宰相
エルメスがアムネジアと共に会場から出て行った一時間後。
盛り上がる生徒達から離れた奥のテーブルでは、彼らの親である貴族達が談笑していた。
その中でも一際人が集まっている場所の中心には、国王であるベルスカード四世がいる。
ベルスカード四世は息子の第二王子フィレンツィオの卒業を祝うために、この場に来ていた。
そこへ、厳めしい顔立ちをした白髪交じりの男が、金刺繍の黒いタキシードをなびかせながら近づいていく。
ガストン・ヴィラ・ネェロ――ベルスカード王国宰相であり、エルメスの父親である。
その姿を見た貴族達は慌てて頭を下げて道をゆずった。
ガストンはそれが当たり前だと言わんばかりに、自分の前に開けた道を行く。
そして王の前で足を止めると、恭しく会釈をして言った。
「ご機嫌麗しゅう、国王陛下。この度はご子息であるフィレンツィオ様のご卒業、おめでとうございます」
ガストンの顔を見て王は顔をしかめる。
悪徳にまみれ、悪い噂の絶えないこの宰相を、王はなによりも苦手としていた。
「……何用だ。このようなめでたい場所で、お前の長ったらしい小言など聞きたくないぞ、私は」
「滅相もない。今宵の私は宰相ではなく陛下と同じ一人の親として、子供達の人生の門出を祝おうとはせ参じただけでございます」
そう言ってガストンはにやりと口元をゆがめる。
その邪悪な笑みを見て、王は目の前の男がまたなにか良からぬことを企んでいると悟った。
しかしガストンを処罰しようにも、ずる賢く周到なこの男は絶対に証拠を残さない。
何か決定的な失態でも犯せば処分のしようもあるが、宰相になってからガストンの悪事が露見したことはただの一度もなかった。
ゆえに王にできることといえば、ガストンの謀がうまくいかないように、あらかじめ釘をさすことのみである。
「子供の門出を祝いに来たか。その割にはこの会場に来てからやっていることといえば、集まった自分の派閥の貴族に声をかけているだけに見えたが。なにか謀でも企んでいるのではなかろうな?」
「見ていらっしゃったとはお人が悪い。ですが、話をしていたのは本当にただの暇つぶしですよ」
半目でにらみつけてくる王に、ガストンは肩をすくめて言った。
「私とて娘を祝ってあげたいのですが、会場を一通り探してもなぜか姿が見当たらないのです。一体どこへ行ったのやら」
「そんなことを言って、娘も子飼いの鳩とやらに見張らせておるのだろう? 有名だぞ。そなたの目が届かない場所はこの国には存在しないとな」
「敵が多い私は臆病者なものでして。それくらいに念を入れねば不安で夜も眠れないのです。まったく、恐ろしい限りですな人の持つ負の感情というものは」
狸が、と内心で舌打ちをしながら王は不機嫌そうに鼻を鳴らす。
それからワインを一口で飲み干した王は、さすがに不機嫌な態度を取り続けるのは問題があると思ったのか、少しだけ相好を崩して言った。
「しかし奇遇だな。私の息子も先程からまったく姿が見えないのだ。この卒業記念パーティーでなにか私に見せたいものがあると言っていたのだが、一体どこへ――」
王が言い終える前に、不意に会場内でどよめきが起こった。
何事かと王をふくむ貴族達がどよめきの中心地である生徒達の方に視線を向ける。
そこには、制服を着たフィレンツィオとアムネジアの姿があった。
どうしたことか、アムネジアはうつむき弱々しい足取りで、頭から足元までを真っ赤な液体で染めている。
フィレンツィオはアムネジアの肩を抱きながら、緊張した面持ちで周囲を囲む生徒達を見渡した。
ただ事ではない二人の様子に、困惑していた生徒達だったが、突然男子生徒の一人がアムネジアを指差してさけぶ。
「血、血だ……こ、この赤い染みはすべて人の血だ!」
その瞬間、どよめきは悲鳴に変わった。
アムネジアがかぶっているおびただしいまでの血の量から推測すれば、それが誰かから浴びた物であるならば、確実に致死量であることは容易に想像できる。
そこから導き出される答えは、この卒業記念パーティーの会場で殺人に値する出来事が起こったということだ。
「静粛に! 静粛にせよ! 皆の者!」
混乱の極地にあるその場を王が一喝する。
大ホールに響き渡る大音声によって、悲鳴をあげていた生徒達が押し黙った。
王は顔をしかめながら、大股でフィレンツィオに歩み寄る。
周囲の視線が集まる中、大ホールの中心でフィレンツィオと対峙した王は、眉間を押さえて怒りをこらえながら、重々しく口を開いた。
「フィレンツィオよ。そのアムネジアの姿は一体どういうことだ……? 」
返答によってはただではおかない。
そんな剣呑な雰囲気を漂わせる王に、フィレンツィオは唾を飲み込んで言った。
「ち、父上がおっしゃりたいことは分かります。周囲の皆も、アムネジアの姿にさぞ驚いたことであろう。だが落ち着いて俺の話を聞いてほしい」
両手を広げたフィレンツィオは、ゆっくりと周囲を見渡す。
そして感情的な彼に似つかわしくない、語りかけるような厳かな口調で言った。
「アムネジアがこの学校の多くの生徒から虐待を受けていた事実は、皆も知るところだと思う。将来俺の伴侶となるアムネジアの身を憂慮した父上と母上が、一切の不当な行為を禁じたのも記憶に新しいことだろう。しかし!」
広げた両手を握りしめて、フィレンツィオが歯を食いしばりながらさけぶ。
「我が国の王である父上と王妃である母上のお触れが出てなお! アムネジアに対して害意を持ち! あろうことか、この卒業記念パーティーの場で、彼女を亡き者にしようと企んだ者達がいる!」
その言葉に、静けさを取り戻していた会場が一気にざわめいた。
「暗殺って……流石に洒落にならないぞ。一体どこの馬鹿がそんなことを」
「たしか手を出したら家柄に関わらず厳罰に処すって……」
「いや、殺害未遂とあっては厳罰どころか処刑もありえるだろう」
懐疑的な声も漏れる中、フィレンツィオはアムネジアに向かってうなずいた。
アムネジアはうつむいたまま一歩足を踏み出す。
血にまみれた顔をあげたアムネジアは、生徒ではなく貴族達に視線を向けた。
「その者達の首謀者の名は?」
フィレンツィオがアムネジアに向かって問いかける。
アムネジアはゆっくりと手を上げて、その者を指差した。
「――エルメス・ヴィラ・ネェロ様。そこにいらっしゃる宰相ガストン・ヴィラ・ネェロ様のご息女にございます」




