もう、帰っていいですか
介助に入るたびにセクハラするくそジジイに豪快に右ストレートを決めて、早10日。
平手でだが、流石に拳はできなかった。
「十中八九クビだろうな。まぁいいけど」
元々介護の仕事にやる気も遣り甲斐もなかったし。
約1週間ぶりの職場、嫌すぎる。
「辞めてからどうしようか」
ああ、働かずして遊びたい。
憂鬱な気分で事務所に入り応接室の扉をあける。
「失礼します」
社長とケアマネージャーの日野さん、上司のサービス提供責任者の坂上さんが座っていた。
一礼して3人に向かい合うように座る。
「今日来てもらったのは結城さんに入ってもらいたい利用者がいるの」
ケアマネージャーの日野さんが口にした言葉に驚く。
「えぇ!?」
あまりにも想定外な言葉に素っ頓狂な声が出る。
「確かに利用者に手を挙げるのは許されない行為。でも、田中さんのセクハラも度がすぎてたから
いい薬になったでしょう」
と社長が言う。
「ほかのヘルパーからも苦情が多かったので契約を切ろうと考えたてたところですよ」
と坂上さんが続ける。
「被害届とか出されなかったんですね」
私は疑問を口にする。
「相当怒ってたけど、セクハラ行為について聞いたら黙ったよ」
当然のように出てきた答えに憤慨する。
「じゃあ私が田中さんをぶん殴らなかったらずっとセクハラを見て見ぬふりだったんですか」
理不尽な行為をされても労働者は我慢するしかないなんて納得いかない。
こんなことになるまで、苦情も来てたのに、今の今まで見て見ぬふりかよ!!
「結城さんが言うことはもっともです。私たちは反省しなければいけない。
結城さん。もう一度だけ私たちを信じて仕事をしてくれませんか」
日野さんが深々と頭を下げる。
「結城さんに是非、入って欲しいの。彼女の"最期"の日々が少しでも有意義にすごせると思うの」
「最期の?」
「今回の利用者、麻生さんの成育歴です」
利用者の成育歴が書かれた資料を渡されて目を通す。
『名前は麻生凛子。年齢は43歳。
大学卒業から結婚するまでは幼稚園教諭として公立幼稚園で勤務。
29歳で結婚。31歳で双子の出産。
40歳のときにステージ3Aの子宮頸がんが発見される。
2年半に懸命に治療したが1か月半前に標準治療の打ち切りと余命4ヶ月を宣告され介護申請。
要介護度4。
本人の希望によりホスピスではなく自宅での生活、看取りを希望している。』
書いてある内容に衝撃受ける。
今まで私が受け持っていた利用者は高齢者だけ。
2号被保険者、しかも末期がんのターミナルケア、なんで私が……あまりにも荷が重すぎる。
「え? あ、はぁ。でも、なんで私なんですか。荷が重すぎる。ヘルパーなんてたくさん居るのに」
「実はこの麻生さん、私の従姉妹なの。それで彼女に結城さんのことを話したら、
に是非来てもらいたいと言ったんです。
それに、私も公私混同かも知れないけどケアマネとしてではなく
従姉妹として結城さんがいいと私も思ったの」
日野さんが少し悪戯な笑みを浮かべる。
一体なにを言ったんだよ!?
まぁ……必要とされて悪い気はしない。
新しい仕事を探すのも面倒くさいし。
「……わかりました。いつからですか」
「来週からお願いします。時間は原則、月水金曜日の10:30~14:00。火木曜日は10:30~12:30。
詳しいことは土曜日の15:00から行うサービス担当者会議で話します」
「では、土曜日14:00に事務所に来てください」
「はい。わかりました」
土曜日、14:00前に事務所に向かい日野さん、坂上さんと一緒に麻生さん宅へ向かう。
「朗らか訪問介護事務です」
「こんにちは。どうぞー」
30代半ばくらいの少し小柄で優しげな雰囲気の女性が私たちを招き入れる。
「よろしくお願いします。麻生さん」
この人が麻生さんか一見には余命4ヶ月には全く見えない。
「よろしくお願いします。なんて水臭いよ~。貴子ちゃん」
と女性が微笑む。
「今日は仕事で来たんだからプライベートのようにはできないわ」
「よろしくお願いします」
私と坂上さんもあいさつをする。
部屋の中には若い女性が座っていたと白衣を着た男性が座っていた。
私たちが着席にすると、男性がお茶を持ってきた。
「みなさんそろいましたので。
少し早いですが、麻生凛子さんのサービス担当者会議を始めたいと思います」
「司会はケアマネージャーの日野が務めさせていただきます」
「では、まずは自己紹介からいたしましょうか」
「麻生凛子です。みなさまよろしくお願いいたします」
「夫の麻生悠一です」
「朗らか訪問介護のケアマネージャー、日野貴子です」
「朗らか訪問介護の坂上麻由美です麻生さんのサービス提供責任者を担当します」
「朗らか訪問介護のヘルパー、結城愛佳です」
「こころ訪問看護事業所の高橋雪菜です。よろしくお願いいたします!」
「主治医の四葉会総合病院の佐伯創です」
「麻生さんの本人とご家族にアセスメントを行い。総合的な支援の方針、短期目標、長期目標をケアプランにまとめました」
麻生さんのケアプランが配られる。
みんな、渡されたケアプランに目を通していて幾分か無言の時がすぎる。
「ケアプランの内容も大事ですが、ご本人の声が最も大事だと思いますので
麻生さん要望などありますか?」
無言の時を日野さんが破る。
そして、麻生さん口を開く。
「私が死ぬのが3か月、半年かもしれない。でも、明るい未来について考えたいんです
今までこんなことやったら恥ずかしいと思ってきたことを楽しみたいです。
やりたいことを我慢しない、いろんなことに挑戦したいんです。
なので、みなさんよろしくお願いいたします。私の最期の挑戦を支えてください」
しっかりとした口調で麻生さんはまっすぐ私たちを見た。
その表情には死に向かう悲壮感は感じなかった。少なくとも私には。
「私からもお願いします。家内の夢をサポートしてやってください」
頭を下げ絞り出すような声で旦那さんが言う。
「私からケアマネとして皆様にお願いします。さて、次の議題ですが……」
それから、しばらくの時間、本人、家族、各担当者で意見交換が行われた。
終了時刻になり会議が終わり、各々のあいさつ、名刺交換等が終わり帰り支度をしていると
麻生さん話しかけてきた。
「特にヘルパー結城さんにはいろいろムチャぶるかも知れませんが……
あ、ちゃんとホームヘルプのルールの範囲内にするので安心してくださいね」
「大丈夫です。仕事ですから」
「明後日、うちに来る際に眼鏡、できれば保護用。あと、雨がっぱを持参してくれませんか?」
「はぁ、はい。わかりました。では明後日の10:30、よろしくお願いします」
日野さん、坂上さんと麻生さん宅をあとにした。
2人は事務所に戻るらしいので幸いすぐに1人になれた。
(最期の挑戦を支えて欲しい)
頭の中でその言葉がずっと離れない。
私が嫌々仕事をしているヘルパーだというのを聡明そうな彼女ならわかりそうなものなのに。
麻生さんの意図全く理解できないまま、月曜日を迎えることとなった。
麻生さん宅初日。
サービス担当者会議で言われた雨がっぱと保護メガネも持参した。
初日なので少し早めの勤務時間15分に家の前に到着しインターホンを押すが応答がない。
「麻生さん。ヘルパーの結城ですが」
もう一度押すがやはり返答がない。
このとき、私の中で人の可能性がよぎった。
過去にインターホンに応答がなく利用者が家の中で倒れていたということがあった。
少し震える手でドアを引く。
「開いてる……!!」
私は駆け足で家の中に入り麻生さんを探す。
そしてリビングで倒れている姿が見えて急いで駆け寄る。
「麻生さん!!」
大きめの声で呼びかけ体にも触れるが反応がない。
急いでカバンの中にある携帯電話を手に取って119番しようとしたとき……
「大丈夫、大丈夫。ごめんね。びっくりさせちゃって」
麻生さんは、てへぺろ顔をしながらむくり、と起き上がった。
「え?」
「よかったぁ!! ドッキリ大成功♪」
「は??」
「結城さん。今日からよろしくお願いしますね」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしているであろう私に
そう言って彼女は笑いかけた。
とんでもない利用者のところに来てしまった。
もう帰っていいですか。
実際の介護事業所、ホームヘルプの現場とはかけ離れた表現、描写があります。
この小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。