熟した心が爆発したら
「イベルナ・グレンジャー! もう君とはやっていけない。ぼくらの婚約は今この瞬間をもって破棄させてもらう!」
学園の食堂は現在、多くの学生で賑わっている。
貴族の子息令嬢ばかりが学ぶ学園であっても、学生たちはみな食べ盛りのお年頃だ。お昼時ともなれば、お上品さよりも食欲のほうが強めに顔を出す。
学び舎の主たる目的が、貴族に備わる膨大な魔力の制御と操作、その技術を研鑽することにある以上、授業は座学も実技も厳しい。空腹を満たし、午後の英気を養う。学生たちは食事に対して貪欲であった。
そんな風であったから、食堂はいつだって学年を問わず集まった学生たちで非常に混雑しており、賑やかである。しかしそれも、今日ばかりは静まり返るしかなかった。
オリバー・ハワード。この国の第二王子である。
ただでさえ耳を疑うような発言を、よりにもよって一国の王子がそれはもう高らかに放つものだから、学生たちは沈黙せざるを得なかった。
何を言っているんだ、あいつは。ここをどこだと思っているんだ。こっちは腹ペコだっていうのに。周囲の不満はもっともだった。
渦中の人物イベルナ・グレンジャーとは、グレンジャー侯爵家の長女で、オリバーの婚約者である。
容姿端麗、博学多才、文武両道。欠点のないところが欠点、とまで評されるほどの完璧超人として有名な学生である。実家の侯爵家は長く王家に仕える忠臣で、国の歴史を語る際にはいつの時代どの時点でも要所で必ず名が挙がる。
王家の陰にグレンジャーあり。
王家と侯爵家の間で婚約が成立したことで、いよいよ国内の勢力図は確立されたようなものだった。遂に身内に取り込むほどに、王家はかの家を無視できなくなったのかと。
そこへきての、この状況。一大事だった。
しかしイベルナはわずかに眉を動かしただけで、動揺らしい動揺も、混乱らしい混乱も特に見せなかった。冷静沈着。その心臓は鋼で出来ているのかと、周囲のほうが動揺し混乱するほどの落ち着きを、彼女は今日もまた普段通り披露した。
スッと立ち上がり、眼前に指を突きつけた姿勢のまま静止しているオリバーと視線を合わせる。この時点でオリバーの指はイベルナの臍を指さしていることになったが、腕を上げるでも引くでもなくそのままだ。
彼女の眼力に怯んでのことだろう。
イベルナの顔に表情はない。動揺も、混乱も、怒りも、悲しみも、何も、その顔を彩ることはしていなかった。しかしその目には、深い青の双眸には、動揺でも、混乱でも、怒りでも、悲しみでもない、ただ底冷えする静寂だけがあった。
美人の沈黙には迫力が伴う。イベルナはただ無表情で沈黙するだけで、相手の恐怖心を引きずり出す圧があった。そしてオリバーはその圧にあっさり押し負けた。
「オリバーさま」
「は、はい」
オリバーは思わず丁寧に返事をしてしまった。
「そのお話は今この場で絶対にしなければならないものでしょうか?」
「え、……いや、……いいえ」
「では食後に。どこかの空き教室をお借りして、そちらでゆっくり、じっくりお話しいたしましょう」
「ぁ、はい……わか、った」
こくり、とオリバーの首が縦に振られるのを確認して、イベルナは食堂内をぐるりと見渡して頭を下げた。
「みなさまお騒がせいたしました。どうぞ、お食事を続けてくださいまし」
いえいえ、お構いなく。というかもうここでその話しちゃってくれませんか。ちょっと面白くなってきちゃったし。ちなみにその空き教室ってどこですかね。
剥き出しの好奇心はイベルナの圧により黙殺され、誰一人、口に出すことは叶わなかった。
◇
「さて、それで……なんのお話でしたかしら?」
もう勘弁してください。オリバーはちょっぴり涙目だった。
イベルナが借りた空き教室は、正確には資料室であった。雑多に物が詰め込まれ、どことなくかび臭くて、窓はその大部分を隠すように棚が並べられており日差しも薄い。
部屋自体が小さいこともそうだが、とにかく物が多いせいでひどく狭いその部屋は、腰を落ち着ける場所もごく限られていた。テーブルはない。椅子が二脚――着座を拒むように本が積まれていたそれらを引っ張り出して、本を別な場所へ逃がし、ようやく二人は座った。
対面である。テーブルがない分お互いの距離は近い。ひざを突き合わせて――まさにその距離で向かい合う。
「き、君とのこ、ここ婚約のこ、ことだ……です」
オリバーはビビっていた。
「そうでしたわね。それで? わたくしとはもうやっていけないから、婚約を解消すると、そういうことでしたかしら?」
問いかけて、しかしイベルナはすぐに否定した。
ああ、違いました。そうではありませんでしたね。
「婚約は解消ではなく、破棄する、とおっしゃっていましたね」
破棄する、と殊更はっきり発音する。オリバーは竦みあがった。
なんだかとっても恐ろしい。イベルナとはこんなに恐ろしい女であっただろうか。
「理由をおうかがいしてもよろしいですか?」
もうやっていけない。そんな曖昧な理由では許さない。そんな風に言われたわけではないのに、オリバーにはそう聞こえた。
オリバーはビビっている。けれど奥歯を噛みしめたのは、恐怖ではなく悔しさがそうさせた。
「……君といると、惨めだ」
喉を絞るように言葉を吐く。これは恥をさらす行為だ。己の恥を、婚約者に開示する。
「ぼくは君に劣る」
学園では差が成績として目に見える形で示される。座学でも、実技でも、試験でも、オリバーの上には常にイベルナがいた。打ちのめされた。
「婚約してからずっと感じていたことだが、……やはり、苦しい」
出会ってから今日まで、イベルナはずっと優秀だった。努力を惜しまず、けれどそれを他者に見せず普段は澄まし顔を保ったままでいる。天才だと、見えない努力をそのまま才覚のおかげだとないものにされても反論せず、だからといって努力を怠ることもしない。
誰よりも努力して、それに見合う結果を常に示し続ける。彼女は出会ってから今日までずっと、オリバーを負かし続けていた。
覆そうと努力した。当然だ。劣等を抱え、そのままにするような愚者ではいたくなかった。卑屈なまま腐っていたくなかった。
けれどオリバーが重ねた努力は、イベルナも当然積み上げていて。差は縮まることなく、最近のオリバーは差が開かないよう足掻いているようなものだった。
彼女を越えられない。それはもうどうしようもなくて。それでも置いて行かれないよう、必死で食らいついている。越えようと重ねていた努力はいつしか、立ち止まらないための言い訳になっていた。
一度でも立ち止まったら置いて行かれる。距離が遠のいたら二度と近づけない。
婚約者に劣る王子。これは自己認知だけでなく周知の事実だ。抱えた劣等感はただでさえ重いのに、開いた差を周囲に指摘されては潰れてしまう。口出しさせないだけの努力をすることで、その姿を見せることで、己を保ってきた。
それももう、限界だ。
「ぼくは君に相応しくない」
自分が後ろ指をさされるだけなら、まだ耐えられる。自分を憐れんで嘆いていられるから。こんなに頑張っているのに。ぼくだって優秀な成績を残しているのに。強過ぎる光の前で、影が濃くなっているから見えないだけだ。――可哀想なぼく。
もう少し頑張れば、ぼくの光も強まるかもしれない。もう少しだけ頑張ろう。
負けて堪るか。
そうやって己を奮い立たせることができるから、耐えられる。しかしそれも限界だ。
「ぼくのせいで君が悪く言われてしまう」
イベルナが後ろ指をさされることは、耐えられない。我慢がならない。
男を立てることを知らない女。そんな風に言われていると知った。婚約者よりも好成績を残すイベルナを、王子よりも優秀な結果を残す彼女を、周囲はそう受け取ると知ってしまった。己の優秀さをひけらかして悦に入っているのだ、と。
「実力に見合った正当な評価を得ている君は、胸を張って堂々としていていいんだ。ぼくに遠慮して実力を隠したり、実力以下の成績を狙ったりする必要はない」
「ですが王子より目立つ婚約者をよく思わない心理は理解できます」
「無視していい。そういう連中は、手加減してもらうことになるぼくの気持ちまでは考えていないのだから」
男を立てるために実力を下回る成績を残す。イベルナがオリバーを立てた結果、彼は婚約者に成績を上回らせてもらった男になるのだ。それを誇るような王子だと思われて、……そんな屈辱はない。
「君もわかっているから、手を抜かないのだろう?」
学園の誰よりも、この国の誰よりも、競い合ってきたオリバーこそが知っている。イベルナの実力を。越えられない壁の高さを。それだけ積み上げられてきた彼女の努力を。
王子の沽券のためなどと、そんな理由で手を抜かせて堪るか。そんな侮辱はない。
「おっしゃる通りです」
「君はそのままでいい。悪いのはぼくだ」
婚約者に劣る王子でい続けている。イベルナを越えることもできなければ、彼女への陰口をうまく逸らしてあげることもできない。
王子の言葉は命令になる。どう伝えても、オリバーがイベルナを庇う理由を誰もが勘繰る。王家とグレンジャー侯爵家。切っても切り離せない関係がそうさせるのだと、邪推する。オリバーの本心も、イベルナの実力も、本当の部分には誰も興味がないのだ。
「ぼくは君の邪魔になる。君の足を引っ張るお荷物にはなりたくない。だからぼくたちの関係は今日で終わりだ。昼間の一件でぼくは公衆の面前で婚約破棄を迫る愚かな王子だったと思われるだろう。そしたら君は瑕疵なく違う相手を探せる。幸せになってほしい」
きっともっと他のやり方がある。わかっていても、行き詰まったオリバーの頭では最適解を導き出せない。
婚約者が自分のせいで余計な悪意にさらされている。脳を沸騰させている場合ではないのに、煮えたぎってしかたない。
「イベルナ、婚約を破棄しよう。もちろんぼくの有責だ」
「嫌です」
「ついてはすぐ君の――ぇ。は? え? なんて?」
「嫌です、と申し上げました」
イベルナのさっぱりした物言いに、オリバーはわかりやすく狼狽した。頭上を疑問符が飛び跳ねる。
「えっ、は、え、嫌? 何が嫌?」
「オリバーさまとの婚約関係が終了することが、でございます」
婚約が破棄される。解消ではなく破棄する、と宣言した点を嫌がっているのではなく、婚約関係の終了そのものが嫌だという。
「へ? 君、ぼくとの婚約を続けたいの?」
「はい」
「なんで?」
「愛しているからですわ」
「あ、愛? ……愛!? え、誰を愛してるって!?」
「オリバーさまを」
「誰が?」
「わたくしが」
「君ぼくのこと好きなの!?」
「はい」
「いつから!?」
「初顔合わせのあと、そう間を空けず自覚いたしました」
初顔合わせといえば、互いに六歳の頃のことである。まだお互いの背が同じくらいで、頬は林檎色をしていて、――イベルナの表情に色んな面があった。
「そんな頃から!? え、本当? 本当に!?」
「はい」
「え、待って。それからずっと好きなの?」
「はい」
「嫌いになったことないの?」
「ございません」
「そうなの!?」
「はい」
マジで……?
にわかには信じがたい事実だった。
思えばお互い好意を伝え合ったことはない。婚約した以上は当たり前に結婚すると思っていたし、お互い感情の吐露は最低限にするよう徹底した教育を受けている。
愛情は特に、密に秘めるよう教わった。
派手な露出が招くのはいいことばかりではない。隙に思われて、付け込もうとする輩が湧かないとも限らない。痴情のもつれなど、醜聞の中でも最悪な類だろう。
不仲に見えてはいけないが、恋愛に現を抜かしていると思われるのもいけない。匙加減は難しく、結果、ふたりとも簡単なほうへ流れた。つまり恋人同士の距離感ではなく、婚約者同士の距離感で過ごす。節度を持って、良好な関係を築いていると、周囲の目に映るように。
「どうやら、わたくしの気持ちは伝わっていなかったようですわね」
「……」
「わたくしの未熟さが招いた事態です」
申し訳ございません。
そう言って頭を下げるイベルナはやはり、顔色ひとつ変えない。
君だけの責任ではない。そう伝えるべきだと頭では理解していたが、早まった心が違う言葉を吐かせた。
「だって君、いつでもどこでもずっと同じ顔をしているじゃないか」
いつも冷静で、大人びていて、喜怒哀楽のいずれも悟らせない。婚約の解消を拒むほどの深い愛を秘めていたことなど、気づきもしなかった。――気づけなかった己の見る目のなさよりも、少しくらい見せてほしかったと我儘が前に出た。
「不用意に心情を悟らせないよう、日々努力しております」
努力の方向性を激しく間違えている気がする。そう思ってしまったら、ポロッと声が漏れた。拗ねたような声音になったのは、事実どこかに拗ねる気持ちがあったのだろう。
「ふたりでいるときも変わらないじゃないか」
ここで初めて、イベルナの表情が崩れた。カーッと、顔がみるみる真っ赤に染まっていく。
突然のことに動揺を隠せないオリバーが言葉を失っている間にも、彼女はガタガタと椅子を鳴らして、呼応するように鉄壁の仮面を崩していく。しかしなにぶん狭い部屋だ。オリバーとの距離を離すことはできず、ほんの少し位置をずらしただけでイベルナはどこへも行けなくなった。
「だ、だって……」
観念したのか、イベルナは口を開いた。
小さな、ともすれば消え入りそうな声だった。
「わたくしったらすぐ真っ赤になってしまって……昔、オリバーさまに……『熱があるのか』って……それで、恥ずかしくて……わたくし、恥ずかしい……」
イベルナはワッと顔を手で覆い隠してしまった。それでも隠せない耳が真っ赤に染まっている。
昔。……そういえば、と思い出す。
婚約して間もない頃、イベルナとはほとんどの時間を王宮の庭で過ごした。それは彼女が花を愛でることが好きだと聞いたからであった。我ながら単純だが、喜んでもらえるならと毎回そこを指定していた。しかしあるとき気づいたのだ。イベルナの顔が真っ赤になっている、と。
ティータイムには屋根のある東屋に移動したし、散歩のときも日傘を差していたから油断した。暑かったか、あるいは日差しが苦手か。あるいは、女の子だから日焼けの可能性は極力避けたいか。――もしや熱があるのか。
一瞬でパニックになったオリバーはとっさに、最も不安な熱から疑って声をかけたのだ。婚約者、それも王子からの呼び出しに断れず、もしや体調不良をおして登城してはいないか、と。どうやら違うらしいと、幾度目かの質問を終えて納得しても、やはり不安は拭えなかった。
以来イベルナと過ごす場所は王宮内の書庫であったり、庭に面したサロンであったり、できるだけ室内を選ぶようにしたのだった。
「日傘もありましたし、なによりオリバーさまはわたくしのほうをあまりご覧になりませんでしたから。油断した結果があのような……恥ずかしいですわ」
「あー……」
自覚はあった。意識して、イベルナのほうを見ないよう、気をつけていた。
「ぼくのほうこそ……恥ずかしい」
すまない。
素直にこぼれた謝罪に引っぱられてか、顔に熱が集中するのが自分でわかった。
「気をつけていないと、その……ずっと見てしまうから」
「? 何を、でしょう?」
「き、君の顔を……」
答えながらどんどん恥ずかしくなってきた。首まで熱い。
「わ、わたくし……?」
「うん」
「な、なぜ……?」
なんでそこは無自覚なんだ!
そうやってすっとぼけて、ぼくのことを揶揄っているんじゃないだろうな!
オリバーは頭の中で、ぷつーん、と何かが切れる音を聞いた。
「君がいつどの角度で見てもめちゃくちゃ可愛いから、気を抜くと見惚れて遠慮なく凝視してしまいそうだったから、自制していたんだよ!」
言わせないでくれ。いや、ぼくが勝手に言ったんだけれども!
「もう嫌だ! 限界だ! 君には欠点なんて一個もないのに! ぼくのせいで君が悪く言われる現状に耐えられない。君に追いついて、追い越して、劣るぼくが悪いだけでイベルナはただ最高な女性なだけなんだと言ってやりたいのに。ぼくがいつまでも君に相応しい男になれないばっかりに、最近では陰口が君の耳にも入っているというじゃないか」
耐えられない。
男を立てることを知らない女。王子を負かして悦に浸っている。少しは遠慮すればいいのに。
そんな陰口でイベルナの耳が汚されることに、耐えられない。
「君には王子の婚約者なんて、プレッシャーばっかりの人生を歩ませるんだ。世界一幸せな女性にしてあげるのが、ぼくにできるせめてものお礼じゃないか。なのに、ぼくという男はいつまでも……情けない」
イベルナの能力も魅力も、すべて彼女の努力の結晶だ。すべてを最高の状態に保っている彼女が素晴らしいのだ。
天が与えたもうた才能がそうさせているのではない。断じて、違う。イベルナがそうあろうと励んだ結果があるだけだ。
「頑張り屋の君が自慢なんだ。勝る結果を残せないぼくこそ後ろ指をさされるべきで、君が遠慮する必要なんてない」
「オリバーさま……」
「君のことになるとぼくは途端に愚鈍なバカに成り下がる。褒めまくって自慢しまくってしまいそうで、言葉を選ぶと選び過ぎて言葉足らずだ。そのせいで君の陰口を言っている連中を威圧するばかりで、ただ口を慎めと命令したような結果になってしまう」
情けない、情けないと言っているうちに気が滅入ってきた。
オリバーは頭を抱えて唸る。
「君のことが大好きなんだ、イベルナ……」
隣にいても恥ずかしくない、誇れるような男になりたい。幸せにしてあげたい。幸せになってほしい。いつも心穏やかに、笑顔でいられる人生を歩ませてあげたい。困っていれば助けたい。傷つけられる前に守ってあげたい。
してあげたいことは山ほどあるのに、そのどれも上手にできない。
大好きな婚約者の気持ちすら、気づいてあげられなくて。
「ごめん、イベルナ」
返事はなかった。
呆れてしまったか。ほとほと愛想が尽きてしまった、と言われても文句を言えない。……でもそれはすごく悲しい。
婚約の解消を申し入れておきながら、オリバーは未練に引きずられてイベルナの顔が見たくて抱えていた頭を解放した。
「……イベルナ?」
彼女の顔は、集中していた熱が煮詰まって、赤黒く染まっていた。
「わたくし……ごめんなさい、殿下……。わたくしは……頑張ると、お父さまにも宣言しましたのに……」
オリバーとの婚約が結ばれて間もなく、幼いイベルナは父の元へ駆け込んだ。
『お父さま、お父さま! どうしましょう、お父さま! オリバー殿下の婚約者ですって、どうしましょう! わたくしったら世界で一番幸せな女の子になってしまいましたわ!』
日頃のお利口さんな姿はどこへやら、顔を真っ赤にして、その場で落ち着きなくぴょんぴょん飛び跳ねながら興奮する娘に、父は白目を剥いた。可愛い盛りの愛娘に首ったけな父は、『大きくなったらお父さまと結婚します』という子煩悩が言われたいセリフナンバーワンをゲットすることなく人生を過ごすことが確定した事実を受け止められなかった。
『将来は夫婦になるんだ。互いに支え合えるよう、素敵なレディにならなくてはいけないよ。頑張れるね?』
『わたくし一生懸命お勉強します。殿下にも幸せになっていただけるよう頑張ります!』
『お前自身が幸せでいることも忘れてはいけないよ』
『大丈夫です! 殿下と一緒ならわたくしはずーっと幸せに決まっています!』
父親らしい言葉を贈るために父は全神経を注ぎ込み、その日は母の膝で大泣きしたと大きくなってから聞かされた。
「わたくしばかりが幸せではいけませんでした。殿下に幸せになっていただくためにこそ、わたくしは頑張っているはずでしたのに」
申し訳ありません。声はまた消え入りそうな音になった。
オリバーはとっさに手を伸ばし、イベルナの頬に両手を添え下がりかけた頭を引き留める。背はもうオリバーのほうがずっと高くて、イベルナの表情はすっかり様変わりしてしまったけれど、その頬の林檎色は昔も今も同じ色をしていた。
「ぼくが悪かった。すまない、イベルナ」
「いいえ、……いいえ、オリバーさま。わたくしのほうこそ」
「婚約、本当は解消したくないんだ」
「はい」
「ぼくはこの通り情けなくてまるで駄目な男だけれど、絶対に君を世界一幸せな女の子にしてみせるから。だからどうか、ぼくにチャンスをくれないか?」
「もちろんです、オリバーさま。わたくしはオリバーさまと一緒なら、いつでも幸せなのです」
触れた頬がじわじわと熱を増す。同じだけ熱くなった指が、オリバーの体温も上がっていることを示していた。
呼吸一回分。落ち着いたらもうなんだかめちゃくちゃ恥ずかしくなってきた。
「……ぼ、ぼくらはその……とんだ遠回りをしたようだ」
「そ、そうですわね……」
恋人の距離感ではなく、婚約者の距離感で。互いに引いた一線のせいで内包する感情は発露を失い、最も恥ずかしい、こんな形で露呈した。
「か、帰ろうか」
「はい、オリバーさま……」
「あの、イベルナ……君のことが、す、好きです」
「わ、わたくしもオリバーさまのことが、す、好きです」
こうして話し合いは幕を下ろし、二人は夕陽の赤さを言い訳にしても赤すぎる顔をどうにかこうにか誤魔化して帰路についた。
◇
翌朝、オリバーとイベルナは何事もなかったかのように登園してきた。
ふたりが言葉を交わしたのは昼食時間、前日と同じ食堂でのことである。自然と周囲の視線は集中し、喧騒もふたりの言葉を聞き逃さない程度の落ち着きを見せた。
「やあ、イベルナ。同席してもいいかな?」
「もちろんですわ、オリバーさま」
まるで昨日のことなどなかったよう。ふたりは穏やかに微笑み合い、向かい合って食事を始めた。
「イベルナ、放課後は空いているかい?」
「はい」
「よかった。じゃあ、王宮に来ないか? 庭園で君の好きな花が咲いたらしい。久し振りに庭でお茶しよう」
周囲は思った。
王子はイベルナ嬢のご機嫌取りをすることにしたのだろう、と。政略結婚。王家はグレンジャー家を手放せないという結論を出したのだ。
公衆の面前で婚約破棄を突きつけるような真似をして、王子はもう彼女に頭が上がらないだろうな、と。憐れみとも、呆れともつかない微妙な空気がその場を包んだ。
しかし事態は一変する。
「まあ、素敵! 是非ご一緒させてください」
花が満開に咲き誇るように、イベルナが頬を赤らめ笑顔を見せた。
その場に居合わせた全員がぎょっとした。誰もイベルナの満面の笑みなど見たことがない。いつだって淑女のお手本のような微笑みを浮かべ、笑い声までつくり込まれていると錯覚するほど洗練されているのだ。そんな女性が、あふれる感情を抑えきれないと言わんばかりに華やいでいる。
「では放課後、教室まで迎えに行くよ」
「はい、お待ちしております」
オリバーは特に驚いたふうでもなく、自然に会話を続けている。イベルナもまた、それが普通のことであるようによどみなく返事をした。
「こんなに素敵なお誘いをいただいてしまって、午後の授業は集中できないかもしれませんわ」
「喜んでもらえて嬉しいよ。……先生方には申し訳ないけれどね」
「っふふ、そうですわね。気を引き締めませんと」
「まずはしっかり食べて力をつけよう。君は少食だから心配だよ」
「あら、オリバーさまがティータイムのたびに美味しいお菓子をご用意されるから、わたくしは太ってしまわないよう必死ですのに」
「そうしたら新しいドレスを贈るたのしみができる」
「意地悪をおっしゃらないでください。本当に太ってしまったらどうなさるおつもり?」
「責任をとってぼくも太るよ」
「痩せるほうに協力してください!」
「あはは! すまない。そうだね。……そうなったら散歩という名目で君と過ごす時間を増やせていいかもしれない」
「そうなったら痩せるまで自領に引きこもることにいたします」
「それは困る。わかった、ぼくが意地悪だった。すまない」
「わかっていただければ、結構です」
周囲は食事も忘れて、丸く見開いた目が落っこちないよう目元を押さえた。
昨日のあれはなんだったのか。話し合いの場で一体、何があったのか。
まるで様変わりした二人の様子に驚きを隠せない。しかし誰も割って入って『どういう心境の変化?』などと聞けるわけもない。
結局その日は昼食の時間が終わるまで二人の仲睦まじい会話は止まらず、居合わせた全員がしだいに胸焼けを起こし食事どころではなくなった。
殿下と婚約者殿の愛ある人生に幸あれ。でもそれはそれとして、何があったのかだけ聞かせてもらっていいですかね。あと仲睦まじい姿を見せびらかすのはほどほどにしてもらえると幸いです。
げっそりしたその場の空気はやはり黙殺され、誰一人、口に出すことはできなかった。