プロローグ
今日まで、色々なことがあった。自分にできる努力はすべてしたつもりだった。運命を変えようと思っていた。
「イナンナ、君との婚約は破棄するよ。君は結局、妃としての役目を果たせないようだ」
私の目の前で悲しげな顔をしてそう告げるのは、私の婚約者の第一王子、エクトル様。私の身分は、国の筆頭公爵家の長女だ。家格的にも釣り合いが取れ、仲も睦まじく、国の未来は安泰だと、そういわれていた私たちの関係。
そんな関係が捻じ曲がったのは、彼女が現れてから。
エクトル様に庇われるようにして後ろに立ち尽くしているのは、薄桃色の髪を腰まで伸ばした、とても美しい女性。桃色の薔薇のような淑やかさと、黄金に輝く宝石のような瞳を持つ少女は、背筋をしっかりと伸ばして、その場に立ち尽くしていた。ロゼ、という平民の少女だ。一時期は男爵令嬢になったとかいう噂も流れていたけれど、結局彼女は平民のままだっただろうか。
あどけなさを残す容姿とは裏腹に、物静かさと諦観を両立させたような、どこか達観したような空気感を持つ独特な女性は、今までに貴族のコミュニティの中にはいないタイプの人物だった。
でも、捻じ曲がったのも仕方のないことだった。この世界はあらかじめ決められたいくつかの結末に分岐するだけで、私はその舞台を盛り上げる装置の一つ。王子殿下の初めての恋の邪魔をする、悪役令嬢なのだから。
この世界が作り物の世界を基にした、よく似た世界だと気づいたのは、幼い頃。癇癪を起こしてベッドから転がり落ちた私、イナンナは頭を強く打って、その瞬間に打った痛みとは別種の頭痛に襲われた。それによって、この世界がとある恋愛小説の舞台と一致していると自覚して、私は絶望した。イナンナは、主人公であるロゼと、その愛する人との仲を引き裂く悪役として描かれていた女性だからだ。
きつめの目元に、傲慢な性格。品のないと評されても仕方のないほど、贅の限りを尽くして体中を飾り立て、公爵令嬢という肩書を使って、暴虐の限りを尽くし、多くの人間を恐怖に陥れている社交界の問題児。
それが、イナンナという女性だった。けれど、私がその記憶を思い出してからは、イナンナの更生に励んだのだ。父母と兄との関係を改善し、控えめで淑やかな令嬢になるように努力し、婚約者との関係も改善した。何の問題もなかったはずなのに――あの子が現れてから、婚約者は憑き物が落ちたかのように、彼女に夢中になってしまった。
その様子は、まるで私が間違っていたのだと。私が王子を魔法で魅了して、従わせていたのではないかと疑われるほどに、自然に、彼女に惹かれていったのだ。
今日まで、できることを全てやった。そうして迎えた日に告げられたのは、婚約破棄という言葉だった。
ただ一つだけ、言えることがあるのだとすれば。運命は確実に、変わってはいたのだということ。変えられなかったのは、婚約破棄が宣言される、そのただ一点だったということ。
小説の中では、宣言がされたのは大きな夜会の最中だった。煌びやかなドレスを身に纏い、周囲には国中の貴族の目があった、そんな状況で、イナンナは自分の悪事を暴露され、再起不能になるまで叩きのめされた。
けれど、今、婚約破棄を宣言されているのは、学院の裏庭だった。人気のない場所で、いるのは彼の側近数名――これらも同様に彼女の魅力に憑りつかれている――と、私を慮っていつも一緒にいてくれる友人たち――人によっては取り巻き、と表現する――と、ロゼだけ。婚約の契約変更について話し合うなら、小説の舞台よりも遥かに良心的だ。
そして、何よりも。こんな騒動の渦中にあっても、今晩の夕餉の献立でも考えていそうなほどに諦観と達観を秘めた黄金の瞳を虚へと向けて、困惑しきったように立ち尽くす彼女の存在を見て、私は不思議なほどに安堵しきっていた。断罪される未来はあり得ないと。
「ロゼ。今こそ、君の口から告げてほしい。この学院で何が行なわれていたのかを」
そうやって話を振られると、彼女は我に帰って、じっとエクトル様を見上げた。そうして、首を傾げて、淡々と言い放った。
「いえ。この言葉を申し上げるのは、私が知る限り5回目だと思いますが、公爵令嬢様に害されているという事実は断片的にも存在しません」
恋愛小説の主人公である彼女は、私の予想の遥か斜め45度上の原作崩壊をしていた。