11 地下室にて
「……カナタ、カナタ。……生きてる? ねえ、起きてる?」
隣の部屋から呼びかけられているみたいな声だった。うっすら開けた寝ぼけ眼に、結構な至近距離のエリーの顔が映り、瞬く間に意識が鮮明になった。僕がぎょっとして目を見開くと、彼女は安堵した様子で微笑むと立ち上がった。
「ただの寝坊ね。罰として、一杯奢りなさい」
「あの……僕、何杯奢ることになるの……?」
まだ眠気が残る目をこすりながら、体を起こした。
辺りを見回すと、薄暗い室内だった。酒樽や木箱がぎっしり詰まった部屋をか細いランプが照らしている。窓一つなく、空気はどことなくひんやりとしている。
「で、ここはどこなの?」
エリーを振り返って、尋ねる。
「ここはあんたらが捕まった酒場の地下室さ」
しかし、返ってきたのは酒焼けでしゃがれた女性の声。エリーは酒飲みだが、こんな声ではない。背後を振り返ると、見覚えのある厳つい雰囲気の中年の女性が音もなく立っていた。
村人達から恐れられている、『黄金の輝き亭』の女将さんだ。
何でこんなところに、この人が? 僕がびっくりして硬直していると、エリーが言った。
「酒場の女将さん、覚えてる? 捕まって、酒場の地下室に放り込まれたあたしたちを助けてくれている、ありがたい恩人」
「やだねえ、嬢ちゃん。美人で優しい恩人の女将さんだなんて、お礼にしたって言い過ぎさ」
上階の酒場にまで響きそうな豪快な声で、女将さんが笑う。そんなこと、一言も言っていないぞ、と喉元まで言葉が出かかったところに、女将さんは僕に向かって何やら差し出した。
「何はともあれ、とにかくお食べよ。腹が減っては、話をしたって何にも頭に入らないだろうしねえ」
それは湯気を立てる温かいシチューの皿とこんがりと焼けた大きなパンが入った籠。
おいしそうだなあ、と思った途端、ぐうと腹の虫が鳴る。そういえば、朝食以降まともに食事を取っていないのだった。
「……いただきます」
おなかに穴が開きそうなぐらいの空腹のところに、美味しそうな食事なんて出されたら、美人で優しい恩人の女将さんに見えてきた……かもしれない。
部屋の外では日が沈み、夕暮れ時を迎えているという。空腹だったのはエリーも同様らしく、二人でパンとシチューにがっつきながら、女将さんの話に耳を傾けた。
なぜ、僕たち二人が村人達に捕らえられることになったのか。その発端は、あのマルコという男が村人達に見せた脅迫状にあったという。
「脅迫状? どんな内容の? そもそも、誰から?」
パンを頬張りながら、エリーが尋ねる。
「聞いて驚くなかれ。……送り主はゴブリンどもさ」
女将さんは唇をつり上げて笑った。まるで絵本の中の魔女のように。
女将さんは事の経緯を話し始めた。それによると、あのマルコという男は、営んでいる雑貨店の仕入れのために隣村に出掛けたところを、ゴブリンの群れにたまたま捕まってしまったのだという。
通常のゴブリンの群れであれば、彼は単なる遊戯のために弱者としてなぶり殺しにされるのが相場なのだろうが、生憎そうではなかった。
「とっ捕まったマルコは、一匹のゴブリンの前に引き出されたそうな。そいつは他のゴブリン共が赤ん坊に見えるほどに巨体で、逆らえば人間もゴブリンも一捻りできそうな、おっかない容貌だった。そして、何よりも恐ろしいことに、そいつは人の言葉を理解し、話すことさえできた」
「そんなこと……ありえるの?」
エリーが目を見開いて言う。
彼女が驚くのも無理はない。幼少時から関わり続けたゴブリンという生き物を彼女は熟知していて、略奪と弱者をいたぶることしか知らない低脳な魔物と理解している。彼女の常識の中では、人間の言葉を解する知性を持つ存在では決してあり得ない。
女将さんは声を低くして、話を続けた。
「奴はマルコに向かって手紙を放り投げた。『村に届けろ、日没後、軍勢を率いて答えを聞きにゆく』と言って、奴はその場を去ったそうだよ」
女将は深々とため息をついた。
「解放されたマルコは、村にやって来た冒険者を捕らえるよう村人達を説得した。手紙……もとい、脅迫状には、森でゴブリンを殺した下手人を引き渡して服従を誓えば、村の安全は保証される、と書かれていてね。従うべきだ、と奴は村中で触れ回った」
「そして、多くの村人がマルコの提案に乗った、と」
エリーが言うと、女将は頷いた。
「ゴブリンの数は五百はくだらないそうだよ。そんな大勢で夜陰に乗じ、包囲して攻め込まれた日には村は壊滅を免れない。犠牲覚悟で防戦しようとも、助けが来る見込みはない。よそ者二人を差し出して、戦わずに済むなら安いものだ、と大勢の男達が騒いでいたよ」
ふん、と不機嫌に鼻を鳴らして女将が言う。僕はおそるおそる、口を開いた。
「……女将さんはそうは思わない、と?」
「この村の男共の大半は、馬鹿で怠け者と分かっちゃいたが、これほどまでに愚かな恥知らず共とは知らなかったよ」
女将さんは軽蔑に顔をゆがめた。
「いくら人の言葉を話そうと、相手は魔物だ。奴らとの約束なんて、泥棒が盗った金を返してくれると期待するようなもんだ。そんな馬鹿な約束に、よそ者のあんたらを巻き込むわけにはいかない」
女将は木製の扉を指し示した。
「外はもう随分暗くなってる、村の連中に見つからないように逃げな。幸い、というべきか、ゴブリンの奴らは明かりを焚くなと厳命しているから、そうそう村人には見つからない……」
「女将さん……」
怒りさえ露わにした女将の姿を、僕はじっと見つめた。
村の男達の意見を、僕は一笑に付すことは出来なかった。僕が村の男達と同じ立場なら、ゴブリンの大群に怯えて彼らと同じ選択をしただろうから。戦ってまず勝てない相手と戦いたくない。見知らぬ誰かを生け贄にして、これで自分は安全だと欺瞞に己を塗り固めて、ほっと胸をなで下ろすのだろう……。
でも、この女将さんは違う。確かに僕たちを差し出したところで、身の安全が保証されるわけではない。しかし、だからといって、差し出さなければ、ほぼ確実に暴行と略奪の嵐に見舞われることになるし、逃がしたと知れれば、村人までも敵に回すことになる……。
女将さんはただひたすら己の良心に誓って、命をかけ、見知らぬ人間である僕とエリーを逃そうとしているのだ。
僕は、言葉を失った。彼女の勇気ある行動に、心打たれずにはいられなかった。
それで、僕は? 僕は、どうするのか? 僕には荷が重すぎることだから、だとか、あるいは見知らぬ人たちのために命を張るのはごめんだとか言って、滅びの運命にある村を見捨てて逃げ出すのか?
それで、いいのか?
僕はまた……逃げるのか? 今まで何度も、飽きるほどに繰り返してきたように……?
頭の中から問いかける声がして、ずきりと頭が痛んだ。
待て、待て。今まで何度も、と言われても僕には心当たりがない。誰なんだ、お前は? 一体、何を言っているんだ……?
頭に響く声に言い返すと、まるで錐で穴を開けられたような激痛に襲われた。そしてその穴から何かが、激流のように流れ込んでくるのを感じた。
そう、それは記憶だった。僕がいつの間にか無くしていた、異世界にやってくる前の己の記憶……。