おかえり あぐり
夏休み、田舎の祖母の家に泊まりに行った。
「こんにちはー」
「よくきたねえあゆちゃん、暑かったでしょ」
平屋建ての日本家屋はお線香の匂いがした。
父方の祖父母は早逝していた為、私の中でおばあちゃんといえば母方の祖母をさす。
「おじいちゃんに挨拶してきなさい」
「はーい」
仏壇の前に正座し、鉦を叩いてお線香を手向ける。
遺影に写っているのは私が生まれる前に他界した祖父。旧家の跡継ぎとして躾けられたせいか、とても厳しい人だったと母に聞かされていた。
「お線香あげた?」
「うんっ!」
「じゃあこっちいらっしゃい、スイカ切ったげる」
「やったあ!」
居間のちゃぶ台を挟み、よく冷えたスイカを食べながら報告する。
「通信簿は体育と算数以外5だったんだよ」
「すごいねえ、賢いねえ。お母さんに似たのかしら」
唐突にピンポンが響く。
「こんにちはー」
玄関にいたのはいとこの圭ちゃん。私から見れば母の妹の息子にあたる。
「げっ、あゆちゃん」
「げって何よ、失礼ね」
「一番乗りだと思ってたのに先越された~、畜生」
「あちこちよそ見しながら歩いてきたんでしょ、どうせ」
「水路にザリガニいたんだもん」
「スイカ食べるかい?」
「うん!」
暖簾を分けて台所に引っ込む背中。戻ってきた時、お皿にはスイカが七切れのっていた。
「おばあちゃんは一切れでじゅうぶん。年のせいかねえ、入れ歯に替えてから冷たいものが染みるんだ」
うちの両親は共働きで圭ちゃんちは母子家庭。どちらも帰省せず、子供だけを送るのが習慣になっていた。
「ずるい、あゆちゃんのほうがでっかい」
「気のせいでしょ」
「ボクのと取りかえて」
「やだ」
「こらこら喧嘩はやめて、みんなで仲良く分けっこなさい」
「は~い」
とはいえ一玉たいらげるのは難しく、二切れ食べたらもうお腹いっぱいになってしまった。同じだけ食べた圭ちゃんもげっぷしている。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様」
残りはお皿ごとラップを掛け、祖母が冷蔵庫に返却した。
「余らせちゃもったいないからね」
川遊びや虫捕りで体力を使い果たし、圭ちゃんと布団を並べて目を閉じる。
……が、枕が違うせいでなかなか寝れない。和室の天井にはオレンジの豆電だけが灯り、障子を隔てた庭では虫が鳴いている。
繰り返し寝返りを打って眠気の訪れを待ち侘びるうち、強烈な尿意を覚えた。
慌てて圭ちゃんを揺り起こす。
「起きて圭ちゃん」
「うう~ん……何?」
「トイレ付いてきて」
「やだよ、一人で行って来なよ」
「圭ちゃんがおしっこしたくなっても付いてってあげないよ!」
「あゆちゃんは三年生のお姉さんでしょ、きっと大丈夫だって」
観念して布団から這い出す。極力音を立てぬように障子を開け、体重を乗せる都度軋む廊下を歩き、突き当たりのトイレで用を足す。
「ふー」
すっきりして顔を上げると、おばけに怯えていたのが馬鹿馬鹿しくなる。
水を流し廊下に出、部屋に帰る途中、庭を挟んで反対側の廊下に人影を見かけた。
幽霊と見間違え心臓が止まる。
咄嗟に柱に隠れ、対岸の廊下を歩む小柄な影に目を凝らし、その正体が祖母だと悟った。
「こんな夜中に……」
トイレとは方向が逆だ。祖母は屋敷の北側に向かっていた。
眉間に川の字を刻んで身を乗り出し、祖母が手に掲げたお皿と、二切れのスイカに困惑する。
翌日。
朝起きた私は、台所でお味噌汁を作ってる祖母に聞いてみた。
「おばあちゃん、昨日の夜スイカ持って北の廊下歩いてなかった?」
「心当たりないねえ。ねぼけてたんじゃない?」
「えー」
「あゆちゃんも知ってるでしょ、屋敷の北側は床が腐ってて危ないのよ。絶対に行っちゃだめよ、わかったね」
本当に見間違い?
「おはよー」
「あらあらお寝坊さんねえ圭ちゃん、あゆちゃんはとっくに起きて着替えてるわよ。朝ごはんにするから顔洗ってらっしゃい」
笑顔の圧で深追いを封じられ、圭ちゃんが起きたのもあり、その時は大人しく引き下がった。
三日後……
仏間を覗いたところ、祖母が外出準備をしていた。
「どこ行くのおばあちゃん」
「ああ、ちょうどよかった。お医者さんでお薬もらってくるから、少しの間お留守番よろしくね」
「まかせて」
「きまりはちゃんと守ること。わかった?」
「はあい」
薄手のカーディガンを羽織った祖母に釘をさされ、真面目くさって頷く。
「わかってる。北側には行かないよ」
祖母の家には不思議なルールがある。屋敷の北側が立ち入り禁止になっているのだ。
あっちは床板が腐っており、踏み抜いたら危ないというのが建前上の理由だった。
「いってくるね」
「いってらっしゃい」
「帰りにアイス買って来て」
圭ちゃんがちゃっかりおねだりする。
「はは、かわいい孫の頼みは断れないねえ」
手を振って祖母を見送り、しばらくトランプをして遊んだが、一時間もすると飽きてしまった。
「ねえ、探検ごっこしない?」
「えー」
「屋敷の北側に行ってみたい」
ドキリとした。
「おばあちゃんにダメって言われたじゃん」
「何があるか気になんないの」
「床が腐ってて危ないよ」
「心配性だなあ、そ~っと歩けば大丈夫だって」
圭ちゃんは一度言い出したら聞かない性格だ。この時も探検ごっこをしたいと駄々をこね、渋々付き合うはめになった。
物心付いた頃から出入りを禁じられていた屋敷の北側に何があるか、興味を引かれたのも否定し難い。
瞼の裏に甦るのは三日前、身を竦めるようにして真夜中の廊下を歩いていた祖母の後ろ姿。
床板が腐ってるんなら、おばあちゃんだって行っちゃだめなんじゃないの?
わざわざ嘘吐いて孫を遠ざけたの?
なんで?
膨れ上がる好奇心に駆り立てられ、神妙な顔で頷き合い、屋敷の北側に乗り込む。
「黴臭い」
「暗いね」
「気味悪い……」
臆病風を吹かせる圭ちゃんの手をとり、木目の模様が爛れた人の顔に見える、床板を踏み締めて先へ行く。
三日前、祖母の姿を見付けた部屋の前で立ち止まる。
固唾を飲んで見上げる圭ちゃんと並び、注意深く障子を開け、細い隙間から覗き込む。
「おばあちゃんがむかし使ってた部屋……みたい」
「何がある?」
「隅っこに三面鏡と箪笥」
忍び足で畳を踏み、化粧箪笥の引き出しを上から順にあらためていく。
「あ」
引き出しから褪せた写真が出てきた。家の前で撮ったみたいで、まだ若い祖母と面差しがよく似た三人の女の子、祖父の遺影を若返らせたような男の人が映っている。
「お母さんとおばさんと……この子はだれ?」
セピア色の写真の真ん中、十代後半の母と叔母に挟まれているのは、一際勝気そうな印象の女子小学生。
「たまたま遊びにきてた親戚の子とか?」
圭ちゃんがせっかちに引き出しを漁りだす。
「奥にノートが」
「日記みたい」
「勝手に読んでいいの?」
「写真の子の正体知りたいでしょ」
大学ノートを開けば案の定、細かい字が犇めいていた。
「やっぱり、おばあちゃんの字だ」
高揚感に唾を飲む。
私は小学三年生。習ってない漢字は飛ばし、わかる所だけ訥々と読み上げていく。
「今日も連絡なし」
めくる。
めくる。
めくる。
「連絡なし。連絡なし。連絡なし」
罫線を埋め尽くす事務連絡じみた同じ言葉の羅列。圭ちゃんが手元を覗き込んで茶化す。
「あぐりって人の名前?へんなのー」
「待って、この子があぐりかも」
「嘘だあ、お母さんに妹がいたなんて聞いたことない」
「私も。うちは圭ちゃんのお母さんとふたり姉妹だって、お母さん言ってたもん」
どんどんページをめくる。十年前の日付に行き当たる。そこには震える字でこうしるされていた。
『おかえり あぐり』
ガリガリと何かを研ぐ音がした。
「っ!?」
不意打ちにノートを落とし、圭ちゃんと抱き合って音の出所を凝視する。
三面鏡があった。
合わせ鏡の奥の無限回廊に強張った顔が続く。
「今のは?」
「聞かれてもわかんないよ」
「ボクとあゆちゃんしかいないよね、ねっ?」
「何の音か確かめなきゃ」
ガリガリ。
ガリガリ。
「やめなよあゆちゃん」
「圭ちゃんも手伝って」
こないだ見た推理ドラマの内容を思い起こす。ドラマで殺された人は、旧校舎の壁に埋められてたんだっけ……。
「いっせーの」
「せ!」
壁に人が埋められていたら?
スイカがお供え物だったら?
おばあちゃんが人殺しのはずない、けど……。
三面鏡の後ろには何もなく、殺風景な壁だけが広がっている。長い間塞がれていたせいか、鏡の跡がうっすら付いていた。
「あははは」
「あははは」
「「あははははは!」」
緊張の糸が切れ、笑いながらへたりこむ。
「なーんだ、何もないじゃん」
「もういいでしょ、探検ごっこはおしまい。さっさとドリル片付けちゃお」
「え~」
日記を元通り戻してから引き出しを閉め、嫌がる圭ちゃんを引っ張って退室する間際、和室の壁を振り返る。
この時、何故鏡を戻さなかったのか。
「……宿題終わってからでもいっか」
早く部屋から出たい。祖母はまだ当分戻らない。自分に言い訳し、障子を閉める。
その後は居間に移り、圭ちゃんと一緒にちゃぶ台を囲み、夏休みの宿題に取り組んだ。
「おばあちゃん遅いね」
「だね、もうすぐお昼なのに」
「またそうめんかな~もうあきた」
「圭ちゃんが作りなよ」
上の空で返事をし、漢字ドリルと睨めっこする。秒針の単調な音に被さり、かすかに板が軋む音がした。
ドリルから顔を上げる。
「足音しなかった?」
「脅かさないで」
「ギイッてしたでしょ」
「ハイハイ」
遠く床板が軋む音を確かに聞いたのに、圭ちゃんは真面目に取り合ってくれない。
刹那、甲高い悲鳴が響き渡った。
なんだろうと駆け付ければ、お隣の主婦が回覧板を放り出し、ヒステリックに騒いでいる。
「きちゃだめ!あっち行ってなさい!」
サンダルを突っかけた足元に視線を飛ばすと、皺ばんだ腕が地面に伸び、袋から三本アイスがはみでていた。
すぐさま近所の人たちが集まり、状況を飲み込めないまま居間に追い立てられた。
数分後、けたたましいサイレンを鳴らし救急車が急行した。さらに数時間後、圭ちゃんの母親と私の両親が迎えにきた。
「帰るぞ。準備なさい」
「えっ、おばあちゃんは……」
「後で説明するから」
父と母の命令で帰り支度をし、東京に飛んで帰る。
何が何だかわからない。
帰宅後、祖母の訃報を聞かされショックをうけた。両親曰く、裏口に倒れていたらしい。転倒による脳出血が死因だそうだ。
月日は流れ現在、祖母の十三回忌がお寺で営まれた。
泣き虫で怖がりな圭ちゃんは立派な青年に成長し、私たちはお堂の座布団に膝を揃え、住職さんのお経を聞いた。
「久しぶりあゆちゃん。T大入ったってマジ?すごいね」
「そっちこそ、野球部入ったんだって?甲子園めざして頑張ってるって叔母さんに聞いたよ」
廊下で立ち話中、圭ちゃんが親の目を盗んで耳打ちしてきた。
「あゆちゃん、おばあちゃんの死因聞いた?」
「裏口で転んで頭を打ったんでしょ。ちがうの」
救急車を呼んだのは近所の主婦。回覧板を届けに来て、既に事切れた祖母を発見した。
死体の状況は相当酷く、かち割れた頭部から大量の血が溢れ、子供に見せたらトラウマになると判断して私たちを遠ざけたらしい。
圭ちゃんの目が暗く翳る。
「あれ……俺たちのせいじゃないよね」
「え、どゆこと」
「鏡動かしたじゃん」
「祟りってこと?ちょっと待って、なんで鏡にさわっただけで呪われんの」
「わかんねえけど」
「祟るなら直接さわった私たちでしょ、おばあちゃんがとばっちりうけんのおかしいじゃん」
語気を荒げてなじる私に対し、圭ちゃんはへどもど言い返す。
「聞いたよな?覚えてるよな?鏡の後ろからガリガリ音が」
『おかえり あぐり』
意味不明なノートの一文を思い出し、一気に血の気が引く。
「変なこと言わないで、祟られるようなこと何もしてない!」
強引に話を打ち切り、憤然と廊下を歩いていた所、喪服に身を包んだ母に呼び止められた。
「圭くんと何話してたの?死因がどうとか祟りがどうとか聞こえたけど」
「関係ないでしょ」
「やっぱり……おばあちゃんが死んだ日になんかあったのね」
「違うって!」
立ち入りを禁じられた屋敷の北側、知らない子がまじった家族写真、鏡台の裏から聞こえた異音。
断片的な回想に胸が騒ぎ、金切り声で叫ぶ私をまっすぐ見詰め、父に肩を抱かれた母が告白する。
「十三回忌も終えたことだし、そろそろ時効だろうから話すけど……あんたにはもうひとり叔母さんがいるのよ」
「え?」
末っ子の名前はあぐり。
若い頃に家出し、音信不通になっているらしい。
手首に巻いた数珠をいじり母が話す。
「あぐりっていうのはね、女の子ばかり生まれる家の親が、これで最後の女児になるようのぞんで付ける名前なの。早い話が打ち止めを意味するわけ。生まれた子が上手く育たない家が娘の成長を祈って付ける説もあるけど、お母さんちは前者だった。二人続けて娘を産んだおばあちゃんは、女腹だの出来損ないだの随分辛く当たられたそうよ」
「酷い」
あぐりの語源は溢れる、もしくは余りだと母が補足する。
「おじいちゃんは跡継ぎを欲しがった。だけどとうとうめぐまれず……不憫な名前を付けた罪滅ぼしに、末っ子を甘やかした」
それが不幸のはじまり。
わがまま放題に育ったあぐりさんは過干渉な両親を次第に疎んじ始め、遂には十代で家を飛び出す。
「手紙一通よこさないんだから薄情な子よね。俺の目が黒いうちは絶対敷居跨がせないぞって、おじいちゃんカンカンだった」
「どうしてだまってたの」
「先に縁を切ったのはあっちよ。悪い男と駆け落ちしたの」
きまり悪げにため息を吐く。
「ろくでなしに盗られる位なら外に出さなきゃよかった、神様にお許しいただければ一から育て直すのにって、おばあちゃん悔やんでたわ。で、あぐりの名前はタブーになった」
「だからって今さら……」
母が肩を落とす。
「ホント言うと妬んでたの。あぐりは露骨に贔屓されてた。あんなに可愛がってもらったのに恩知らずなまねして、親の心子知らずだわ」
化粧箪笥に保管された日記には、行方知れずの娘の無事を祈り、連絡を待ち侘びる切実な心情が綴られていた。
「おばあちゃん……」
罪悪感に胸が痛む。
十三年ぶりに祖母の家を訪れたのは、子供時代のあやまちを詫びる為。
「ギシギシいうね」
「足元気を付けろよ」
事情を知った圭ちゃんも付いてきた。二人で廊下を歩き、障子を開け、埃っぽい和室に足を踏み入れる。
「あの鏡だ」
「まだあったんだ」
私と圭ちゃんがどかした位置から動いてない。察するに誰も戻さなかったらしい。
埃をかぶった鏡と壁を見比べ、本能的な違和感を抱く。
「鏡の跡じゃない」
「え?」
壁をなぞり線を示す。
「よく見て、四角い切れ目があるでしょ」
「ホントだ、うっすらと」
鏡の幅と同寸なせいで見落としていた。圭ちゃんと一緒に壁を押してみた所、歯軋りに似た音をたて戸がひっくり返り、下方へ続く階段が現れた。
「地下室……」
「防空壕の跡かも」
階段の踏み板が軋み、饐えた匂いが鼻を突く。
階段の下にはボロボロに傷んだ畳が敷かれ、おもちゃや絵本、文房具や教科書が散らばっていた。教科書の右下には油性ペンで「宮下あぐり」と書かれている。
「見て、あゆちゃん」
袖を引かれて向き直れば、使用済みっぽいあひるのおまるが待ち構えていた。
まるく無機質な瞳のおぞましさに耐えかね、圭ちゃんの手首を掴んで階段を上り、隠し扉の裏面を目の当たりにした。
「ひっ」
扉の裏面には夥しい引っ掻きキズが刻まれ、下に点々とスイカの種が散らばっている。
「……圭ちゃん、おばあちゃんが切ってくれたスイカ取り合いしたの覚えてる?あの時おばあちゃん、変な事言ったよね」
『こらこら喧嘩はやめて、みんなで仲良く分けっこなさい』
上下の歯を小刻みに鳴らす。
「みんなって誰?私と圭ちゃん、ふたりっきゃいなかったじゃん」
おばあちゃんが食べたのは一切れ。私と圭ちゃんは二切れで限界。なら、あと二切れは誰のぶん?
『余らせちゃもったいないからね』
圭ちゃんが理解不能な面持ちで硬直する。
「おばあちゃん、地下室の隠し戸を鏡で塞いでたんだ。何のために?」
「あぐりさんを監禁してたの」
推理が的中した。やっぱりあぐりさんがいたんだ。
彼女は今どこ?
生きてるの、死んでるの?
「警察行く?」
おそるおそる尋ねる圭ちゃんに首を振り、俯く。
「今さら行ってどうすんの。おばあちゃんが死んで十年以上たってるのよ」
可哀想なおばあちゃん。
可哀想なあぐりさん。
母たちとあぐりさんは年が離れている。
姉ふたりが遠くに嫁ぎ、祖父の他界と入れ違いにあぐりさんが出戻れば、その事を知るのは祖母だけ。
完全犯罪成立だ。
家を出た途端強烈な日差しが頭皮を炙り、干上がった道の向こうから若い女性が歩いてきた。
片手に花束を抱え、片手にアイスが入ったビニール袋を下げている。
脳裏に疑問が結ぶ。
「おばあちゃん、アイスを三本買って帰ったんだよね」
「それがどうしたんだよ、俺とあゆちゃんとばあちゃんで計算あってんじゃん」
「入れ歯にしてから冷たい物が染みるって避けてたんだよ、自分の分を買うはずない」
私の指摘に圭ちゃんが絶句、愕然と立ち尽くす。
「 と」
すれ違いざま長い髪がそよぎ、口角が上がった唇が覗く。
完全に虚を衝かれ、圭ちゃんに同意を求める。
「今ありがとって」
「空耳でしょ」
ゆっくり遠ざかる背中を眺めていると、隣家の引き戸がガタピシャ桟を滑り、記憶よりも老け込んだ主婦が出てきた。
「あゆちゃん圭ちゃん?やだっ、久しぶりじゃない!ふたりともすっかり大きくなっちゃって、見違えたわあ」
「その節はお世話になりました」
「あの時はホントびっくりしちゃった、回覧板渡しにきたら地面に仰向けになってるんだもの」
仰向けに。
もし石か何かに躓いて転んだなら、前に倒れ込まなきゃおかしい。
仰向けに倒れるのは正面から突き飛ばされた場合。
私たちは鏡をどかした。
隠し戸の押さえを取りのぞいた。
居間で勉強している最中、地下室から「何か」が逃げ出しても気付くまい。
同じ結論に至った圭ちゃんが黙り込み、主婦が思い出したように続ける。
「そうだ、知ってる?近くの藪で白骨遺体が見付かったって話、被害者は推定年齢二十代前半の女性だとか……誰が埋めたのかしら、怖いわあ。地元の警察にいる親戚にこっそり教えてもらったんだけど、その仏さんねェ、経産婦だったみたいよ。骨盤の開き方でわかるんですって。子供さんはどうしてるのかしら、可哀想に」
あぐりは若い身空で男と駆け落ちし、その後別れるか捨てられるかして、大きなお腹で出戻った。
もし。
子育てのやり直しを望んだ祖母が、娘の忘れ形見に名を引き継がせ、地下室に閉じ込めたなら。
『おかえり あぐり』
物凄い勢いで振り返り、陽炎に歪む田舎道に目を凝らす。
さっきすれ違った女性は藪に向かっていた。白骨死体の発見現場に。
炎天下の路上に立ち尽くし、独りごちる。
「……あぐりはね、ちゃんと打ち止めにしなきゃいけなかったんだよ」