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鮮血

 頭を下げるライエルに、アムネジアは首を横に振って言った。



「どうか頭をお上げください。ライエル様が謝られることではありませんわ」


「いや、そういうわけにはいかない。父上と母上に聞いた話によれば婚約破棄だけでなく、君は常日頃から弟や学校の生徒達から不遇な扱いを受けていたというじゃないか」



 顔を上げたライエルが心配そうなまなざしをアムネジアに向ける。

 ライエルが今までアムネジアを気にかけながらも、長い間多くの者達にいじめられていたことに気が付けなかったことには理由があった。


 まずライエルは三年制の貴族学校に一年しか通っていない。

 年齢から言えば17歳のライエルはアムネジアの一つ上の学年に在籍していたはずだった。

 だが、幼少の頃からあらゆる学問や教養、剣術や魔術をたしなみ優秀だったライエルは、入学して一年で卒業の資格を得てしまう。


 それ以降は国内外を飛び回って、領地を視察をしたり、他国との交渉の場におもむいて外交を学んだりと。

 将来国を治めるために必要な能力を養っていたため、ライエルはここ二年、ほとんど王都にいなかった。

 今ここに滞在しているのも、一時的に帰ってきているだけで、すぐにまた国境沿いの領地に移動する予定である。

 そんな多忙なライエルに、学校内で徹底的に隠蔽されてきたいじめの事実を知ることなど、できるはずがなかった。


 今回も国王夫妻の前で、フィレンツィオがいじめと虐待を公言しなければ、婚約破棄の失敗だけが知れ渡っていたことだろう。



「遠く離れた場所にいても、ずっと君のことを気にかけていた。久しぶりに国に帰ってくるたびに、君が婚約破棄を宣言された、などと聞かされた時には……怒りのあまり実の弟を殴ってしまいそうになったよ。いや、弟だけじゃない」



 ライエルは拳を握りしめて、悔しそうに顔をゆがめた。

 そうできなかった自分を悔いるかのように。



「……それを知っていながら黙認し、いじめに加担していた学校の生徒達も同罪だ。この時ばかりは自分が王族に生まれたことを呪ったよ。自分がもし立場に縛られない一人の男であったなら、君をいじめた奴らをこの手で片っ端から殴ってやるのに、と」



 ライエルは震える手でアムネジアの手を握る。

 そしてその手に懺悔するかのように頭を垂れると、穏やかな声音で言った。



「もう大丈夫だから。私が、父上が、母上が、君を守る。もう誰にも君を傷つけさせない。だから安心していいんだよ」



 そう言って顔をあげたライエルは、目に涙を浮かべて笑っていた。

 アムネジアが壊れてしまう前に、間に合って良かったといわんばかりに。



「……っ」



 アムネジアはうつむいて歯を噛みしめる。

 余計なことを、と内心では思っているのに、ライエルを邪険に扱うことができない自分に苛立った。自分のことを少しも疑っていない、馬鹿がつくほどのお人好しっぷりに腹が立った。



「どうして、貴方はそんなにも――」



 アムネジアは拳を握りしめる。

 なにが世界で最も尊い物である君の瞳だ。

 それはこんな怨嗟と憎しみで濁りきった私の瞳ではなく。

 この眼に写り込んでいる、自分の碧眼ではないかと。


 ゆえにアムネジアは思った。

 その穢れない透き通るような青を、めちゃくちゃに汚してやりたいと。

 そうすれば、二度と自分に対して、美しいなどと間の抜けたことは言えなくなるだろう。

 だから――



「……誓っていただけますか?」



 薄暗い闇の中で、アムネジアは消え入るような声でささやいた。

 それは、天使を堕落させる悪魔のささやきだった。



「たとえどんなことがあっても。命を賭して私を守って下さると」



 そう言って、アムネジアはソファから立ち上がる。

 歩み寄ったアムネジアは、ライエルの傍に立ち見下ろした。



「アムネジア……?」



 アムネジアはテーブルに置かれていた果物ナイフを手に取る。

 ライエルは怪訝な顔でアムネジアを見上げた。

 そんなライエルの視線を受けてアムネジアは薄く微笑む。

 そしておもむろにナイフを自らの手首に当てると――



「なっ!? なにをしているんだ君は!」



 躊躇なく、切り裂いた。

 じわりとにじみ出た赤い血は、アムネジアの白い手首を伝う。

 それはぽたり、ぽたりと音を立てて床に敷かれた絨毯を濡らしていった。



「――ライエル様」



 アムネジアは血が滴る手首をライエルの顔に近づける。

 そして、紫紺の両眼を大きく見開いて言った。



「この血に賭けて、誓って下さい。絶対に約束を違えないと」


「血に賭けて……? い、いや、そんなことより手当て、を……」



 かなり深く切ったのか、アムネジアの手首からは勢いよく血が溢れている。

 すぐに手当てが必要な状況だった。

 それなのに、ライエルは流れ出る血と傷口から目が離せずにいた。

 その頬は紅潮し、激しい運動をした後のように動悸が激しくなっている。



「わ、私は……」



 ライエルはその感覚に覚えがあった。

 それは大量の酒を飲んだ後になる症状と良く似ている。

 そう、ライエルは酔っていた。アムネジアの血に。

 その甘く芳しい、命が形をなしたかのような鮮血のワインに。



「さあ、ライエル様……“血の誓約”を」



 酩酊感に誘われるように、ライエルはアムネジアの手首に顔を寄せた。

 そして、傷口を覆うように唇を重ねる。



「――この血にかけて、誓おう。私は君を守る。どんなことがあっても、必ず」



 ライエルが手首に口づけている様を見下ろしながら。

 アムネジアは密かに口端を釣り上げた。

 それは、大切にしていた玩具を壊す喜びを覚えた子供のように。

 純粋で無邪気な微笑みだった。


 しかし、その笑みは一瞬にして緊迫の表情に変わる。



「――本性を表したな、女狐め」



 殺意を帯びたザラつく低い声と共に。

 闇を切り裂く一筋の銀光が、鋭い風切り音を立ててアムネジアの首に振り降ろされた。

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