3話
「私が……ですか?」
「うん。又木マネージャーには今のプロジェクトから外れて、別件の私のやつ引き継いでもらうから」
「ですが、ようやく軌道にのってきたところなのに……」
それは全く突然の通知だった。
都内のオフィスビル郡の一つ。一応、一部上場しているそれなりの大手企業らしい立地ではあるが、あまり広くはない1フロアに押し込められたオフィスだ。
時刻は昼前。パーティションで区切られたその隅の一角で課長から告げられた内容は、青天の霹靂にも思えるもの。マネージャーになってから何度目かの客先へのコンペ。それも今まで付き合いのなかったとある大手企業がクライアントだ。そこに渡りをつけ、他社に競り勝ち、さあ、これから……そんな時期だと言うのに。
「まあ、部全体の仕事のバランスでね。君ぐらいしか頼めそうなのいないから」
この仕事を取れたのは私たちのチームで積み上げた信頼があったからだ。それだって何度も客先に足を運んで情報を取り、慎重に営業と付き合いを繰り返した結果だ。それに対し、課長の仕事は先方があまりいい顔をしていない望み薄の仕事。
いいところだけ持っていかれ、都合の悪い仕事を押し付けられている。
正直、そんな気持ちは拭えない。でも、どんなに頑張っても、所詮会社の駒だ。上には逆らえない。
「承知致しました。では、課長の方の引き継ぎは……」
「ああ、大したことないからあとで資料だけ渡すよ。合併前にも似たような案件やってたはずだから、そんな難しくないと思うよ」
それに加え、うちの部署は元々別会社だったものを2年前の吸収合併で一事業部として取り込まれた側で、私も吸収された会社側の出身。対して、課長は合併後に異動してきた残った方の会社の人間。その分、立場の違いは普通の上司部下の関係に比べより顕著だ。
「ですが、一応__」
「問題ないって。あっ、もう外回り出なきゃ行けないから、後はよろしくね」
前にも似たようなことがあり、その時も引き継ぎが適当で客先から書類の不備を指摘されたのだ。そんなことがあったことを忘れたかのようにいそいそと出かける準備を始める課長に、食い下がるのを諦める。
「……承知しました」
「さすが、キャリア女子は違うなぁ」
こちらの返事を聞き気楽そうに笑うと、課長はそのまま外回りへと出かけてしまう。
「……あの、又木さん」
「ん? どうしたの?」
昼休みに入ってもバーティションで区切られたスペースで課長が残した書類とにらめっこしていると、入れ替わるように二人の女性社員が入ってくる。チームの部下の子たちだ。
だけど、その態度はどこか腫れ物に触るようで。自分でも気づかないうちに相当ひどい顔をしていたのだろう。気を使わせないように意識して明るい声の調子を出す。
「ああ、気にしなくていいよ。ごめんね、最後まで付き合ってあげられなくて」
「でも、あのプロジェクトほとんど又木さんの力で形になったようなものなのに」
そんなことないよ、とぎこちない笑みを貼り付けて告げる。それは本心だ。実際チームの仕事で、自分個人だけでどうにかなることなんて少ない。私が抜けて代わりに課長が入っても、プロジェクトは問題なく進むだろう。
でも。それでも。マネージャーとして人一倍努力したことは事実だ。そこに悔しさがないかと問われれば嘘になる。
「合併だからね……会社の決定だし、どうこう言える問題じゃないもの」
己に言い聞かせるように。そんな自分の気持ちと目の前の部下たちへごまかすために無理に笑ってみせた。
「でも、又木さんって本当すごいですよ。仕事もできて、男性管理職とも対等っていうか」
「ホント! 私たちなんて彼氏とか結婚のこととかしつこく聞かれたし」
だけど、溢れ出ている感情にうまく蓋をすることはできていないらしい。なんやかんやと励ますような言葉を向けられ、ありがたいと思うと同時に__少しだけ、そっとしておいて、とも思ってしまう。
「大人の女性って感じ!」
「本当、尊敬します!」
「……ありがとう」
なんとか嫌な感情を押し込めて、話題を変えるためにご飯にしよっかと誘う。これからのことを考えると憂鬱だが、踏ん張るしかない。そう気を取り直して午後からまた仕事に精を出す。
それから仕事の引き継ぎ資料を作るためにまた残業。ちらりとPCの時刻表示を見れば、時計の針は23時を過ぎている。思わずフロアを見渡したけど、何年か前に行われた何度目かの働き方改革なんて施策と社内のコンプライアンス整備で役付き以外の社員はみんなすでに帰宅している。残業時間の制限がない管理職は残っていることも多いが、うちの課が入っているフロアにいるのは自分だけ。そうでなくとも週末の夜だ。家庭のある人は家族サービス。同じ課で独身の若い子たちも予定があるのだろう。
(……まあ、私だって予定あるし)
ドラゴンハウンダーをプレイするというだけの予定だけど。
ご飯はもう食べなくていいやなどと思いながら、印刷機の電源やフロアの電灯を落として帰り支度。チェックを終えて帰ろうとしていた時だった。
スマホのバイブレーションの振動が静かなオフィスに満ちる。薄暗闇の中で表示されたのは、見慣れた通話アプリのプロフィール画面。
『もしもーし。わたし、わたしー』
赤ん坊の写真__昨年妹夫婦に生まれた姪っ子の写真が表示されたスピーカーから響くのは、子供の頃に流行っていたオレオレ詐欺のような切り出しで話始める女性の声。鷹揚にも、どこかちゃかしたようにも聞こえるのんびりとしたその口調の主は実家の母だった。
「……どうしたの?」
『あっ、そうなの! あんた、ホッシーの新曲買った? 私今日買ったんだけど、やっぱりいいわね~。ますますファンになっちゃった』
いや、知らんがな!?
てゆーか、なぜ私がファンである前提なんだろう……
ホッシーとは母が最近熱を入れている男性シンガーソングライターでドラマとかにも出てるマルチタレント……らしい。正直名前と若い子たちに人気なことぐらいは知ってるけど、最近家に帰ってもテレビをまともに見ないのであまりよくは知らない。母はミーハーで良く言えば明るく無邪気な人。言い換えれば空気の読めないちょっと無神経な人でもある。
現に疲れて早く帰りたいこの時間。気づいてくれることに期待して素っ気ない短い返事や曖昧なごまかし笑いを会話に混ぜても、母はこちらの意思に一向に気づく気配はない。
薄暗闇のオフィスの出口付近で一人突っ立って会話するというなんだか産業スパイみたいな構図。適当に相づちを打っている内に、内容はいつしか同居している妹夫婦の姪っ子が初めてつかまり立ちした話に移っていた。
『私も元気なうちに孫と遊びたいわね。あんたは誰かいい人いないの?』
嫌な予感がした時には万事休す。今、最も聞かれたくない質問が飛んでくる。
__本当の君がよくわからないんだ
同時に思い起こされるのは、3年前に別れを告げられた彼の捨て台詞だ。
「今はいないかなぁ……」
『えー、ほんとうにぃ?』
……これが本当に何もないから答えに困る。なんとか苛立ちを口調に出すまいと努力し、声に出さないため息を漏らす。離れて暮らす期間が長いせいかいつしか実の家族にもこんな風に気を使うようになってしまった。
「もうそろそろ会社出なきゃ終電間に合わないからまた今度ね」
『えっ!? あなたまたこんな時間まで会社いるの~? だめよー、30代を甘く見ちゃ。まだ序盤だからわからないでしょうけどね、若い時と同じ感覚でいると__』
「あー、はい。わかったから」
それでも、最後は抑えきれずにいた感情が思わず漏れてしまう。次の会話を切り出される前に強引に通話終了ボタンをタップすると、大きく息を吐き出してオフィスを後にした。
「お客さーん。着きましたよ」
「……えっ、あっ、すいません」
運転手さんの少しイラついた声にはっとした。夢と現実の間にいたようなうとうとした状態から一気に現実に引き戻され、慌てて財布を取り出す。この時間にはもうバスはない。いつもは歩いて帰ったりもするけれど、今日は先週から続いていた残業の疲れに思わずタクシーを呼んでしまったのだ。
バタン、とタクシーの自動ドアが閉まると、後に残るのは周囲にこだまする秋虫たちの声だけ。その中に小さな吐息を混ぜながら、なんとなくタクシーに揺られている間に見ていた夢を思い出す。
思い起こす記憶と一緒に心を支配するのは、周囲への苛立ちと自分への嫌悪だ。
(だってさ……仕方ないでしょ)
仕事も。付き合いも。両親や彼との関係も。
この社会で生きていくためには色々大変なのだ。
わかってる。きっとそこまでの明確な悪意も、裏もない。被害妄想染みた自分の器量の少なさがその原因なことも。普段はみんなただの善良な社会人で、心配してくれている母親だ。別に職場の同僚や母が特別悪い人だなんて思ってない。自分だって、無意識のうちに誰かに不快な思いをさせてるのだろうし、きっとこの世界に完璧に正しいって自信を持って歩める人なんているはずない。
だけど。最近、こんな思いに支配される時間が多くなってしまっている。
思えば週末ドラゴンハウンダーをプレイするようになったのも、それを自覚するようになってからだ。たまたま見かけた電車内のディスプレイに表示されるCM。ゲームなんて学生時代に付き合いでアプリのソーシャルゲームぐらいしかやったことなかったけど、なぜか『狩って! 狩って! ぶっ飛ばせ!』というありきたりなフレーズに、その時、強く惹かれてしまったのだ。
アパートの階段を上がり、我が家に着く。
玄関ドアに付属している郵便受けには読みもしないチラシや地域のフリーペーパーが押し込められている。ひらりと何枚かの紙が落ちたが、構わずそのまま踏みつける。たぶんガスか電気水道か。公共料金の請求書だ。ここ数年、友人の結婚式の招待状以外、大した知らせなど来た試しがない。
家に帰ると、そこにあるのはただただ静まり返った部屋。
耳の奥に響くのは目覚まし時計の秒針の音だけ。時刻は午前5時前。思わずテレビをつける。どこかで聞いたことのあるニュースが流れている。適当に変えたチャンネルの先では、にこやかアナウンサーの笑顔が咲いている。まるで異世界みたいな光景だった。
(いつからだっけ?)
静寂を紛らわすためか。いつの間にか内容を観もしないテレビをつける習慣がついたのは。
そのままメイクを落とすして、シャワーを浴びるとボロボロでくすんだ荒れた肌が現れる。平日は夜遅くまで残業。週末はドラゴンハウンダーをプレイする毎日。そうなるのは必然だった。
部屋の隅に積まれっぱなしの本。録画された番組は、ハードディスクの中で眠っている。
平日仕事しているときは、あれこれしようと計画を立てるけど、いざ週末を迎えてみれば何もしない。何もできない。数年前からそんな日々が続いてた。文章を読む気力も湧かず、ドラマや映画、映像を眺めることすら気が進まないのだ。
何もしたくない。そういう訳ではない。むしろ、何かしなくちゃという義務感に近い気持ちすらある。
でも、いつの間にか日が暮れていき、夜になり、そして一日が焦った気持ちのまま終わっていき、また一週間が始まっているのだ。
このまま眠りにつけば、きっと起きるのは昼過ぎだ。また貴重な休みを無駄にしてしまったと後悔しながら貯まった家事を片付けて、夜になり、明日は色々しようと決意し……結局何もしない。同じことの繰り返しの週末は、矢のように早く過ぎていく。
たぶん無意識のうちに、どんな娯楽にもそれほどの価値を感じていないからなのかもしれない。
部屋の真ん中で一人、誰が聞くでもないため息をついた。
玄関廊下に面したキッチンには置きっぱなしのコップとへこんだまのビールの空き缶が点在している。水を仰ぎ飲んで、ふと目についたのは部屋に釣り干された洗濯物。昨晩は雨が降っていたため、部屋干ししていた洗濯物のせいで湿気が部屋に重く満ちている。外干ししようとベランダのドア窓を開けると、秋虫の合唱と一緒に飛び込んでくるのは、肌寒い季節の変わり目の風。青臭い郊外の夜の匂いだった。
洗濯物を干し終わった後、ビール片手にふとベランダから何も見えない明け方の虚空を眺めた。
天気が悪い時以外、最近、週末の夜はいつもそうだ。学生時代の友人や同期のほとんどは家庭を作り、地元は遠く離れた東北の片田舎。
一緒に過ごす相手は、いない。
__さすが、キャリア女子は違うなぁ
__本当、尊敬します
__私も元気なうちに孫と遊びたいわねぇ
__本当の君がよくわからないんだ
(……結婚か)
ほろ苦いビールを口にちびちびと含みながら、今日バスで隣に立っていた同じ年くらいのサラリーマンと偶然付き合うことになり、結婚するまでの過程を妄想してみたけど、奇跡が100回ぐらい起きないとあり得なそうなので、情けなくてやめることにした。
一人暮らしの夜は、何かをしようとすると忙しすぎて、何もしないと忘れていた孤独と不安に心をせき立てられる。余計なことを考えないようとにかく暇じゃない時間を作らなければと。
昨日も、一昨日も、その前の日も。
今日頑張れば、明日は状況が好転する。そんなことばかり思ってた。だけど、そんなことはないと心の奥ではわかっている。何も変わらないのは、何も変えようとしない自分のせいだというのもわかっている。
夢もない。趣味もない。自由な時間もそれほどない。お金だけは……まあ人並みにはある。残業に休日出勤と引き換えに、だけど。
「はあ」
昨日と同じ今日。
今日と同じ明日。
明日と同じ昨日。
まるで獲物を狩っては拠点に帰り、セーブする流れを繰り返すゲームのように。
自分にあるのは、同じ毎日を繰り返す今日だけだ。
いくらキャリアを積んでも週末の夜にやるべきことも、一人にならない方法も見つからない。
この空っぽの週末が、自分の人生を凝縮した縮図のように思えた。
地元のことを考えたせいか、帰省した時の実家を思い出す。両親は孫にメロメロで、義弟さんとの仲も良好で信じられないくらい丸く収まっている。それを見て、なぜか自分だけ何も繋がっていない異物のような気がした。
専業主婦の母は裕福な家庭で育ったのでどこか世間ずれしていた。自分でも性格悪いとわかっているけど、私はそんな母のことを少し見下してて、そんな自分が嫌で必死に仕事をしてきた。新卒の頃、何もわからず恥ずかしくて、後悔して、それでもふんばって。どうしようもなく悩みながらがむしゃらにやってきた。
たくさんの仕事を任されて。期待されて。それに応える。あの頃の自分では考えられない。今の私は昔の私が目指した場所にいるのかもしれない。
でも、それなのに。
最近、ふと何か得体の知れない不安がよぎることがある。何かやることを見つけて頭をいっぱいにしなければ、はち切れてしまいそうになる。
「飲まなきゃやってらんない」
そんなことを呟きつつ、薄い朝焼けの何もない虚空を眺めていると、夜通しプレイしていたゲームの中の綺麗すぎる景色が見える気がした。
きっと、ドラゴンハウンダーを始めたのは__そこで難しいことを考えずに一掃できるスカシペスばかりを狩るのは、何かやるべきことを作るためだ。そうしている間は、何も考えずにすむから。
ふと、私の分身であるアバターの少年の姿が脳裏をよぎった。
もしドラゴンハウンダーの世界が本当にあって、彼が実在するなら、あの子もそんな思いにとらわれたりするのだろうか。
(アホらしい)
アルコールのせいか。そんな子供染みた想像なんてしてみたけど、三十過ぎてこんなメルヘンチックな考えをしている自分がさすがに恥ずかしくなり、喉元に押し込んだビールの泡と共に洗い流した。