【第1話】悪魔、召喚しちゃいました ②
私たちは自宅マンションに戻って契約を交わしていた。
契約を交わすと、シリウスが魔導書を閉じた。
「契約成立だ。今この瞬間から我は貴様に手を貸そう」
これで彼と私の間に仮の契約が成立した。
だけどまだ正式な契約ではない。なぜかというと。
「まさか大切なものが一つも思いつかないとは……」
契約の儀式を終えたシリウスがボールペンを回して複雑そうに呟いた。
「ごめんなさいね。まさかこんな事になるなんて思ってなかったの」
「いや、謝らないでくれ。貴様が悪いわけではないのだから」
どうしてこうなったかというと、私は契約に必要なものを持っていないからだ。
* * *
悪魔の契約に紙やペンは必要ない。
必要なのは魔導書と双方の意志だけだ。
契約には対価として『契約者の一番大切なもの』が必要になる。
悪魔は契約者の願いを叶える。契約者は『自分の一番大切なもの』を対価に渡す。
ところが私はいくら考えても大切なものが思いつかなかった。
対価が決まらない以上は正式な契約ができないので、とりあえず仮契約という形に落ち着いた。
「でも仮契約できて安心したわ。あなたも野宿はつらいでしょうし」
「住まいならばどうにでも……いや、我の事は気にするな」
何か言いかけて気を取り直したように話を変える。
「しかしこの状況は思わしくないな。対価はさておき、貴様にはなにか大切なものを見つけなくては」
彼は本当に悪魔なのかしら。
「なんというか……あなたって随分と優しいのね」
「やめてくれ、本当に違うのだ。我より身勝手な悪魔など見たことがない」
身勝手なのは私のほうだろう。
あんなに曖昧な願いで彼を召喚してしまったのだから。
その結果彼は還れなくなってしまっている。
「……ごめんなさいね。あなたも早く還りたいでしょうに」
謝ると彼は慌てたように両手を振った。
「貴様が謝る事ではないのだ。今回は例外中の例外であって、本来は貴様のような人間の元に悪魔は現れないのだからな」
なのにどうして私は彼を召喚できたんだろう。
「何を犠牲にしてでも叶えたい願いを持つ人間が我らを喚び出すのだ。無欲な相手に契約を持ち掛ける悪魔など浅はかにも程がある……」
彼の横顔を見て私は気になっていたことを口にした。
「ねぇ悪魔くん。私あなたとどこかで会ったことがあったかしら?」
出会ったときから不思議だった。
見覚えがないはずなのに彼をなぜか懐かしく感じたのだ。
唐突な質問に、彼は困ったように視線を逸らした。
「我は一度会ったら名前を忘れられることはほとんどないのだが……」
「それもそうよね」
こんなに目立つ相手を簡単に忘れたりしないだろう。
「変な質問をしてごめんなさい。お茶を淹れるからちょっと待っていて」
初対面の男性を家に連れ込むなんて両親が生きていたら絶対に叱るだろう。
だけどもし両親が生きていたら、彼と出会うことはなかっただろう。
* * *
「甘い……これはいいものだな!」
紅茶と焼き菓子を用意すると、シリウスは嬉しそうに食べ始めた。
甘いものが好きなのかしら。
それにしても大切な人が欲しい、曖昧な願いをしたものだ。
最近ようやく諦められたと思ったのに、まだ自分には未練があるのだろうか。
考えてると彼が話しかけてきた。
「生贄よ、貴様は菓子が好きか?」
「好きか嫌いかで言えば好きかしら」
「それはよかった。では他に好きなものはあるか?」
「……どうしてそんな事を知りたがるの?」
そんなこと知っても仕方がないでしょうに。
「大切なものを見つけるためだ。何かを好きになれば、貴様は幸せに近づくからな」
「どうしてそんなに優しくしてくれるの?」
「ふむ、そうだな……」
彼は菓子を口に含んで考える。
ゆっくりと紅茶を飲んだあと、思いついたように笑顔を向けた。
「我はこれでも悪魔なのでな。願いを叶えなければ対価が貰えないではないか」
「……それもそうよね」
契約が彼の動機なら、期待して裏切られることはないはずだ。
「好きなものね。急に言われてもあったかしら……」
「ん? その本は貴様のものか?」
机に伏せてあった雑誌を手に取る。
「これは……図書室にいた娘だな」
「ええ、惚谷美恋さんよ。彼女、読者モデルをやっているから」
同じクラスの美人で明るい人気者だ。
姉の影響で読者モデルをやっているらしい。
学校一の美少女と名高くて、近隣高校で彼女を知らない人はいないだろう。
「悪魔くんも彼女が気に入ったの? 可愛いわよね」
彼女がいるだけで元気が出るような子だ。彼が気に入るのもわかる気がする。
「見る限り相性は良さそうだが。……こやつと仲良くなれたら貴様はどう思う?」
「私では彼女に釣り合わないと思うけど……」
「では生贄よ。貴様は相手が歩み寄ってくる相手を嫌いになるのか?」
「まさか。そんな訳ないじゃない」
そう答えるとシリウスは安心したように頷いた。
「それなら問題ないな。貴様は間違いなくこやつと仲良くなれる」
「……本当にそう思ってるの?」
シリウスは腕組みをして満足そうに頷いた。
「仮契約とはいえ、悪魔は契約者に嘘はつけないからな」
「じゃあ信用させてもらおうかしら。……ところで、さっきから気になっていたけどその呼び方は何?」
「仮契約の段階で契約者と呼ぶわけにはいかんのだ。本格的に契約が成立してしまうからな。できれば貴様も我の名前は呼ばない方が好ましいな」
「そうね。じゃあそうしましょうか」
そう言うと彼は少し落ち込んだようにうなだれた。
「もう少し寂しがってくれてもいいと思うのだが……」
自分で言いだした事なのに即決されると寂しいらしい。
彼は見た目よりもずっと傷つきやすいようだった。
* * *
あとは寝るだけという段階になって私は重要な事を思い出した。
「では我は休もう。貴様もしっかりと睡眠を摂るように」
シリウスが自室のドアを閉めようとする。
「あ、待って。その……」
喉が委縮して言葉が中々出てこない。
思い返せばもう何年もその言葉を言っていなかったから。
口ごもる私を彼は何も言わずに見守っている。
「……おやすみなさい。それと……これからよろしくね、悪魔くん」
「ああ、おやすみ。また明日」
穏やかな笑顔を浮かべて彼がドアを閉めた。
ドアが閉まる音を聞いて身体から力が抜けていく。
「……はぁ」
気づかないうちに緊張していたようだ。
誰かと暮らしていれば日常的に挨拶をする。当たり前のことだけど忘れていた。
少なくとも私はしばらくの間は一人ではない。
そう認識すると胸が温かくなった。
誰かが同じ家にいるとあっという間に時間が過ぎる。
そんな当たり前のことが恐ろしいほど嬉しかった。
こんなことで喜ぶなんて自分でもおかしいと思う。
だけど今までずっと一人だったのだから少しぐらい喜んでも許して欲しい。
慣れない経験をしたせいか眠たくなってきた。
とりあえず明日に備えて早く眠ろう。
私はスリッパを鳴らしながら自分の寝室に向かった。
* * *
駒乃がドアの前を去ったあと、与えられた部屋で魔法陣を展開させた。
魔界からこちらに私物を召喚してみようと思ったのだ。
しかし召喚は失敗した。
呼び寄せるはずだったのは魔界の伯爵から贈られた美術品だ。
確か骨董商人と契約した時の対価だったか。
「やはり正規の方法で無ければ界を渡すことは出来んようだな」
どうやら「対価で得たもの」だけは魔界に所有権があるらしい。
対価はあくまで魔界のもので悪魔個人に召喚する権限はないようだ。
長い年月を掛けて準備を整えつもりだが、そう簡単に計画通は進まないらしい。
抜け道がないことに落ち込んで、すぐに気持ちを切り替える。
仮とはいえ日鳥駒乃と無事に契約を交せたのだ。
接点を持てさえすれば彼女を救う希望はある。
だから今はまだこれでいい。
本来の目的を果たしたら、おそらく自分は二度と人間界に来られなくなるのだから。