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桃薔薇と魔法の恋  作者: ねるこ
4/5

後編

 エクトル様たちは、顔を見合わせて「どういうことだ……」と呟いている。話が違う、と言い出しそうな彼らを一瞥し、ロゼは首を傾げながら、表情一つ変えずに告げた。


「申し上げた通りです。私は四度に渡って忠告いたしましたが、公爵令嬢様に害されているという事実はなく、すべて殿下方の勘違いだと断言します」

「う、嘘だ。だって君は、あれほどまでに嫌がらせを受けていたじゃないか」

「嫌がらせとは、どのことを指しますか? 教科書が破れたことですか? あれは私が無意識下で風の魔力を操っても同様のことが起きますので、うっかり転寝をしたら起こりうるほどの些事かと。わざわざ気にするほどのことでもありません」

「噴水に突き落とされたとか……」

「確かに背中を押されたことはありますが、私はその程度で噴水に飛び込んだりしません。浮遊すればいいので。階段から突き落とされた件も同様です。噴水に入っていた日は記憶がありますが、水の魔力の欠乏を感じていたので最も効率的な摂取方法を試しました」


 そう。この学院でロゼを害するということが、そもそも不可能である。ロバート様でも顔を真っ青にするほどの強い魔術師であるロゼは、他人に害された程度で怪我はしないし、嫌がらせを嫌がらせとも感じない強靭なメンタルをお持ちだ。

 恐らく、殿下たちの筋書きはこう。ロゼが私たちの御せなかった派閥に害され、その責任を追及する()()をする。その問答を通して、殿下は私の妃という立場への決心を測るつもりだった。そのために、ロゼにも当然協力を頼んでいたはずだ。

 けれど、私だって社交界で戦う女性貴族、その頂点に立たなければならない人物だ。男性の心を掴むのが上手な女性は多いけれど、それと同じくらい、女性の心を掴むことだって私たちに求められていることだ。それはある意味で、見当外れで傲慢な方法を使って女性を御そうとする男よりも遥かに、女性の気を引く方法を知っているということである。

 完全に殿下方へ反旗を翻したロゼは、さらに追及を続ける。


「その背を押した方も、通りがかった公爵令嬢様方に厳しい注意を受けて反省なさっていましたが」

「そ、そんなもの、自作自演かもしれないだろう」

「そんなことをして、何のメリットが?」

「そ、それは……殿下の心証を、よくしたいからだとか」


 しどろもどろと側近のハルク様が答えられたのに、私は大きく息を吐き出したくなる。なんでそんな回りくどいことをしなければならないのか。それを尋ねようと口を開こうとした瞬間、ロゼがさらなる辛辣な言葉で私の代弁をしてくれた。


「……なぜそんなにも上から目線なのです?」


 ぐさっ。そんな音が、令息方全員から聞こえた気がした。けれどロゼは心底不思議そうに続ける。


「貴族の婚約というのは、両家のメリットがあるうえで結ばれることがほとんどで、書類上では権利は同等と学院で習いました。筆頭公爵家様の公爵令嬢様が心証をよくしなければ結婚が認められない程度には、この結婚による殿下のメリットは薄いのですか?」

「いや……それは……」

「お答えします、ロゼさん。第一王子殿下の立太子、および国王としての即位を補助するのにおいて、もっとも強固な後ろ盾を持つのが我が家だからです。もしも殿下が婚約を破棄して私以外の他家の人間と婚約を結ぶ場合は、第二王子との王位継承権争いが発生する可能性があります」

「それって、殿下にとってはメリットしかない話ですよね。なのに、なぜ公爵令嬢様が心証をよくしなければ相手にされないような話になっているんですか」


 純粋な言葉の刃が、殿下方を襲う。先ほど軽率に上から目線の言葉を将来の王太子妃に吐いた側近のハルク様は、もうすでに顔を青ざめさせてぶるぶると震え始めている。私はエクトル様の側近で一番問題があるのはこの方だと常々思っていたので、せっかくだから分からせておこうと思い、追い打ちをかけた。


「あなた方の立場など、私が気まぐれを起こせば吹いて消える立場ですのに、どうしてこうも横柄に物事を捉えていらっしゃるのかしら」

「……っ」

「私は公爵家の者でありあなたは侯爵家。この時点で序列は私の方が上で、しかも私はエクトル第一王子殿下の婚約者であり、準王族として認められている。あなたの先ほどの言動は、私がその気になれば不敬と断ずることができるの、お分かり?」


 男だというだけで、たかが侯爵家の令息が準王族の私を見下すなどととんでもない。父が聞いたらどう動くだろうか。確かにハルク様の家は由緒ある家柄で王家ともそれなりに縁がある家ではありますけれど、所詮は序列がそこまで高くない一侯爵家に過ぎない。筆頭公爵家たる我が家がその気になれば、政界からつまみ出すことなど造作もない。


「目障りね。潰してしまおうかしら」

「……っ!」

「イナンナ! やりすぎだ」

「あら、第一王子殿下。私を諫めるよりも先に、自分の部下の不始末の謝罪を促す方が優先順位が高いのではないですか? それとも、第一王子殿下も、ですか? あなたも、ほかの令息と同じですか?」


 私がエクトル様、と名前を呼ばずに肩書で呼んだことで、どうやらエクトル様にも、私が本気で憤っていることが伝わったらしい。私はエクトル様に冷たい眼差しを向けて、酷薄に言い切った。


「私が女だから、謝る価値などないと仰るの?」


 そう告げれば、エクトル様は顔を青白くして、首を横に振り、ハルク様へと謝罪を促した。ハルク様は、このときはじめて私という女に対して恐怖を感じたらしく、膝を折って額を地面へと擦り付け、震えた声で命乞いをした。それを見下ろして、私は小さく息を吐き出した。


「殿下。婚約破棄、私としては謹んでお受けしてもよろしくってよ。けれど、国王陛下と公爵の間で、ちゃんと契約を確認してもらわねばこの件は進みませんので、そのようにお願いいたしますわ」

「な……ち、違う、違うよイナンナ! 私は君と婚約破棄をするつもりなど」

「では、先ほどの言葉、どういうことか説明していただいてもよろしくて?」


 いくらでも誤魔化しが聞く言葉選びをすれば良いのに、彼はわざわざ婚約破棄などという言葉を使った。恐らくこれは原作の強制力だったのだと思うが、もともと分かっていた。彼は本当に婚約破棄をするつもりなどないと。

 私は王太子妃候補にしては消極的だ。エクトル様はそんな私に、今のままでは候補が揺らぐと叫び続けた。断罪に怯えていた私に王太子妃の資質はない、それは事実だ。ここで婚約破棄を仄めかし、私がみっともなく縋ったとしたら、私に王太子妃は務まらないかもしれない。その時、エクトル様は私を守るためにどう動くべきなのか、それを見極めなければならなかった。

 たとえ王太子妃の資質がなくとも、私を隣に迎えたいから。彼女(ロゼ)から情報を流してもらい、父とよく話し合ってその結論に至った私は、悪役令嬢(イナンナ)が原作で歩んだ茨の道を、避け続けただけの臆病者なのだと自覚した。

 まぁ、そのルートだと、私は一生エクトル様に見くびられてしまうので、それはそれで嫌なのだけれど。でも、自分の力で生きて来たロゼと比べて、茨の道を避け続けて蝶よ花よと育てられた私のなんと情けないこと。

 だから私は、正面から殿下に示すことにしたのだ。私には、この国の国母になる覚悟があるのだと。


 ――それでも、シナリオによって婚約破棄を叫ばされた殿下には、若干の同情がある。私の知っているエクトル様は、私の覚悟を試すために、婚約破棄などという言葉を吐いたりはしない。

 では、なぜ婚約破棄などということになったのか。その説明を要求すれば、殿下方は口を噤んだ。最も、私たちはもうすでに、殿下たちがこの婚約破棄騒動を起こそうとした理由に推理が及んでいた。


 そもそも、小説であっても、婚約破棄がそう簡単に成り立つものだろうか。または、家に利益があるにもかかわらず、婚約を破棄する理由があるのだろうか。

 ロゼは平民だ。今は男爵令嬢――になっているかすらも怪しい。例の男爵がしつこく養父になろうとしていたようだが、ロゼもギルドマスターも相手にしていないという噂なので、男爵令嬢になったという噂そのものが嘘かもしれない。そんなロゼを囲うのに、高位貴族の令息たちが正妻を手放そうとも思わないはずだ。

 そもそも、ロゼからここまで相手にされていないのだから、愛妾として迎えるのも絶望的。そんなことは彼らだって分かっている。それでも、こんな騒ぎを起こした理由。

 それは、各々が婚約者に不満があるから。それに他ならない。

 だから殿下は、側近となる者たちが、もう一度改めて婚約について各々の婚約者たちと話し合えるように――これほど仲が良く、利害も一致している私たちが婚約の破棄を匂わせるような問答をすることで、各々の婚約者の()()()()()に危機感を持たせることを考えたのだと思う。そしてそれは恐らく、婚約破棄の流れから生じた強制力の一環だ。


「殿下たちは、私たちに思うところがあり、婚約における優位がどちらなのか、示そうとした」


 私がぽつりとつぶやけば、彼らははっとした顔をする。

 原作ではキラキラとした魅力的な恋愛対象として描かれる彼ら。けれど、この国に生まれた以上は、彼らは当たり前のように男尊女卑の風潮を飲み込み、婚約関係においても自分が優位だと思っている。そんな彼らを煩わせる婚約者たちをある意味で見下している、とも言える。

 聞けば、各々の婚約者の令嬢もそれぞれ問題を抱えていた。彼女らだって、小説の中では悪役令嬢として描かれる令嬢方だ。散財したり、相手の趣味を(なじ)ったり、記念日でもないのに高価な贈り物を要求したり、幼馴染との関係を清算してなかったり。それらを互いに謝ることもなく、ただ自分が優位に立つだけの争いを水面下でしていた。

 貴族らしいと言えばそうだけれど、そりゃ軋轢(あつれき)も生まれるでしょ! という話である。


「殿下。そして側近の皆さま方も、そしてこちらの皆さま方も。それぞれ、ちゃんと話し合いの機会を持つべきかと存じますわ」


 足の引っ張り合いでは、何も変わらない。恐らく、原作ではそれを変えてくれるのがロゼなのだ。

 ロゼは相手を重んじ、相手を尊敬し、丁寧に向き合う。美醜併せ持ってこその人間、決して醜い部分を否定しなかったからこそ、彼女はヒロインだった。

 この世界のロゼは――無意識に正論で相手をボコボコにしてしまうタイプなので、やっぱりズレていると思うが。


「……だが、断罪、しなければ。だん、ざい……何、を……?」


 ああ、なるほど。シナリオをなぞらねば、あるいはどこかで帳尻を合わせなければならないということか。殿下の言動に誰も疑問を抱いていない――強いて言えば、私とロゼくらいだろうか。この状況を異質だと考えているのは。

 だとすれば、断罪相手を別に用意してやれば、もしかしたら問題なく進むのでは。そう思った私は、ロゼに声を掛けた。


「ロゼさん」

「はい」

「エクトル様に、あなたの困りごとの話をして差し上げたら? 今、殿下は誰かを裁かなければならないというお告げに囚われているようだわ」


 私が促せば、ロゼはこくりと頷いた。私もこの話を聞いたときには、流石にバカらしすぎて声も出なかったのだけれど――ちょうどいい。私も、彼女の振る舞いには辟易としていたところだったので。


「な、なんだいロゼ。困っているのか?」

「はい。殿下は、私の胸元にぶら下がっていた宝石についてご存じですよね」

「ああ。あの綺麗な七色の宝石だろう? 確か――ウィザード・マリンという超希少鉱石だと聞いた」


 ウィザード・マリン。物語の中で出てくる、魔法の宝石だ。曰く、古くからある鉱山の、瘴気の奥――つまり地下の方に生息するというドラゴンが体内で生成するという幻の宝石だ。私も実物を見たことがないので、知らなかったのだが。何と、ロゼがいつも身に着けていたあの美しい七色の宝石が、それにあたるだなんて。

 大陸でもまったく出回っていない幻の鉱石を前に、淑女たちは色めき立った。


宝石龍(ジュエルドラゴン)は討伐難易度SSランクの幻獣です。私は4年前に、そのモンスターを退治しました。宝石龍の体内で生成されていたウィザード・マリンは宝飾品としても高い価値を持ちますが、それ以上に魔力を留めておく蓄積装置として優秀です。私はウィザード・マリンを換金せずに、魔力を高める手段として所持していました」

「そんなに希少なものだったとは……そういえば、今日はウィザード・マリンを身に着けていないね。どうしたんだい?」

「窃盗に遭いました。犯人は私のクラスの侯爵令嬢様。三日前から、皆の前でウィザード・マリンをつけて自慢していらっしゃいます」


 ロゼの言うことには「庶民が宝石なんて見苦しい。身の程を知りなさい。私が貢物として貰って差し上げます、感謝なさい」と言われながら堂々と目の前で窃盗をされたのだという。無知とは罪だ。あの宝石がどれほどに価値のあるものか分からない娘が、庶民からものを取り上げても罰されないからと堂々と盗みを働くなどと。

 庶民からものを取り上げても許されないとは言っても限度はある。例えば、それがとてつもない高価なものだったりとか、人権だったりとか、衣食住を脅かすものだったりとか。そんなことをすれば、たとえ貴族であっても立場が危うくなるなんてわざわざ言うまでもない。貴族の家においても高価とされる宝飾品を平民から窃盗するなどと、貴族にとっては大きな醜聞だ。金と権力にものを言わせて見栄を張ってこその貴族なのに、よりにもよって自分の財布から手が出せないから窃盗した、などという醜聞となったら、侯爵家もろとも貴族社会からはじき出されるかもしれない。


「私では貴族を訴える手順が分からないので、殿下方のお力をお借りしたいと存じます」

「あ、ああ。もちろんだ。証拠になるようなものがあれば預かろう」

「証拠がいくつかと、アイデアがあります。まず一点、私の宝石龍の素材換金証明書と、ウィザード・マリンの鑑定書がここにあります。鑑定が済んだ宝石には不可視の魔法でシリアルがふられるので、この書類に書いてあるシリアルと一致すれば、侯爵令嬢様が所持している宝石が、私が鑑定したものと同一と断言できます」


 ロゼは鞄の中からごそごそと書類を取り出して、殿下に渡す。――と、殿下はかちりと固まった。それを後ろから見た、宰相の息子のディラック様も。


「320億ジェニー……!?」

「ウィザード・マリンの相場はだいたい280億ジェニーほどですが、倒した宝石龍が少し大きかったため、宝石も一回り大きくなり、割高になりました」


 320億ジェニー――とてもではないが、一介の侯爵令嬢風情が、ポケットマネーから出せるような額じゃない。それだけのお金があれば、領地で一つ大きな事業を興すことができる。ディラック様がはっとして眼鏡を押し上げながら、口を開いた。


「宝石の売却には、古物取引法により、鑑定書通りの対価を支払う必要があると義務付けていますね」

「はい。つまり、侯爵令嬢様の家の金の流れを調べて、つい最近320億ジェニーの金の移動があったかどうかを調べれば、この件が窃盗であると証明できるかと。不正な方法で320億の辻褄を合わせることはできますか?」

「無理だろうね。こんな大金なら、精査が入るはずだ。不正の可能性がある以上は、どんな方法で誤魔化したとしても、その用途を調べるまで調査員は納得しない」


 まさか誰も、平民のロゼが首から下げていたあの宝石が、そこまで価値のあるものだと思わなかったのだろう。多くの宝石は、鑑定しなければ本物か贋作かを見極めることは困難だ。たまに、宝石ではないただの石ころを掴まされる哀れな貴族もいるくらいだ。


「それと、最後に一つ。あの宝石には、私の126日分の魔力がこもっています。魔力痕を探れば一発かと」

「126日分? そんな魔力を何に使うんだ?」

「モンスター討伐です。災厄の獣(ベヒモス)を討伐したときは、254日分の魔力を使用しました」


 Sランクモンスターを自力で討伐できる彼女の強さの秘密が、そこにあったのだと皆が驚いた。


 その後、殿下たちはそれぞれが俊敏に動き、すぐに窃盗だと特定し、侯爵家をつるし上げた。娘は「平民からものを貢がせて何が悪いの」と喚いていたそうだが、娘が一流の冒険者から320億もの価値のある宝石を窃盗していたことを知った侯爵夫妻は、娘を直ちに衛兵に突き出し、領地と爵位を王家へ返還した。

 その冒険者が王家の寵愛する者だと知っていたからだ。娘の窃盗だけなのでそれだけで済んだが、もしも国王から下賜されていたものに手を付けていたとしたら、一族連座で処刑ともなっていたかもしれない。この事件は、ロゼを気軽に虐めていた貴族の子女たちを震撼させ、一歩間違えれば自分たちもああなっていたのだと自覚するには十分だったそうだ。


◆◇◆


 あの後、私たちは各々が自分の婚約者と存分に語り合った。その結果を簡潔に述べると、人それぞれの結果となった、という形だ。

 たとえばハルク様のお家は、侯爵自身がロゼの力に目が眩んで、婚約者を蔑ろにして愛人を囲えと指示したのがエルウィ様のご両親に伝わり、エルウィ様のご実家がひどく憤り婚約が白紙となった。侯爵はそれに対しても当初は渋い顔をしていたが、その事実を知り憤った夫人が、独断で幼い息女を連れて領地に行ったと聞いて顔を青ざめさせ、自分の行ないを恥じて早々に爵位の継承と家督の相続の準備を進めているという。ハルク様はこの一連の事件で、自分がいかに女性を見下していたかを実感し、家督の相続権を次男へと譲って、自身は生涯独身を覚悟しながら、王子の側に仕えることを誓ったそうだ。

 オリバー様は、婚約者がわがまま放題なのを理由にして、面倒だと思うときには、突然でも会う約束を反故にしてもいいというのは自分の権利だと思っていたそうだ。埋め合わせはしていたし、マリィ様はよく高価な贈り物を強請っていらっしゃったので、それを適当にこなしていればひとまず義務は果たせると、何とも相手を軽んじていたことをお認めになった。けれども、マリィ様にも問題があることをきちんと指摘し、理性的に当主を交えて話し合いをしたところ、双方納得の上で婚約解消ということになったそうだ。


 ディルック様やロバート様も婚約者との間にあった溝を丁寧に埋め合って、今はぎこちなくとも互いに尊重できるように、信頼関係を相互で回復中だ。あれほどに仲が良かった私とエクトル様が、緊張感のある諍いを演じたことで、本音をぶつけ合うことも大切なのだとお気づきになり、話し合うきっかけができて良かったと思う。


 そして、エクトル様はというと――あの後すぐに、婚約破棄という言葉を使ったことに対する謝罪が入った。自分でもなぜあのような言葉を口にしたのか理解できず、けれど自分の口から出てしまったものである以上は、責任を取る必要がある。そう告げられて、私は公爵邸の応接間で、少し顔色の悪い彼と向かい合っていた。


「もしもイナンナが、僕に失望したのなら――婚約破棄は、僕の有責で受け入れようと思う。一国の主となるべき血族の人間が、このような軽率な発言をしたのだ。君が望むなら、君との婚約を破棄し、君の嫁ぎ先を探した後で、私は王位継承権を放棄し、臣下に――」

「エクトル様、落ち着いてくださいませ。……あの場では、ロゼさん以外の皆さんが冷静ではありませんでした。幸いにして聞いていたのは殿下の側にいらっしゃる方々と私の友人たち、そしてロゼさんだけです。私たちが広めなければ、これ以上に広まることはありませんわ」


 断罪のしわ寄せは、すべて例の侯爵令嬢に行った。窃盗のみならず、賊を雇ってロゼを襲わせたり、階段から突き落としたりと、殺人教唆や殺人未遂の容疑が掛けられた。とはいっても、ロゼは賊ごときが相手にできるような存在ではなくすべて返り討ちにしてしまったそうだ。階段から突き落とされたときも、風魔法を使って優雅に着地していたという。

 ()()()()()()()()()()()()()という原作にある通りの結末を迎えてからは、何となく胸の内が()いていた。もう怯えなくていいのだと、漠然と感じていたからだ。

 この結末を迎えた以上は、私が殿下との婚約を危機と思う動機は消え失せた。原作の強制力で突き付けられた婚約破棄は空っぽで、意味のないものだった。


「……殿下。私は、甘えておりましたのね。自分のことしか考えておらず、迎えられるかも分からない未来の杞憂ばかりをこの胸に秘めて、保身に必死でした」

「イナンナはよくやってくれたよ。よく、あの無秩序な女性貴族たちをまとめてくれた」

「ええ。ですが、殿下にあのとき忠告されなければ、私はきっと、殿下からの婚約破棄の言葉に立ち直れませんでした。自分は何もしていないのに被害者の顔をして、殿下は私を捨てたのだと悲劇のヒロインのように責任転嫁をして、逃げていたということは想像に難くありません」


 行動をしないものに未来は訪れない。決まってしまっていた断罪の未来を抱える、業の深い悪役令嬢に生まれてしまった私にとっては、それは必須だった。それなのに、ロゼを巡って学院が揺れ始めた時期に、よりにもよって私が一番に行なった行動は、自分は悪くないとみっともなく騒ぐことだった。

 その様子にエクトル様が危機感を覚えてしまったのだとしたら、私は本当に妃に相応しくなかったのだろう。だからこそ、殿下の隣にいるためには、私は変わらなければならなかった。


 薔薇の花びらが敷き詰められた真紅の道を歩くためには、そこかしこに隠れた茨だって踏み越えて行かなければならないのに。私は未来を恐れるあまり、自らに与えられた役割を放棄してしまうところだった。


「エクトル様。私の資質は、見極めていただけましたか。私は、あなたの隣に相応しい人間ですか」

「相応しい、などと。私の立場から言えるようなものではない。この身は不実を犯した。君が許しを与えてくれると言うならば、もう二度と君に不安を抱かせるような振る舞いはしないと誓うよ」

「では、婚約破棄の四文字は聞かなかったことに。私はあなたの妃として、生涯あなたの側にいることを望みます」

「イナンナ……愛している」


 エクトル様は、弾かれたように立ち上がり、机を回り込んで立ち上がった私を抱きしめて、そのまましばらくの間、ずっと声を押し殺して泣いていた気がした。

 長い、十数年間だった。私にとっては、死という未来からの逃亡劇。けれど、私の周りには色んな人がいて、手を貸してくれて、支えてくれて――立ち向かうことができた。

 私はこの先も一緒に歩いていく。エクトル様と一緒に。悪役令嬢の役割は返上し、この先は誰も知らない二次創作。

 でも、私にとってはこの人生もまた、一度きりの人生だ。そう思って、エクトル様の温もりを愛しく思っていた。

次の後日談はネタばらし+αです。

転生要素が色濃く、現代日本におけるスラングやミーム、要素等がたくさん出てきます。

異世界にその手のものを、転生物であるとはいえ持ち込みたくない方はここで止めることを推奨します。

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