船の上
*
紀伊水道の穏やかな波の上を、大きな船が滑るように進む。船が通った後には白い泡の線が残り、まるで海に巨大な一本の白線が引いてあるように見える。
風はない。空には雲もない。四月に入ったばかりのわりには暖かい日であった。この分だと桜の開花も近いだろう。
船は徳島県に向かっていた。和歌山港を出港した時間から逆算すれば、あと一時間もすれば徳島港に着くだろう。
甲板で海をぼんやりと見ながら、不動望夢はもう春だなあ、と暢気なことを考えていた。
のんびりとした佇まい。少し丈の余った詰め襟の学生服。良く言えば物静かそうな、悪く言えば大して特徴のない顔立ち。男子としては高くはないが、女子より低くはない身長。長くも短くもない中途半端な髪。この頼りなさそうな少年は、ついこの間までは見た目通りの、どこにでもいるごく普通の少年であった。
甲板に立つ望夢のすぐ後ろには、120ミリを超える速射砲や20ミリ機関砲、魚雷発射機などの兵装が堂々と鎮座しており、彼の隣に大きな日陰を作っている。
彼が立っているのは、海上自衛隊の無骨な護衛艦、いわゆる戦艦の甲板であった。そして周囲にはこの船と同じような護衛艦が五隻、V字隊列で進んでいる。
かつて和歌山県と徳島県を海で繋いでいた南海フェリーはもう無い。
なぜなら現在、四国はモウリョウと呼ばれる未知の生命体が跳梁跋扈する超危険地域で、政府によって民間人の移入が禁止されているからだ。なのでどうしても四国に渡る際は、こうして海上自衛隊の協力を仰がなければならないのだ。
「う~ん……」
背後で奇妙な声がしたので振り返ると、速射砲の陰に作業服姿の男性が座り込んでいた。
男は額にずらしていた眼鏡をかけ直すと、こちらを見ている望夢に気がつく。するとサボっているのが見つかったにもかかわらず、堂々とした声で言った。
「おいボウズ、将棋わかるか?」
「え?」
咄嗟に答えられずにいると、男は持っている本の表紙を望夢に見せた。月刊の将棋雑誌だった。
「まあ、少しくらいなら」
「少しか。まあいい。お前さん、こいつが解けるか?」
男に近づいて本を覗き込むと、詰将棋が載っていた。毎月プロが読者に問題を出して、これが解けたら貴方はだいたいこのぐらいのレベルですよと示してくれるコーナーのようだ。男が悩んでいる問題の難易度は、アマ五段と書いていた。
「ここから七手で詰めると書いてあるんだが、俺にはどうしてもあと一手足りねえ」
「はあ……」
解いてみろと言わんばかりに将棋雑誌を突きつけられ、仕方なく望夢は手に取る。
さっきは「少しくらい」と言ったが、将棋は駒の動かし方を知っているくらいだった。だが望夢は昔からこういうゲームは得意で、特に勉強や訓練などをしなくても、敵と味方両方の情報があれば勝利への道を導き出せた。
「できました」
「本当か!?」
あまりの早さに、男は驚きの声を上げる。
「本当ですよ。まずこうして――」
望夢が七手で詰む方法を説明すると、男は「なるほど……」と唸って納得する。
「そ、それじゃあ――」
男は慌てて望夢の手から将棋雑誌を奪い取ると、急いでページをめくる。
「次はこいつを解いてみろ」
そう言って広げたページの問題は、さっきのよりもさらに難易度が上がっていた。
しかしそれすらも、望夢はあっさりと解いてしまった。
「だったらこれならどうだ!?」
それから男はムキになったように、望夢に問題を解かせた。そして出された問題全てを解くと、男は呆れたように言った。
「どこが『少しくらい』なんだよ、謙遜しやがって……。お前、今すぐ引き返して奨励会に入った方がいいんじゃねえか?」
「はあ……」
唐突に将棋のプロになることを推され、望夢は苦笑する。
「でもぼくは、やらなきゃいけないことがあるんです」
「おいおいボウズ、お前さん、自分の才能に気がついてないのか? 今からだって遅くねえ。きちんとした先生についてちゃんと勉強すれば、すぐにだってプロになれるんだぜ。なのにわざわざこんな――」
「危険で無謀だっていうのは、わかっています。けどぼくは、やらなきゃいけないんです」
望夢がもう一度言うと、男は勿体ないと言うような渋い顔をする。だが望夢の目を見ると、大きく溜め息をついた。
「そうか。そこまで言うんじゃあ仕方がない。だけどボウズ、人間誰もがやりたいことをやって生きられるわけじゃねえんだぜ」
不思議と男からは説教臭いものは感じられなかった。恐らくそれは、男が自分の人生で得た経験による言葉だからであろう。
「まあそれでもやりたいってえんなら、俺がどうこう言う筋合いはねえ。けど男が一度決めたからには、途中で簡単に投げ出すんじゃねえぞ」
「はい」
「頑張りなよ」
男がにやりと笑うと、望夢も笑顔で応えた。