インターネットの海を隔てて、顔も知らない誰かが馬鹿にして笑っている。想像するだけで、ふつふつと怒りがこみ上げてくる。放っておいてくれよ! 僕にだって夢ぐらい見させてくれよ! と大声で彼らに向かって叫び出したくなる。

 だから、だろうか。僕がこの物語に人一倍強い愛着を覚えているのは。自分の憧れの夢物語であると同時に、僕と同じ立場の仲間のような気がして……。



 本を鞄に仕舞って、帰り道を歩き出す。一刻も早く帰って、冷房がよく効いた自室でゆっくり読みたい。自然と足が速まる。行き交う通行人の間をすり抜け、早足で先を急ぐ。

 しかし、いくら急いでいても、赤信号に捕まると止まらざるをえない。交差点に面した通行量の多い横断歩道で、僕の他にも二人待たされている。

 一人は買い物中と思われるおじいさん、もう一人は……姿が視界に入ったところで、ぎくりと体がこわばる。僕が所属している高校の制服を着た女子だった。

 普段なら、授業が行われているこの時間帯を狙って外出すれば、制服姿の高校生と出くわすことはない。けど、実際に高校生が歩いていると言うことは、訳あって相対したのかあるいは遅刻したのか分からないが……とにかく僕の目論見は外れたと言うことだ。

 女の子は耳にイヤホンをしていて、僕の存在なんか気にもかけた様子はない。それでも、僕は帽子のつばをぐっと引き下ろして、うつむく。心臓が早鐘を打つのが分かる。クラスの教室で、周囲の喧噪から取り残されて、ただひとりぽつんと座っていたあのときと同じだった。一刻も早く、この場から逃げ出したい。

 拷問のような時間を過ごしていると、視界の端で信号の色がぱっと変わるのを見た。

 顔を上げることさえ、もどかしかった。僕はすかさず、早足で飛び出した。この居心地の悪い空間にとどまりたくなくて。

 とにかく早く家に帰ろう。やっぱり外なんて、出るもんじゃない。

 そう心の中で独り言をつぶやいた、次の瞬間。

 青になった、と思った信号は未だに赤だったことに気づいた。変わった、と思った信号は変わってなどいなかった。

 猛烈なスピードで、トラックが僕に向かって走ってきている。クラクションが耳をつんざくような勢いで鳴って、警告してくれているが、もう遅い。

 間にあわない。

 尻餅をついた僕は、反射的に目を閉じていた。

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