プロローグ
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愛媛県西条市南部。石鎚山と呼ばれる、近畿以西の西日本最高峰の山がある。日本百名山、日本百景の一つであり、ハードな岩場や危険な箇所が多いにも拘らず人気があり、シーズン中は多くの登山客が訪れていた。
だが今は、かつてのような登山客はいない。
少なくとも今この山にいる者たちは、登山を楽しむような余裕はなかった。
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黒木麗奈は荒い息を吐きながら、170センチの長身をすっぽり隠すほどの大岩の陰に隠れていた。
よく日に焼けた顔が、今では汗や泥で汚れてさらに黒くなっている。軽く色を抜いて後ろでくくった髪も土まみれで、こんなことは早く切り上げてシャワーを浴びたくなる。引き締まった身体を包む戦闘服も、ただでさえ野暮ったいデザインが気に入らないのに汗で貼りついて気持ち悪く、おまけにあちこち汚れて気分最悪。特に彼女の気分を滅入らせたのは、岩場を転げまわった時にズボンの膝に開いた穴。裁縫は苦手なのだ。家事で苦手なのはそれだけではないが。
岩の陰に隠れ、酸欠でぼやける頭を気合でフル回転させる。だがいくら考えても、ここから逆転できる策は思い浮かばなかった。このままではここもいずれ奴らに見つかり、すぐにでも取り囲まれるだろう。
気がつけば、先ほどまで聞こえていた援護射撃が止んでいる。きっと隠れている場所がバレて、襲われたのだろう。狙撃手のくせに、移動をサボって同じ場所で撃ち続ける癖があるからだ。後でスクワット百回の刑。
自分と一緒に前に出た前衛の二人は、とっくの昔に無線が通じなくなっている。将棋の香車のように真っ直ぐ突進しかできないあの性格では、どの道長くはもたなかっただろう。まあ自分も似たようなものだが。
そうしているうちに、呼吸が整ってきた。それと同時に、自分の呼吸音以外の音が耳に届いた。
小石同士がぶつかって軋む音。何者かが近づいてくる足音だ。
ようやく落ち着いた心臓が、どきりと跳ねる。
足音は同時に複数あったが、相手の足が二本だけとは限らないので正確な数はわからない。自分たちが相手をしているのは、そういう者たちだ。
背にした岩から、光を反射させないように慎重にコンパクトの鏡を覗かせ、足音の主を探る。やはり足が多いタイプだった。虫タイプの一種である、ムカデ型のモウリョウが一体だった。
ムカデ型は人よりもわずかに大きいモウリョウで、ムカデの身体にクワガタの頭を無理やりくっつけたような格好をしている。全身が硬い殻に覆われ、胴体から伸びる何本もの触手めいた足を器用に動かしてこちらに向かって近づいてくる。頭がクワガタと言っても似ているのは側頭部から生える二本のツノだけで、本来目のあるところには目はなく、顔の中央にサッカーボール大の複眼が一つあるだけ。初めて見た時はあまりにも虫っぽくて嫌悪感が湧いたが、今では一対一なら麗奈にとっては何てことない相手だ。
やるか、と麗奈は確認するようにこぶしを握る。小指から薬指中指と順番に折りたたみ、最後に親指でぐっと締める空手の基本の握り方。
相手がまだこちらに気がついていない今なら、奇襲をかけて比較的安全に沈黙させられる。そうやって一体ずつ片づけていけば、たとえ相手が三体でも自分一人でも何とかなるかもしれない。
そうと決めたら話は早い。岩陰でコソコソ隠れているのはもうやめだ。身体中砂や泥まみれにされた鬱憤を、あいつにぶつけてやろう。
何も知らずにこちらに向かって来るモウリョウに奇襲をかけるべく、麗奈がタイミングを計る。
だが次の瞬間、全く予期せぬ方向から、何かがこっちに近づいてくる気配を感じた。
「しまっ……」
気づいた時にはもう遅かった。
足音を消した別のムカデ型モウリョウが二体、麗奈の前に回り込んでいた。岩の背後から来ている奴は、彼女の注意を惹きつける囮だったのだ。
正面から襲いかかる二体の触手を、咄嗟に両腕を十字に交叉して受ける。顔面への直撃は避けられたが、鞭のようにしなる強固な触手に打たれ、戦闘服の袖が破け皮膚が裂ける。
「くっ!」
モウリョウから飛びのいて距離を取る。両腕は打たれた激痛で痺れているが、戦闘不能というわけではない。それはまだ自分が動けていることが証明している。
しかし待ち伏せから一転して、三対一と不利な状況になってしまった。本来なら、このタイプのモウリョウは、麗奈なら一対一であればまず負けない相手である。
だが同時に三体を相手にするには、麗奈の空手では荷が重い。
それでも五体満足なら、あるいは勝機があったかもしれない。だが今は頼りの両腕がさっきの攻撃で満足に使えない状態である。
詰みである。
じわじわと迫る敗北の足音に、麗奈は歯ぎしりするほど奥歯を噛み締める。
また負けるのか。
どうして昔のように、戦えないのか。
怒りが湧いてくるが、それはモウリョウに対してのものではない。かつてのように戦えない、自分たちに向けての怒りであった。
今日だって昔のようにやれば、勝てない相手ではなかった。少なくとも自分一人が孤立して、三対一の態勢にになることはなかっただろう。
いや、過去のことなど考えても仕方ない。
これが今の、自分たちの現実だ。
変えなければならない。
このままでは駄目だ。
やはり自分がリーダーでは駄目なのだ。
だけどもう、彼女はいない。
自分たちの能力を完全に引き出してくれた隊長は、もうここにはいないのだ。
ならどうすれば良いのか。
いくら考えても答えは出なかった。
ただでさえ不利な状況の中、集中力を欠いた麗奈に三体のモウリョウが襲いかかる。
もう駄目だ――諦めかけたその時
正面のモウリョウの側頭部が爆ぜた。
『命中ッス』
光る塵となって散るモウリョウを愕然と見つめる麗奈の耳に、狙撃手の得意げな声が届く。とっくにやられていたと思ったが、いつの間にこちらを援護できる位置に移動していたのか。コイツ、普段からこれをやれていれば、もっと楽に勝てたものを。
愚痴を言っている暇は無い。襲い来る敵はまだ二体残っている。
残るは麗奈から見て左右に一体ずつ。モウリョウには恐怖心も仲間意識も無いのか、今しがた頭を撃ち抜かれた同種を見ても、まったく怯む様子もなく向かってくる。
タイミングはほとんど同時。左右どちらを相手にするにしても、必ずもう片方に致命的な攻撃を喰らうことは免れない。
ならばここは覚悟を決めて、どちらか一体だけでも道連れに。
銃声が遅れて響く中、麗奈が決死の覚悟を決めている間に、
『チェストおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぁぁッ!!』
雷鳴のような気合の声と共に、右のモウリョウが胴体から真っ二つになり、
『アィガッチュウッ!!』
左のモウリョウはトラックの突進のような勢いでラリアットを喰らって、頭部と胴体が別れながら10メートルほど吹っ飛んだ。二体のモウリョウは同時に光塵となって消滅する。
「な……」
せっかく覚悟を決めたのに、一瞬で二体のモウリョウが倒され、麗奈は拍子抜けしたように息を吐く。
麗奈の横を、土煙を上げる勢いで駆け抜ける二つの影。
片や、滑るように軽やかな足運びを見せるのは、日本刀を持った長い黒髪の女剣士。
片や、スーパーヒーロー着地の体勢で地面を抉りながら力任せにブレーキをかけるのは、並外れた体躯を持った金髪の女闘士。
どちらも麗奈の仲間であった。
そして、
『いやあ、お見事。タイミングばっちりだったね』
このチームの現リーダー、不動望夢の楽しそうな声が無線から響いた。
『ノゾムの指示が良かったからネ』
『けどのぞみん、レナっちの無線だけ切ってたのは、どうしてッスか?』
『それは……』
ごにょごにょと望夢が口ごもる中、麗奈はどうして途中から仲間との通信が途絶えたのか思い当たった。
「あーっ! お前、あたしを囮にしたな!」
『そ、そんなことないよ。ただ、黒木さんがモウリョウに囲まれてたから、その状況を利用させてもらっただけで』
「それを囮にしたって言うのよ!」
『まあまあ、ケンカはやめるネ』
『そうッスよ。勝てたから良かったじゃないッスか』
「良かないわよ! コイツ、やっぱりあたしたちのこと駒としか思ってないじゃない!」
『ミーはそうは思わないネ。ノゾムは前に飛び出し過ぎたミーたちに、的確な指示を出してリカバリーしてくれたんだヨ』
金髪の女闘士の言葉に、『うむ』、と頷く黒髪の女剣士。
『ウチものぞみんの指示がなかったら、これまでのようにいつまでも同じ場所に留まり続けて、モウリョウにやられていたッス』
「あんたたち……」
自分以外全員が望夢の肩を持ち、麗奈は悔しさと寂しさの混ざった複雑な唸り声を上げる。
だがモウリョウを殲滅し、全員無事だったのは事実だ。それも不動望夢の指示によって。
悔しいが、認めるしかない。
あいつが、自分たちの今のリーダーだということを。
「ああ、もう、わかったわよ。あたしを囮にしたことは許してあげる」
『よかった』
「その代わり、この後あんたのおごりでコンビニ行くからね」
『ふぇ!?』
『OH、それはグッドアイディアネ』
『うむ』
『ゴチになるッス』
『ちょ……ッ!?』
「ダメ。もう決まったから。それじゃあ残りのモウリョウもとっとと片づけて、ヘブドリでぱーっと豪遊よ」
『いぇーい!』
女子たちの歓喜の声に、望夢の抗議の声は完全にかき消された。